第24話 完璧な彼女
月のきれいな秋の宵だった。
若い男が、土手を歩いている。虫の声が賑やかで、一人でも寂しさを感じなくて済む、こんな夜が彼は好きだった。
暗く穏やかな川の流れに沿って歩いていると、急な傾斜を作って川へと続く堤防に茂る草の中に、白く細長いものが横たわっているのが彼の目にとまった。
おや
深い草をかき分けて近づいてみると、それは、ほっそりとした人間の左腕、肩の付け根から指先までの部分だった。恐々と両手で持ち上げて天にかざしてみると、月明かりの下でそれは青白いかすかな光を発しているように見えた。
彼はそれを自宅へ持ち帰ることにした。幸い途中で誰にも出くわさなかったので、あらぬ疑いをかけられることもなかった。
彼の家は、両親から受け継いだ町外れの小さな一軒家だった。両親は彼が大学生の時に相次いで病気で亡くなり、彼はその広くない家を一人で持て余すほど孤独だった。
土手で拾った左腕を明るい電灯の下で改めて観察すると、その繊細なフォルム、肌のきめ細かさから、若い女性のように思われた。普段は開け放したままにすることも多い窓をぴっちり閉めカーテンまで引いた室内で、彼はまじまじとそれを眺めた。まっ白で染み一つない艶やかな皮膚、細い指、清潔に短く切りそろえられた桜色の小さな爪――なんて美しいのだろうと彼は思った。
彼は急に落ち着かない気分になり、クロゼットの中から未使用のバスタオルの入った箱を持って来て急いで開封すると、折りたたんで大きさを調整したその上に白い腕をそっと置いた。そうしてそれを大事そうに抱えて、家の中をあちこち歩き回った末、居間の一人掛けソファの上に慎重に置いた。二、三度位置を変えてみて、さらに肩の付け根から肘より少し下の辺りまでタオルでくるむと、やっと満足げに息をついた。
「よし。これなら快適そうだし、寒くて風邪をひくこともない」
そう口にしたあと、男はパッと顔を赤らめた。返事をするはずもない腕を相手に何をしているのかと思うと、少々滑稽であり、気恥ずかしくもあった。
それから、男と左腕の奇妙な生活が始まった。といっても、腕は男が置いたソファの上に置かれたまま動かない。それでも男は仕事に出かける時には
「行ってきます」
と言い、帰宅したら
「ただいま」
と言う。返事はもちろんないが、男は父母が亡くなってから久しくやめていた習慣を取り戻したことを、少し嬉しく感じた。
別に、誰か見ている者があり、何をやっているのかと笑われるわけじゃなし……
不思議なもので、それまでいやいや通っていた職場で、彼はやる気を感じるようになった。職場の人達も、彼が以前より明るくなったと思った。
しかし、彼はこれまでと同じように、夕方五時きっかりに会社を後にするのだった。
「恋人でもできたんじゃないかしら」
会社の女性陣はそう噂した。
そんなこととはつゆ知らず、彼は、時々会社帰りに花など買うようになった。一人暮らしの自宅は、小ざっぱりと片付いてはいるものの、少し殺風景過ぎると感じるようになったからだ。花を買うなんて、父親がたった数ヶ月の闘病であっけなく亡くなった後、母親を元気づけようとしていた時以来だった。
「結局母も、それからしばらくして同じ病で亡くなった。でも、僕が花を買って帰ると、少し嬉しそうな顔をしてくれたんだよ。父が元気な頃は、母は小さな庭に色とりどりの花を咲かせるのが好きだったんだが、父の看病のためにいつの間にか全て枯れてしまった。僕がもう少し植物に興味のある人間だったらよかったんだけど」
彼は物置にしまってあった花瓶に生けた花を居間の低いテーブルの上に飾りながら言う。初めは照れがあったものの、一人掛け椅子に置いてある腕に語りかけることにもすっかり慣れてしまった。
秋も深まりかなり寒くなってきたので、腕は暖かく肌触りの良いショールで手首のところまでくるまれていた。それは父親の死後すっかり元気がなくなって家に閉じこもることが多くなった母親のために彼が買い求めたものだった。
「おかしなものだなあ。君になら何でも気兼ねなく話すことができる。まるで、昔からよく知っている友人のようだ。僕には今まで、親しい友達なんて一人もいなかったのに」
彼はそう言って、ほっそりとした指先をそっと自分の手のひらの上に置いた。左腕はぴくりと動いて、彼の手をそっと握り返した。
それから彼は、人生で初めての幸福を味わった。
彼は左腕を大切に扱い、常に敬意を持って接した。彼は仕事の悩みや心配事、それから日々のささやかな喜びについて、なんでも打ち明けた。腕はもちろん口をきくことはなかったが、そっと握りしめる彼の手を握り返したり撫でたりして、彼を慰めたり励ましたりした。
ある寒い冬の晩に、彼はまた散歩に出かけた。凍てつく寒さも、彼を締め出して暖かそうにオレンジに輝く家々の窓も、もう気にならなくなっていた。左腕は柔らかい毛布にくるんで暖かな家に置いてきた。月は細く、辺りは暗く凍りついていた。
左腕を発見した土手にさしかかると、草の枯れた斜面に長く黒々としたものが落ちているのが見えた。拾い上げてみるとそれは、漆黒色の艶やかな髪の束だった。ちょうど、マネキンの頭からするりと外したみたいに、ウイッグ状にまとまっており、柔らかで細いが腰のある豊かな髪の毛は、女性のもののように思えた。
その髪を家に持ち帰って左腕と並べてみると、腕は愛おしそうにその黒髪を撫でた。
「これはやっぱり君の髪だったんだね。なんて美しいんだろう。君の細く白い手にとてもよく似合うよ」
彼が見つめていると、心なしか指先の辺りがほんのり上気したようだった。それから彼の話し相手は、美しい黒髪と左腕になった。
さらにしばらくすると、彼は自宅のささやかな裏庭に、まっ白い女の脚が落ちているのを見つけた。右の太腿から下の部分だった。彼はそれを自宅に運び入れた。
次の日、男は会社帰りに淡い桜色のワンピースを買ってきて、いつも左腕と髪の毛を置いていた一人掛けソファの上にふわっと広げた。そうして左袖に左腕を、膝丈のスカートの中に右脚を納め、ワンピースの襟の少し上、ソファの背もたれに、髪の毛を置いてみた。
「やあ、とても素敵になったね」
と彼はうっとりとした様子で言った。
それ以降も、彼はあちこちで女の胴体や右の上腕、目玉等を発見し、自宅に持ち帰った。彼の手で慎重に組み立てられた彼女は、今ではワンピースに身を包み、長い髪を垂らし、椅子に腰かけている。最近彼女は、彼のために朝食を作ったり、部屋の掃除をしたりするようになった。
ある日彼は、彼女の左手を両手で優しく包み込んで、こう言った。
「ねえ君、僕達は今までとてもいい友達だった。僕は君をとても尊敬している。君はたった一人の友人で、何でも話せる大切な相棒だ。だけど、もうこれ以上我慢できない。僕と結婚してもらえないだろうか。もちろん、君が僕を愛せないというのなら、潔く諦めるよ。でも――」
彼女は大汗を流して話し続ける彼の顔に自分の顔を近づけると、右目を閉じて彼の両の唇に自分の上唇をそっと押し付けた。
彼が拾い集めたパーツを寄せ集めた結果、かなり人間らしい形状になっていたとはいえ、まだ左目と下唇、まつ毛と眉、右手(肘から下の部位)、左耳等が欠けており、舌がないせいか、言葉を発することはできなかった。しかし、彼にとって、そんなことはどうでもよかった。いや、今後どこかで残りのパーツを見つけたら、喜んで持ち帰って来ただろうが、今のままでも彼にとって、彼女は完璧な女性であった。
「それじゃあ、いいんだね?」
彼は顔を輝かせて言った。女は頬をピンク色に染めて頷いた。
次の日彼は、彼女のほっそりとした指に似合う結婚指輪を買ってきてプレゼントした。それ以降、彼女の残りの部位が見つかることはなかったが、二人とも幸せだった。
彼らが暮らす町外れの小さな家の小さな庭は、毎年春から夏にかけて色とりどりの花が咲き誇るようになり、天気の良い日にはカーテンの揺れる窓の向こうから、楽しそうな笑い声が聞こえてくるという。
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