第103話 ざくろの女
かわいい子だった。短めの髪は丸い輪郭を作り出し、コケティッシュな彼女によく似あっていた。
「ねえ、一杯驕ってよ」
突然背後から腕を掴まれた。小柄な女の顔が肩の辺りからこちらを上目遣いで見ていた。アーモンド形の黒目がちな目。悪戯っぽく笑みを浮かべた口元。
驚いて口のきけなくなっているわたしの腕を、彼女は強引に引っ張っていく。
「近くにいいお店があるんだ。安心して、リーズナブルだから」
なんだ客引き、あるいは美人局か、と合点がいったら、元気が出てきた。とりあえず、彼女の腕や胸の温かみが腕を伝わってくる。それだけでもぼったくられる意義はあるように思えた。
女は酒が強かった。いや、女と呼ぶべきかそれとも少女か、微妙なラインに彼女は立っているように見えた。表情がくるくる変わり、それによって見た目の印象も変わる。
しかし、見た目がいかに儚げな少女の装いであろうとも、手にしているのはコップの冷酒。それを、酒に吞まれて死ぬ決意をした労働者みたいに、飲む。アテはおでん。タコにこんにゃく、ちくわ、ここは高架下で暖かな光を投げる屋台。確かに酒も肴も安かった。
いつ「俺の女に何しやがる」という男が登場するのか、ちょっとうなじがちりちりする感覚をこちらも負けずとぐいぐい空ける冷酒で紛らわしながら、それでも隣に座ってにこにこしている女を見ていた。
その時は一向に来なかった。
彼女の方がほろ酔い程度であったのに対し、わたしはといえば、情けないことに、べろべろだった。一杯驕れとと声をかけてきたくせに、女が屋台のおやじに金を払うのを半分居眠りしながら眺めていた。
女は、わたしの腰に腕を回し、わたしの左腕を彼女の首に回し、歩き出した。おでん屋の屋台を離れるにつれ、灯りが乏しくなっていく。高く聳える土手沿いに歩いているが、土手の向こう側に流れているらしい水の気配はない。
やがて細い路地を入って奥へ奥へと。バラック小屋がギスギスとひしめき合っているくせに灯るい窓は一つもない。
あたかも、全て空き家であるかのごとく。
そして女は、庭木の黒さの中に埋没した一軒の、これも空き家としか思えない家に入って行った。女に体を支えられたわたしの意識は霞がかっていたが、ああ、いよいよここでみぐるみ剥がされるのだろうか、と腹をくくった。
おでんの屋台でのことが蘇って来た。
わたしの瞳をまっすぐ見つめ返し、わたしのつまらない冗談にけらけら笑い、身の上話にしんみりとした顔で聞き入ってくれた。もうそれだけで、十二分に元は取れたと思った。あとは、無駄な抵抗などする気などないので、痛い目にあわずに済めば。
その家は、荒廃してはいるものの、残されている調度品の一つ一つはかなり立派なものだった。少なくとも、窓から差し込む月明かりの中では。
二階にあがった廊下の突き当りの部屋には、大きな天蓋付きのベッドが鎮座しており、女はわたしの体をその上に放った。
「ねえ、死にたいって言ったよね」
わたしを見下ろす女の顔は陰になって見えないが、白目の部分が時々きらりと光る。
おでんをつつきながら、コップ酒の力を借りて、そんな告白をしたかもしれない。
女は、自宅で一人きりの時と同じためらいのなさで上着と、ニットの服を脱いだ。下着は着けていなかった。背後の窓を、彼女の黒い輪郭が切り取っている。膝丈のタイトなスカートや靴なども驚きの速さで脱いでいった。
「だったら、ここで死んでもいいよね?」
わたしの返事を待たずに、女の体がのしかかってきた。細身の割に、しっかりとした質量が感じられた。こんな状況で否といえる男がいるだろうか。
ベッドのスプリングが危険度の高い軋み音を発し、黴臭い埃が剥き出しのマットレスから舞い上がったが、すぐに気にならなくなった。わたしもすぐに一糸まとわぬ姿になり(ほとんどは彼女に剝ぎ取られた)、何度も果てた。それでも汗でうっすらと光を発しているような女の体に急き立てられるように、互いを貪りあった。それで――
おかしくなったのは、二人して体を弛緩させ、呼吸を整えているさなかに,女がベッドの下から拾い上げた細長いもので、わたしの体を打ち始めてからだ。ひゅっと空を切る音がして、女がしなやかに振り下ろしたそれは、予想をはるかに超えた激痛をわたしの体にもたらした。まるで、熱した火かき棒を押しあてられたような。
みっともなく悲鳴をあげたわたしを女は艶然と見下ろし、それからさらに、二度、三度とわたしを打ちすえた。
それは、乗馬用の鞭だった。むき出しのまま成す術なく打たれた皮膚は、ところどころ裂けて血が滲んでいた。
わたしは、よほど怯えた目をしていたのだろう。女は振り上げた鞭を下すと、右手で掴んだそれをぐっとわたしの前に突き出した。
「今度は、あなたの番」
打ちすえられた痛みと、屈辱、そして、仄かな喜びのせいで、わたしは、おかしくなっていたのだと思う。
女の手から鞭をもぎとると、間髪入れずに、一息で腕を振り下ろした。
滑らかな女の鎖骨から、袈裟懸けに赤い筋が走った。肉が裂けていた。わたしの思考は硬直した。
不可逆的裂傷。そんな言葉が頭をよぎった。
だが女は、強張った顔を、くしゃっと歪めた。
笑って、いた。
もっと、もっととせがむ声がした。つい先ほどまでは、確かに女の口からはそんな声が漏れていたのだったが、果たして今この時にまで、そんなことが。
しかしわたしの腕は、まるでそれ自体が独自の意思をもったかのように、空を切り裂きながら、女の肌を打ちすえた。何度も、執拗に。縦、横、斜め、縞に格子に、模様を刻み付けていく。
もう、止まらなかった。
疲れると鞭を持つ手を変え、交互に、何度も。
それでもついに両腕が上がらなくなり、汗みどろのわたしは、剥き出しの木の床の上に膝をついた。汗が滴り落ちていた。
女の体は、もはや裂けていないところを見つけるのが困難なほど。可愛らしい顔も、固く引き締まった乳房も、肉の薄い背中も、丸い尻も、すらりと伸びた脚も、原型がわからないほど。
飛び散った肉片と、血と。
こんなはずではなかったのに。死ぬのは、わたしではなかったのか。
――満足した?
微動だにしない女の体から、それは確かに発せられたようだった。
ああ、よかったよ。とわたしは呟いた。
――じゃあ、反転。
凄まじい苦痛、しかし微かに甘美な衝撃とともに、わたしは、ベッドに横たわっているのが自分自身であることに気が付いた。滑らかな皮膚に醜い
わたしの全身は、まるで、熟れて弾けた柘榴のようだった。
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