第95話 A Cat from Hell

 姉が子猫を飼い始めたという。

「団地なのに、いいの、ペット飼って」

「いいんだよ。皆飼ってる。犬とか」

 それは、赤信号みんなで渡れば……的なことなのだろうか、と私は腑に落ちないものを感じつつ「ああー」とか「ほー」とか曖昧な返事をしたように記憶している。

 きじ猫の雌だった。子猫の頃の記憶は、私にはあまりない。動物全般苦手だからだ。見た目は可愛らしいと思うから動物の動画などを見るのは好きだが、実物は好きではないし、側に寄らないでほしいと切に願う。


 小学校の頃の親友は、手に生傷が絶えなかった。猫にじゃれつかれてついた傷だという。その子の家には何度も遊びに行っていて、当該の飼い猫にも遭遇していた。幸い、客に悪さをするようなやんちゃな猫ではなかったので、自分の方から積極的に触りに行くことのない私は無傷でいられた。ときどきは私に親愛の情としての頭突きをくらわせ(体をすりよせてくるときにしてくるので、これは嫌いではなかった)ざらざらした舌で手の甲を舐めてくれた。

 しかし、親友に対しては、瞳孔が細くなった恐ろしい目を見開き、ぐわあっと噛みつくところを何度も目撃した。じゃれているだけだからと親友は涼しい顔で手を喰われている(と私には見える)のだが、その牙や爪は人間のやわな皮膚に傷をつけるのに十分な程度に鋭く、そのため彼女の手は常に生傷が絶えないことになるのだ。「じゃれついて」牙や爪を立ててくるような生き物は、私にはどうしても受け入れられなかった。


 姉からスキー旅行で留守にする間猫の面倒を見てほしいという依頼を受けた時は、正直恐怖した。たった二泊のこととはいえ、あの猫とともにただ一人取り残されるのだ。

 今ではすっかり成長した猫との間に友好関係を保つことに私は失敗していた。理由は、あの猫がかつての親友の家の猫ほど寛容でなく、やんちゃで邪悪な精神の持ち主だったからだ。

 動物は人間の恐怖を嗅ぎ取るという。

 こちらからちょっかいをかけない限り、自分は安全なはずだと私は思っていた。私は近所で猫を見かけても、自分から近寄ったり体を撫でようとしたりしないし、あちらもそういう私に襲いかかったりはしない。姉の猫に対しても、そのスタンスは崩さなかった。

 私が姉のところへ遊びに行き、居間のカーペットの上に両足を前に投げ出して座り、後ろに手をついて体を支えテレビを見ている時に、わざわざ私の足を踏み越えて通過して行くぐらいは、まあいい。しかし、突然手首にちくりとした痛みを感じ驚いて悲鳴を上げて見ると、身を翻した猫が少し離れた位置から私を見上げ、「にゃー」と鳴く。これは、アウトだ。手首を見ると、赤い線が走っているだけで傷はできていなかったが、心臓に悪い。

「これっ」

 一緒にテレビを見ていた姉が、猫を叱ってお尻の辺りを軽くはたいた。猫は私に向かって「にゃー」と不満げな声をあげた。


 え、私は何もしていないんだけど


 それでも、叱られた猫が私に再び襲いかかることはなかったのでひとまず安心した。しかし、トイレに行くため廊下に出た私が、ふと振り返って見ると、居間のドアの影の暗がりに、今にも飛びかからんばかりに身をかがめた状態の猫と目が合った。筋肉は緊張してはりつめており、瞳孔が開いた瞳は、真っ黒だった。

 姉のいるところで私を齧ると姉に叱られるので、私が一人になるチャンスを窺い跡をつけてきたらしいと思いぞっとした時には、既に飛びかかってきた猫に足首を噛まれたあとだった。

「いたっ」

 思わず悲鳴を上げた私に驚いて姉がやって来たが、事情を説明すると、姉は大笑いした。

「あんたのことが好きなんだよ」


 はあ?


「今しがた、小さいながら鋭い牙と爪をもった獰猛な獣に襲われたんだけど、私」


 不思議なことに、私の悲痛な訴えは姉の心には一切響かないらしかった。靴下をめくって足首を見ると、小さく開いた穴から血が滲み出ていた。なんと、負傷していた。こっぴどく叱ってやってくれと訴えても

「悪さをしてすぐじゃないと、なんで叱られたのか理解できないから、叱っても意味ない」

 という納得のいかない理由をつけて聞き入れない。悪賢い猫は、とっくに逃げてしまっている。

 この事件より、猫はこちらが油断している時を狙って私に襲いかかってくるようになった。私が驚きと痛みに悲鳴を上げると、姉に叱られない安全な距離を保ったところまで一目散に逃げてから、こちらを見てあざけ笑っている(ように見える)。

 このような悪魔の如き所業の猫をたった二晩放置していくことができないから、私に泊りがけで面倒を見に来いというのだ。

 

 当日は夕方頃姉の家に行った。合鍵で中に入ると、猫が速足で迎えに出てきた。家人ではなく私であるのを見ても、猫は腹を立てるでもなく、ニャーと言いながら体をすり寄せてきた。

 そんな態度には誤魔化されないからな、と私は思う。

 居間のテレビをつけて、猫の餌と水の皿をチェック。日頃の恨みがあるからといって、飢えさせようとは思わない。恨まれて襲われた時に負けるのは私に決まっているからだ。

 夜中まで本を読んで過ごし、日付が変わってから居間に布団を敷いて寝た。猫は廊下で運動会をしていたが、無視した。


 気が付くと、額にひんやりしたものが押し当てられ、ふんふん言っていた。次に、ざらっとしたものが頬を撫でた。

 猫だ。

 私は布団の中で体を固くしたが、動くことができない。こちらの急な動きに驚いた猫に爪や牙を立てられるのが怖かったからだ。

 ふかふかした毛皮が喉首の辺りに押し付けられ、動かなくなった。


 え……


 いつ爪でひっかかれるのかわからないので目を開けることはできないが、どうやら私の首の上で寝ているようだ。暖かいが、くすぐったい。重いし。さすがにこれは無理だと思い、ほんの少しだけ体を揺らして拒絶の意思を示してみたが、無視された。動かない。

 仕方がない。しばらくすれば飽きて移動するだろうと、待ってみることにしたが、ずっと同じポーズ(仰向けだった)でいるのも案外疲れるもので、猫の毛皮付きの体は暖かいを通り越して熱いぐらいに感じられ、しかも重かった。

 そろそろと腕を布団の横から出し、ゆっくりと猫の体に近づけていく。いつ喰いつかれるのかとひやひやする。怖いから目は閉じたままだ。大体この辺が背中かという位置に手を載せて、肉と共に毛皮をつまんで、上にそっと引き上げた。

 ぐんにゃりとした体は、毛皮が動くだけでびくともしない。

 いや、どいてほしいんだけど。

 もう少し力を入れて上に引っ張ってみる。動かない。

 寝たのか?

 恐いので目は開けない(小さい牙と爪がすぐそばにあるのだ!)。寝ぼけている猫には何をされるかわからない。首からぴゅーぴゅー血を噴き出しながら、お前が勝手にこちらの首(急所)の上に乗っかって来たのだ断りもなく、などと訴えてみても、無意味だ。

 もうこのまま諦めてこちらも寝てしまおうか、と思う。

 しかし、目を覚ました猫が寝ぼけてバリバリと私の顔で爪を研いだら――想像するだけで恐ろしい。やはりどいてもらわなければならない。

「うわあーぐわあー」と食いしばった歯の隙間から小声で叫び声を発しながら、両手で猫の毛皮をつまんで持ち上げた。

「うにゃ」と不満げな声をあげたが、おとなしく持ち上げられた。

 それから私は、頭から布団を被って、息苦しさを感じながら寝た。

 朝目が覚めると、猫は布団の上、私の下腹の辺りに丸まって寝ていた。


 私はこの悪夢の一夜について、姉に話さななかった。猫馬鹿はどうせ笑うだけで、私の恐怖を理解しないからだ。

 次の年、姉は子供を授かり、夫と二人でスキー旅行にでかけることはなくなった。

 姉が猫を飼い始めたのは、最初の子を妊娠初期に流産したと震え声で私に電話をかけて来てしばらくしてからだったことを思い出した。

 今回無事出産をした姉は、赤子の安全のために猫を処分――などするわけがなく、あの凶暴な猫も、赤子には優しいらしい。

 

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