第19話 日溜まりの血溜まり

 十時間を超える難産だった。妊婦は十七歳、初産で、逆子だった。産気づいたのは夜で、すぐに医者が呼ばれたが、今はもう闇が白々とほころび始めた気配があった。妊婦の体力は限界に達していた。


 室内は血の海だった。昨年結婚したばかりの夫婦の寝室は、質素ながら清潔に保たれていた。

 少なくともこれまでは。

 獣染みた唸り声を上げベッドの上で身悶えている妊婦の下半身は、赤くぐっしょりと濡れ、シーツにも染みが大きく広がっている。彼女と同い年の若い夫は、部屋の外で耳を塞いで歯を食いしばっている。狭いキッチンには同居する夫の両親も血の気を失った顔でテーブルについている。


 両手を血に染めた医者が寝室から出てきて、首を横に振った。泣き崩れる姑。天を仰ぐ舅。医者は、母体は出血が多くどの道助からないが、赤ん坊だけなら救えるかもしれない、と放心状態の夫に告げる。許可をいただけるなら、帝王切開で赤子を取り出そう、と。


 赤子を取り出すとはどういうことなのか説明を受けた夫は、青い顔から更に血の気が引いて、今にも倒れそうな様子であった。しっかりしろ、と彼の父親が彼の頬に張り手を二発食らわせる。

 マリアのことは諦めるしかない。だが赤ん坊は助けよう。


 唇の端が切れ血を滲ませた夫は、医者に向かって、弱々しく頷いた。医者は全力を尽くすと言い残して、再び寝室の中に消えた。


 そして半時も経たないうちに、弱々しい赤子の泣き声が聞こえ、キッチンに居る大人達は安堵と絶望の入り混じった息を漏らした。


 医者に呼ばれて夫がおずおずと寝室に入ると、惨劇の後のように血飛沫が壁まで飛び散った部屋のベッドに、既にこと切れた妻が横たわっていた。胸のところまで毛布がかけられていたが、腰の辺りを中心に赤い染みが大きく広がっている。汗で光る彼女の顔はやつれてはいるが、穏やかだ。しかし、若い夫は、彼女の額に汗ではりついた髪をのけてやろうとさえしない。ガラス玉のように空を凝視する目を閉じてやったのは医者だ。


 部屋の中に湯を張ったタライが運び込まれ、医者は丁寧に赤子についた血を拭い取った。体を乾かされ、清潔な布にくるまれた小さな弱々しい命を、医者はベッドサイドに跪いて泣いている夫に手渡した。夫は涙でぐしゃぐしゃになった顔で我が子を見つめた。


 男の子ですよ、と医者は言い、彼の肩を優しく叩いた。


 医者は道具を片付け、寝室の後片付けを始めた姑に別れを告げた。


 医者を玄関まで送りながら、姑は丁寧に礼を述べた。あなたのお陰で、子供だけは一命をとりとめた。これは神のご加護だ。と胸に下げた十字架に口づけをした。


 ドアを開くと、疲労の滲む医者の瞳に、丘の向こうから上ってくる太陽の光が射るように差し込んだ。彼は眩暈を覚え、ふらついた。姑は驚いて、夫を呼んだ。彼は歳をとっていたが、まだまだ現役の屈強な農夫だ。舅は医者の腕を支えて、キッチンに運び込んだ。


 これは気付きませんで、先生もさぞお疲れでしょう。朝食の準備はできています。貧しい農民の食事ですが、温かいミルク粥を召し上がれば、少しは気分がよくなるかもしれません。と老いた父親は言った。


 そういえば、空腹であることをすっかり忘れていた。まことにかたじけないことだが、食事を呼ばれることにしよう。と医者は言った。

 そして彼は、老いた舅と姑、妻を失ったばかりの夫と、生まれたばかりの赤ん坊を、皆殺しにした。



「どうしてそうなるのかしら。全く理解に苦しむわ」


 と妻のマリアは言った。腹を立てるとこめかみに青い血管が浮き出て一層魅力的になる、と夫のミフネヤは密かに思っているのだが、勿論口に出すほど愚かではない。


「だから、空腹が耐え難かったんだ」


 彼は肩をすくめて言う。


「難産に苦しむ妊婦と二人きりで、彼女は大量に出血していたんでしょう。いくらでもつまみ食いできたのに、一体何のために一家全員手にかける必要があるのよ。しかも、わざわざ母親の命を犠牲にして命を救った赤ちゃんまで」


 ミフネヤは二頭の馬に鞭を入れながら、思う。確かに、もう二三年は、あののどかな村に留まってもよかった。子供達は難しい病にかかっていると言って、村人たちの目に触れないようにしておけば、彼らが決して成長しないことも、あと三年ぐらいならごまかすことができたはずだ。


 マリア――彼の患者の若い妊婦と同じ名前の彼の妻――が子供達に手をかけた時、エリザベスは十三歳、ジョンは十歳だった。彼らは永遠にその時の姿を留めることになる。子供を仲間にするのは危険だとミフネヤは散々妻に説いたのだが。

 そのマリアに手をかけたのはミフネヤだ。マリアはずっと子供を欲しがっていたのだが、そのせいで通常の方法では子を持てないようになった。全ては彼の責任だと言えなくもない。


 念願の子供を手に入れたマリアが今欲しているのは安息の地だという。田舎に落ち着いて、のんびり暮らしたい。たとえそれが豚や鼠などの動物の血を啜って生きることを意味しても。

 ミフネヤは妻のためならばそれも我慢できたが、子供達は一年も経たずに田舎に飽きてしまう。彼らはミフネヤやマリアのようには日中太陽の下で長く行動することができない。人目に触れてはならないという以外に、体質的に無理なのだ。

 だから病気であることにして昼間は外に出ず、外出は夕方から明け方まで、学校に行くことも友達を作ることも叶わない。

 もっとも、彼等の外見は幼くとも、二人とも既に二十年以上生きている。同じ年恰好の子供らと馬が合うわけがなかった。それなのにいつまでも子供扱いされることも、彼等を苛立たせ、反抗的にさせる。


 じきに両親の言いつけを破って村人を襲い始めることは、避けられなかっただろう。彼は頑なに否定したが、村では夜間の家畜の不審死が相次いでいる。


 しかし、ミフネヤ自身、動物の血に少々飽きがきていたところだった。医者という職業柄、誘惑が多いのも難点であった。特にあの初産の若い妊婦のように、大量出血などされてしまっては。

 ミフネヤは優秀な医者であり、あの母子については双方の命を救うべく全力を尽くしたと神に誓ってもよい(神がそれを信じるかどうかはまた別の話)。

 しかし、死にゆく母親の腹を切り裂いて赤子を子宮から取り出した時は、体内から溢れ出る血の匂いに我を忘れそうになった。

 それでも何とか自制し、妻と子供達の待つ家に帰ろうと思った。


 しかし


 あの時丘の斜面から姿を覗かせた太陽の光に目が眩んで家の中に再度招き入れられることがなければ、夢中になって家族四人――若い夫とその両親に生まれたばかりの赤子――の血を啜った後に我に返って自宅に戻り、まだ眠っていたマリアを叩き起こして大慌てで荷造りをし、子供達の頭から何枚も毛布を被せ、幌馬車に載せて夜逃げ――ではなく早朝にあわただしく村を逃げ出すこともなかったのだとミフネヤは思う。


 あの善良なる農民一家が惨殺されたことは、今日中に村人に発見されるだろう。だから彼は馬車を引く二頭の馬を気の毒に思いながら、激しく鞭を振り下ろしている。今回の逃亡にはあまり時間がない。数人あるいは十数名の追っ手なら、彼とマリアで対応可能だ。子供達だって、陽が暮れれば日光を気にせず行動できる。

 だが、追っ手を殺せばまた新たな追っ手がかかる。既に数百年生きているミフネヤとて、さんさんと照り付ける太陽の下では力を完全に発揮することはできない。


 それにもかかわらず、彼は太陽が好きだった。最初の何十年かは、少しでも日光を浴びようものなら大火傷を負ったものだ。だから、徐々に日光への耐性ができて、太陽を再び我が目で見られるようになり、そのあたたかな日射しを皮膚で感じられるようになった時の彼の喜びは大変なものだった。彼は、血を流すのであれば夜の闇の中ではなく、きつく照り付ける日射しの下の方がよいと思っている。


 丁度、その日の朝、すっかり満腹した彼が、再びドアを開けてもうすっかり太陽が姿を現した外界へ踏み出した時、乾燥しきった埃っぽい道の上に滴り落ちた血が作った真っ赤な水溜まりのように。


 まだ恍惚状態から完全に脱しきれていなかった彼は、片手に心臓を握りしめていることに気が付かなかったのだ。あのように美しいものを、隠さなければならないのは残念なことだったが、誰の体から抜き取ったのかも覚えていない心臓を近くの叢に放り投げると、血溜まりを靴で踏みにじった。


 自宅へと足早に急ぐ途中で、彼は牛の手綱を引いた一人の農夫に出くわした。


「先生、大変な怪我だ。どうなすった?」

「これは、私の血ではありません。夕べ遅くにジョゼフさんの若奥さんが産気づいて……しかし、残念ながら、奥さんも、赤ちゃんも」


 彼は親切で腕の良い医者だと評判だったから、農夫は彼の言うことを少しも疑わなかった。


「なんてこった。後で……カミさんと様子を見に行くことにしましょう。先生も、大変でしたなあ」


 去っていく農夫と牛の尻尾をしばらく見送って、ミフネヤは帰宅し、まだ眠っていたマリアを起こした。マリアは夫の姿を一目見て状況を察したようだった。


「また引っ越しなの? ああもう、まったく」


 口では文句を言いながら、彼女の行動は素早かった。身の回りの物を素早くまとめて、一家は荷馬車に乗り込んだ。また次の村を探さなければならない。

 今度は都会がいい、と荷台の奥の暗がりから、息子のジョンの声がした。

 その前に、村人を皆殺しにすればいいのに、と娘のエリザベスの声。そうすればこんなに慌てて逃げなくても済むのに。


 若い二人は人間に対して情け容赦ないが、マリアの残酷さはそれ以上だ。

 マリアが癇癪を起こして二人の喉笛を噛み切ったりしなければいいが、とミフネヤは思う。子供を何人持とうとも、最終的に彼らを塵芥にするのはいつも気性の激しいマリアだった。


「黙っていないと、下を噛み切るぞ。馬車が崖から転落するかもしれない。お前たちは寝ていなさい」


 ミフネヤはそう言って、夜になるまでに山を越えられるだろうか、と思った。彼は頭からかぶっている外套の位置を直した。


 太陽はほぼ真上から彼を照らしていた。

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