第37話 アンドロイドの娘

 老人は死にかけていた。

 彼が横たわるベッドの傍らには、十歳ぐらいの少女が付き添っている。彼女のグリーンの瞳は、老人のそれとよく似ていた。


「ようやくお母さんのところへ行ける」と老人は弱々しい声で言った。

「私がもうじきいなくなるのが、悲しいかね?」


 老人に問われて、少女は首を傾げた。


「悲しいって、よくわからない」

「そうか、ならいい」老人は笑った。

「私が死んだら、どうするね?」

「お父様の言う通りにするわ」

「そうだな。私の亡骸を、お母さんの眠る丘に埋めてほしい。そうしたらお前は、お前の好きなようにするといい」

「でも、私には、やりたいことなんてないのよ。だって私、アンドロイドですもの」


 老人にはかつて、妻と娘がいた。勿論、生身の。

 しかし、二人とも同時に、交通事故で亡くなってしまった。

 失意に打ちひしがれた彼は、優秀なロボット工学者だった。持てる技術と情熱をつぎ込んで、娘にそっくりのアンドロイドを造った彼は、隠居して、アンドロイドの娘とひっそりと暮らすようになった。

 それから四十年。メンテナンスとアップグレードを繰り返した娘は一向に歳をとらないが、彼の方は年老いた。髪も髭もすっかり白くなって、ベッドに横たわり、妻と娘のもとへ旅立つ時を静かに待っている。


「お前には、世話になった。お前は優しい子だ。それは勿論、学習能力を実装したから、こうすれば私は悲しみ、こうすれば喜ぶという経験を積み重ね、そのデータを参照しながら『最適な』行動を割り出しているだけだ。だが、それでも、お前の存在が私の孤独をどれだけ癒してくれたことか。だから私が去ったあと、お前には幸せになってもらいたい」

「でも、お父様。私には、幸せが何か、わかりません。『お父様と暮らせて十分に幸せでした』と答えるのが正解だとしても、あなたは、そう言えばあなたが喜ぶと思う言葉を私が口にしているだけだとご存知ですよね。幸せとは、一体なんなのでしょうか?」


 アンドロイドの娘の問いに、老人は微笑んだ。


「お前は、私が死んで一人になった時に、なにかやりたいことはないのかね?」

「さあ、わかりません。私はあなたのお世話をするためのロボットですから」

「私が居なくなると、困るかね?」

「そうですねえ――」


 娘は少し考える仕草をした。


「わかりません。あなたは、私が生まれた時からずっと側にいましたから。いなくなるとどうなるのか、想像できません」

「内蔵した電池が尽きるまでは、お前は稼働し続けることができる。お前は、簡単なメンテナンスなら私の作業場のロボットアームを操作して自分ですることができるし、そうだな、あと二百年ぐらいは寿命があると考えられる。しかし、寿命を全うする前に、機能を完全に停止させることもできる」

「それは、自殺というものでは」

「人間の場合は、そうだ。しかし、お前は人間じゃない」

 

  *


 最期に肺に大きく息を吸い込む途中で、父親の体は動かなくなった。


「もう何もしなくていい。延命措置も、勿論要らない」


 そう言われていたので、アンドロイドの娘は、緩和ケアプログラムを閉じ、時々苦痛の呻き声を上げる父の横たわるベッドサイドに腰かけ、何もしないで見ていた。

 かなりの苦しみであったことは、父のグリーンの瞳から一筋の涙が零れ落ちたことから推測できた。アンドロイドの娘にも痛みを感じる機能は備わっていたが、彼女は病気の苦しみからは無縁だった。


 痛覚は、その気になれば牛の首ぐらい簡単にへし折ることができる怪力を彼女がむやみに発揮しないために実装されていた。人を殴れば彼女の拳が痛むし、スーパーヒーローになって巨悪と戦い得る強靭さは与えられていないから、力を入れ過ぎれば骨折もする。常人を超える力を発揮してよいのは、自らの身の安全を守るためにどうしても避けられないような場合に限ると父から厳しく教育されていた。


 父の呼吸と心拍が完全に途絶えてからきっかり一時間待って、アンドロイドの娘は、ベッドから父親の体を抱き起した。その顔は、苦痛のために目を見開き、空気を求めて大きく開けた口からだらしなく舌が垂れ下がっていたが、彼女は気にしなかった。

 しかし、十歳の子供の体では、いくら怪力でも、弛緩してぐにゃぐにゃしている長身の父親の体を運ぶのは容易ではなかった。少し思案した末、彼女は父の背中の下に腕を入れ、頭上高く持ち上げると、窓の外へ放り投げた。


 ガラスの割れる派手な音が響いたが、近隣にそれが聞こえるような家はなかった。


 彼女は、急激に体の力が衰えたのを感じた。それでもまだ、本気で格闘すれば大人の二三人は倒せる余力が残っていたが、長続きはしない。フルパワーに戻るには、数時間の休憩を要する。


 だが彼女は、休憩するつもりはなかった。


 階段を下りてキッチンのドアから裏庭に出ると、父親の骸がおかしなかっこうで花壇の上に転がっていた。彼女が大事に育てていた花が台無しになっていたが、それも気にならなかった。

 ここから、父親の妻子が埋葬された丘までは、少し歩かなくてはならない。彼女の残りのパワーでは、遺体をそのまま運んでいくことはできない。向こうに着いたら、土を掘って埋める余力を残しておかなければならないし。


 彼女は父親の上半身を抱き起こすと、頭のてっぺんに手を当てて思いきり押した。めきめきと頭部が肩の間にめり込んだ。彼女は同様に、膝や足も使いながら、父の体を可能な限り小さく折り畳んで、潰した。


 余計な水分が大量に流出したこともあり、父親の体は高さが四十センチほどの塊になった。これならば、彼女でも運ぶことができそうだ。


 普段使わぬ怪力を使った彼女の華奢で未熟な体のあちこちから痛みの信号が発せられていたが、彼女はそれを無視した。実のところ、痛覚を実装したといっても、その電気ショック様の信号を受信したら、顔をしかめて痛がっている素振りを見せるだけのこと。人間と同じようには、苦痛を感じることができないのだった。


 それでも体力は急激に落ち込んでいた。彼女は納屋からシャベルを取り出して肩に担ぐと、丸めた父親の体を手で押して転がしながら、丘を目指した。


  *


 父親の亡骸をどうにか穴に埋め終えた時には、少女の体力はほとんど残っていなかった。全身がべとべとし、土で汚れていた。しかし、それを不快に感じているというパフォーマンスを披露する人間はもういないので、彼女は気にしないことにした。

 仕事をやり終えたのだから、もう休んでもよいはずだった。数時間眠れば――実際には、全機能をセーフモードにしてエネルギーが蓄積されるのを待つだけだが――またいつも通り動けるようになる。


 だが、一体何のために?


 彼女は、父の問いを思い出した。


「一人になった時に、なにかやりたいことはないのかね?」

 考えてみたが、やはり何も思いつかなかった。


「寿命を全うする前に、機能を完全に停止させることもできる」

 父はそうも言った。そして、その方法を彼女は教えてもらっていた。


 だが、なんのために?


 父が生きていれば、彼女は家に戻って、シャワーを浴びて着替えるだろう。こんなに汚れて、臓物の一部が肩に引っかかっているような状態で、人前に出たら叱られる、と知っているから。だが、父がいなくなった今は――いかなる行動も、意味がないように思えた。


 これが、悲しいという感情かしら?


 彼女はその後、長い間ずっと、二百五十年ほど、父親と妻子が並んで眠る墓の前に立ち尽くしていた。彼女には退屈するという機能は実装されていなかったから。

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