第104話 白い背中の女

 目つきの鋭い男だった。

 男に見つめられると、その子は落ち着かない気がした。

 まるで、着物を透かしたその子のか細い肢体はもちろん、心の中まで覗き込まれているように思えたからだ。


 実際にはそんなことはなかった。


 男が興味を持っていたのは、その子のきめ細やかな皮膚。着物を剥いだ、表面的な部分に留まっていた。

 たまに、父親の言いつけで酒を買いに行ったときになど、町中ですれ違う際に、男はねっとりとからみつくような、それでいて獲物を射すくめる猛禽類のような視線でその子を上から下まで眺めまわすのだったが、それだけだった。

 男はその子に話しかけようとはせず、その子も男の顔を見れば、顔を伏せて逃げ出すのが常だった。


 やがて成長したその子は、十八歳。控えめながらほどほどに美しい娘に成長したが、いかんせん奥手であった。酒に呑まれて寝付いてしまった父親の世話をしながら、それでも初めての男ができた。

 男、といっても相手も真面目一方であったから、お互い見つめ合うだけでぽーっとなるような微笑ましい関係がようやくスタートしたところだった。二人とも、同じ工場に勤めており、仕事帰りには、男が自転車を押しながら娘と肩を並べて家まで送る仲睦まじい姿が見られるようになった。

 男は背が高くがっしりした体つき。無口で男ぶりがよかった。娘は、少女時代のほっそりした体にいくらか肉をつけて、却ってしなやかさを増していた。器量は十人並よりちょいと上ぐらいだが、抜けるように色が白く、きめ細やかな肌が美しかった。


 ある日、恋仲の男が残業のため女が一人で工場から戻ると、あばら家に客があった。それは、あの目つきの鋭い男であった。父親は敷きっぱなしの布団の上に胡坐をかいていたが、なぜだか娘の方を見ようとしない。


 お前は、おれに買われたのだ、と男は言った。


 男の言葉を理解する前に、娘は男に手首を掴まれ、あばら家から引きずり出された。父親に助けを乞うても、彼は最後まで娘と目を合わせようとしなかった。

 目つきの鋭い男から道すがら聞かされたことによると、娘の父親に彼女をもらい受けたい旨提案したところ、あの娘は働けなくなった自分の面倒を見させるのだから駄目だという。そこで、それ相応の金を積んだところ、やれそれでは少ない、もう一声などの交渉の末、父親は娘を男に渡すことに同意した。


 だから、今日からお前はおれの女なのだ、と男は言った。自分の女には、なにをしてもいいのだ、と。


 男の家は町外れにあった。なんでも、男の両親が感冒で相次いで亡くなってから、その遺産を食いつぶしながら何もしないで暮らしているのだということを、娘もうっすらとしっていた。

 昔は羽振りがよかったのだろうと思わせる家だった。

 手伝いの婆さんが一人いて、男が子供の頃の乳母だったという。老いた乳母は目を丸くして、嫌がる娘の手を引いて強引に離れの座敷に連れ込むのを見送った。


 その部屋は板張りで、診療所にあるような、薄い布団が敷かれた寝台が中央にあった。そこに背中から突き飛ばされた女は、うつ伏せに寝台に反身を載せる形になった。

 男のがっしりした手が伸びて、工場の制服である白いブラウスの襟首をつかみ、背中を剥き出しにした。ぴっちり止めていたボタンは、半分以上千切れ飛んだ。


 娘は恐怖と恥辱のためにほとんど失神状態で、しかしこれから何が起きるのか、冷静に悟っていた。

 しかし、娘の白い背中をこねくり回していた男は

「もう少しだ」

 と呟くと、女を開放した。

「おとなしくしていれば、何もしない。逃げようなどと思ったら、お前の父親も、お前の情夫おとこもひどい目にあわせるから、そう思え」

 男はそう言い残して、娘の世話を老乳母に託し、家を出て行った。


 それから男と男の妻になった娘との奇妙な生活が始まった。娘には小部屋が与えられ、夜も一人、男とは別に寝た。男は家に居ないことが多かったが、時々土産だと言って新鮮な卵や肉、魚など、女と老乳母に与えて「栄養をとるように」という。

 とはいえ、娘が豊満になりすぎるのは気に入らないらしく、「適度に運動をするように」とも言いつける。運動し過ぎて筋肉をつけてはいけないし、痩せぎすなのもいけないと。

 どうやら逼迫した貞操の危機は去ったようだと安心したものの、別れた父や、恋人のことが思い出されて、一人で部屋に籠っていると、涙が人知れず流れることもあった。そこに偶然帰って来た男が、潤んだ瞳や赤くなった目尻をしみじみと眺めて、言った。


「泣いてはならん。体に障る」


 適度な運動をせよという割に、日射しが強い日中は「日焼けしてはならない」からと外出を禁止された。そして、夕方や宵の口に外に出られたとしても、いつもお供で老乳母がついていた。

 乳母だった女は無口で、娘の話し相手にならなかった。

 本を読むのは自由だったので、娘は一日の大半を、庭をぶらぶらしたり、誰も使うものがないのでじめじめと冷え切った書斎に並ぶ立派な革の装丁の本を読んだり、老乳母を手伝って台所に立ったりして過ごした。


 ある晩、目を覚ますと、男の鋭い目が女を見下ろしていた。実家から攫われるようにして連れて来られてから丸二年、年齢的にも精神的にも、娘ではなく女になっていた。

 女は、ああ遂にこのときが来たのだな、と静かに覚悟を決めた。男に惚れてはいなかったが、憎んでもいなかった。寝たきりだった女の父は、娘を売って得た大金で大酒を煽り、自らの吐いた血反吐の中で死んだ。

 さらに、風の便りに、かつて淡い恋の真似事をした相手は、別の女を娶ったと聞いた。もはや彼女を待つ者は誰もいない。


 男に連れられてその家の離れに行ったのは、二年振りだった。渡り廊下を踏みしめる素足が冷え切って体が小刻みに震えた。

 中央に寝台を設えた部屋。

 女はそこに自ら横たわる。男は女をうつ伏せにして、寝巻を剥いて背中を露わにした。部屋は暖められており、上半身が剥き出しの状態でも寒くはなかった。

 男は興奮で息を荒くしながら、女の背中を撫でまわす。そう、二年前と同じに。女の背中は、いくらか肉がついたものの、細身でほどよく締まっていた。そして、ほくろの一つさえない、滑らかな皮膚。


「ああ、駄目だ。おれには……」


 男が喘ぎながら漏らすのを背中で聞いた女は、上半身を起こし、男に向き直った。胸元が完全にはだけていることを、気にも留めずに。


「いいんです」


 女は囁いた。いいんです。あなたの好きなようにしてください。

 女は、男がこの離れで何をやっているのか知っていた。特に秘密にされていたわけではない。親の遺産のお陰で働く必要のない男だが、道楽で彫物師として修業し、気が向けばこの部屋で施術を行っていた。腕はよいらしい。評判を耳にした客がやってきても、どれだけ大金を積まれても、気に入らない依頼は断る。彫物師として、譲れない矜持があった。


 自分の彫り物を背負うだけの土台を有していること。


 だが、お前の背中を見ると、手が震える。男はそう吐露した。二度とやり直しは効かないというのに、おれは、だめなんだ、と。


「では、この二の腕の辺りからでも彫ってみては。くるぶしでも、内腿でもいい」


 既に上半身は腰紐のところまでめくられた寝巻の裾を自ら割って、女は雪のように白い内腿を晒した。

 男は生唾を呑むと、きりきりと眉を吊り上げ、手の甲で口元を拭った。そして、真鍮のトレイやガーゼ、諸々の道具が並ぶ車輪付きの台を引き寄せた。


 針で刺して墨を皮下に埋め込む。麻酔もなしにそんなことをすれば、間違いなく拷問だ。女は口に白い布を咥えて、耐えた。額に脂汗を浮かべながら、日に数時間、少しずつ。

 男が今日はもうこれくらいにしておこうというのに女が首を横に振ることもあった。二人とも何かに憑かれたかのようだった。

 女の白い肌は、蓮の花、牡丹、異国の極彩色の鳥や架空の動物などで埋まっていった。だが足や腕、さらに乳房や腹部までも元の美しい白さや滑らかさを失っても、女の背中は、相変わらずまばゆいばかりの白さを放っていた。

 しかし、腹部から伸びる蔓や尻を埋め尽くした花弁が侵略を始めるのは時間の問題に思えた。他には、もう彫る場所が残っていなかった。


 女は、首元まで墨を入れられていた。どれだけ着物の前をぴっちりと合わせて着込んでも、すれ違う人々は怯えと好奇に満ちた目で女を振り返る。

 女の方は、今では老乳母のお供がなくとも外出が許されるようになっていたが、もうあまり表に出たいとは思わなくなっていた。


 施術には適度な休憩が必要だ。長時間肌を針で突かれ、削られる苦痛を耐えた女が、どれだけ続行を主張したとしても、そこは男が譲らない。

 次の彫りつけまでの合間に、女は男をかき抱いた。鋭かった男の瞳は、今では虚ろに濁り、針を握ったときだけなけなしの光を発するのだった。


「ねえ、何を背負わせてくれるか、決めたのかい」


 女の寝屋の囁きに、男は震えながら頷いた。ああ、もちろんだ。ずっと前から決めている。女は満足そうな笑みを浮かべ、男に一層体をこすりつけるが、男は女の細い首――彼の針と墨で鈍色に光る鱗に変身させられた――に回した両手に力を込めていく。

 女は腰を使いながら、男の目を見る。そこには以前の鋭い光はないが、別の何かが宿っている。


 いまさら、怯んで逃げるなんて許さない


 女は目で訴えるが、男は指に込めた力を緩めない。何時間針を刺し続けても、一向に疲れをみせない、活力に満ちた指を。


 繋がったまま事切れている男と女を発見したのは、その家の老いた乳母だった。

 

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