第52話 うろんな客
大層変わった客であったらしい。ひなびた温泉旅館にやってきた若い男のことである。
初めは、やけに独り言の多い男だと彼を部屋まで案内した女中は思ったのだそうだ。二泊三日で予約しているのに、荷物は、驚くほど小さいボストンバックを一つきり、そして、彼自身の左肩に顔を向け、四六時中何かしゃべっている。
よく見ると彼は、自分自身の肩に話しかけているのではなく、室内でも決して脱がない貧相なジャケットの内に秘められた何かに話しかけている、という印象を、お茶を入れながら男の様子を横目で観察していた女中は受けた。
「お食事は何時になさいますか」
「うん、僕ら、早く寝るので早い方がいいな」
「では、五時でよろしゅうございますか」
「それで頼むよ」
『僕ら』と男は言った。客は男一人のはずであった。連れが後から来るなどとは聞いていない。女中は内心首を捻ったが、長年このような仕事をしていれば、おかしな客に遭遇することは度々ある。詮索しないのが一番、と女中は男の部屋の襖を閉めた。
オフシーズンであり一年で最も宿が閑散としているこの季節、たった一人の女中は通いであるから食事の片づけが終わると帰ってしまう。
「やっぱり変ですよ、おかみさん」
女中は男の部屋から下げてきた器を厨房のシンクに移しながら、言う。
「お食事を下げに行ったんです。で、声をかけようと、部屋の襖に手をかけたところ」
泊り客意外の声、しかも、女の声が聞こえたのだという。それがなんだか、
「男と女が、仲睦まじくじゃれあっているみたいな」
はっきりとは聞き取れなかったが、のっぴきならない雰囲気であり、声をかけるのが躊躇われた。外から呼んだマッサージ師とは思えなかったし、商売女――? このオフシーズンに? 通いの女中の願いは、さっさと片づけを済ませて家に帰ることだった。
意を決した女中が「失礼します。お食事はお済みですか」と声をかけ、ゆっくりと襖を開けると、大層慌てた様子の男が、浴衣の前を合わせて身づくろいをしていたが、他の客の姿はなかった。男はそそくさと座椅子から立ち上がると
「もう済んだから、片付けてくれ」と言ってそっぽを向いた。
「他に誰もいなかったんなら、結局独り言だったんじゃないのかい。どこかに身を隠す時間なんてなかったんだろ」と女将は、洗い物を女中に任せて、明日の朝食の準備をしている。オフシーズンは、女将自身が調理場に立つのだ。
「ええ。お膳を片付けた後、布団を敷くと言って、念のため押し入れの中も確認したし、広縁も見ましたが、誰も。でも」
「でも?」
「お客さんが座椅子から立ち上がった際に、何かが畳の上に転げ落ちたんです。それを拾おうとしたら、偉い剣幕で怒られて」
「それは一体、何だったんだい」
「お人形さんでした」
フィギュアというのか、ソフトビニール製の、直径十センチほどの少女人形だった、と女中は薄気味悪げに言った。
「それは、オタクとかいうお人やろ。今時珍しくもない」
女将は呆れて言った。女中の気味悪がりようが、大袈裟すぎると思ったのだ。悪い客というのは支払いを踏み倒すとか、無茶なクレームをつける、やたら横柄な態度をとる者のことで、フィギュアの美少女を愛するといった誰にも迷惑をかけない性質は含まれないと女将は思っていた。確かに、少々気味悪くはあるが。
「女将さんは、あの時の男の顔を見ていないからですよ。そりゃあ、恐ろしい顔で怒鳴るんです。浴衣の帯で首でも絞められるんじゃないかと思ってヒヤヒヤましたよ」
女中が帰宅してから、女将は一日の仕事を終え、風呂をいただくことにした。小さな宿である。風呂は年代物の檜風呂一つしかない。それを時間制で男女別に入ってもらうことにしているが、本日、客はあの変わり者の若い男一人である。
「基本貸し切り状態ですが、ご入浴の際には入口の木札を『入浴中』に、あがられた時には札を裏返して『空』にしてください」
と女中から説明を受けているはずであった。しかし、女将が浴場に行ってみると、「入浴中」の札がかかっていた。時間は、夜中の一時を過ぎている。女中の話によれば、男は、早く床に就くからと夕食を五時にとったのだ。
しかし、早々と床に就いたものの眠れないからひと風呂浴びよう、そんな風に考えたのかもしれない。女将は、引き戸の外で、そっと声をかけてみた。
「お客様」
返事はなかったし、すりガラス越しに見える暖簾の向こうに人が居る気配もない。部屋に戻りしな、札をひっくり返すのを忘れただけかもしれない。
「開けますよ、お客さん」
女将は立て付けの悪い引き戸を開けた。暖簾に首を突っ込んで覗いてみると、狭い脱衣場の籠の一つに、浴衣やバスタオルが突っ込まれていた。
おや、いらっしゃった。
浴室に続く引き戸は閉まっており、家族風呂より若干大きい程度の浴槽は、石の階段を十段ほど下りたところにあった。女将の声が下まで届かなかったのだろう。浴場からは、微かに話し声がきこえた。なるほど、男が独り言を呟いているらしいが、声が反響して、その内容まではわからない。女中の言うように、声色を変えて男女の会話をしているのかどうかも。
女将はそっと退散することにしたが、ふと、男の衣類が入った籠に目が停まった。籠の上にかけられたバスタオルの端から突き出ている黄色い髪の毛。少しタオルをずらしてみると、セーラー服姿の美少女フィギュアだった。
話し相手がここにいるというのに、彼は一体誰と話をしているのだろうか。
女将の和装のうなじから背中にかけてを、ふうっと冷たいものが走った。
馬鹿々々しい、怪談話なら、一つや二つ経験があった。部屋で心中した男女の第一発見者になったこともあるのだ。この程度のことで
ドアが勢いよく引き開けられ、全身から湯気を発した男が顔を出した。女将はきゃっと飛びあがったが、すぐに気を取り直して
「あら、申し訳ありません。てっきりもうお休みだと思ってました」
女将よりもよほど驚いた顔で目を大きく見開いた男の口が、半開きになって、閉じた。右肩にひっかけたタオルで前を隠そうという気すら起きないらしく、おののいた顔をして震えていた。
女将は勿論、男の裸如きで顔を赤らめることはなく、「では失礼します」と目を伏せて脱衣場を出て行こうとした。
「なんなのよ、あんたは!」
と鋭い女の声が飛んだ。
「おい、よせ」
これは男の声だった。
女将は無意識に、声のした方に顔を向けた。怒りに歪んだ世にも醜い顔が、彼女を睨みつけていた。
男が宿を立った後、女将はほっと溜息をついた。
「ああよかった」
特に何の被害にあったわけでもない女中が、顔をしかめて言う。呑気なものだ、と女将は思う。
「誰にも言わないでくれ。宿代はちゃんと二人分払うから。誤魔化すつもりなんかなかったんだ。でも、正直に言えるわけがない。わかるだろう?」
男は泣きそうな顔で女将に縋り、そう言った。
「わかりました。――いえ、お代はお一人分で結構ですし、お客様の秘密を口外したりしませんから、ご心配なく。そのままでは、お風邪をお召しになりますよ」
女将がいくら諫めても男は聞き入れず、結局女の分も代金を支払った。ならば、食事を二人分にしようか、と女将が提案したところ、
「必要ない、彼女は少食だから」とのことだった。
「彼女」と男は言ったし、声は確かに女のように甲高かった。だが……
女将は身震いした。
男の左肩についていた肉芽。メロンパン程の大きさで、醜い皺が幾筋も走り、その皺があたかも目や鼻、口を形成し、まるで、ヒトの顔の様に――
「いやらしい女、いつまで見てるのよ」
怒りに歪んだそれが、女将を詰った。
女将は約束を守り、翌朝早く出勤してきた口の軽い女中には何も話さなかった。
予定通り二泊三日の滞在を終え去っていく時、男はまるで共犯者を見るような親しみをこめた目で女将の目をみて、言った。
「とても快適でした。この宿は、いつもこの季節はこうですか?」
「ええ、だいたいそうですね。オフシーズンですんで」
「静かで、大変気に入った、と彼女も言っている。また、寄らせてもらいます」男は小声でそう言った。
笑顔で男を送り出したものの、女将は内心複雑だった。「人面瘡の宿」などと噂になるのは、まっぴら御免だった。
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