第80話 井戸からの声

 私の母は苦労人だった。


 父が家を出て行ったのは、私が六つかそこらのことだった。父に関する記憶は殆どない。女好きで酒飲み、度々母に暴力を振るう酷い男で、挙句の果てに浮気相手と駆け落ちしたのだそうだ。父が居なくなって以来、母は再婚もせず、女手一つで私を育ててくれた。


 私は都会の大学への進学を機に家を出た。本当は高校を卒業したら就職して家計を助けるつもりでいたのだが、勉強が得意だった私に苦学してでも大学へ行くようにと説得したのは母だった。


 今時は、女の子でも学がなければならない。


 母はそう言った。学費は、母が爪に火を灯すようにして貯めたお金を出してくれた。生活費は全てバイト代でまかなわなければならなかったが、母の苦労を見て育った私には、そんなことは全く苦にならなかった。


 しかし、勉強とバイトの両立に忙しく、田舎に一人暮らす母とは電話やメールのやりとりをするぐらいだった。そして私は、母の勧めもあり、大学卒業後も田舎には帰らず、都会で就職先を見つけた。


 社会人になってからは、母へ毎月ささやかな仕送りをした。母は要らないと言ったのだが、これは私が頑としてゆずらなかった。「出してもらった学費を返す」という名目でようやく納得させたのだ。仕事が忙しく、帰省するのが年に二回から数年に一回と段々減っていくことへのお詫びでもあった。


 がむしゃらに仕事に打ち込んだ私は職場でそれなりの成功を納め、収入も増えた。母を呼び寄せたいと何度か提案してみたが、案の定断られた。母は、亡くなるまでずっと、父が出て行ったきり戻って来ない家に住み続けていた。


 それは、強風が吹いたら倒壊しそうな平屋建てのプレハブ小屋だった。狭い台所とトイレ、風呂、六畳間に四畳半、何もかもが狭苦しく、古ぼけていた。裏庭に畑があり、そこで茄や胡瓜等を育て生活の足しにしていた。


 母の死体は、隣のアキさんが発見した。


 アキさんも夫に苦労させられた人だそうだ。私が物心ついた頃から一人暮らしで、近所に小さな飲み屋を開いていた。母は町工場や掃除の仕事をしており酒など一滴も飲めないのに、なぜか二人は仲が良かった。アキさんが気さくで面倒見のいい人だったからだろうか。私のことも随分可愛がってくれた。


 そのアキさんが、裏庭の畑で倒れている母に気づき、救急車を呼んだが、手遅れだった。アキさんから連絡をもらって、私は急遽帰郷した。実家に帰るのは三年ぶりだった。


 葬儀や相続の手続きを済ませ、自分の家――三十年ローンで購入したマンションだ――に戻った私は、ひと月ほどして、またアキさんから連絡を受けた。老朽化も著しいため取り壊すことにした実家の解体作業中に、裏庭の井戸から白骨死体が見つかったというのだ。


 白骨が身に纏っていた衣服等から、それは失踪したと思われていた父と断定された。私も警察から事情聴取を受けたが、何しろ父の失踪当時、私はまだ六歳だったし、叢に埋もれた井戸の残骸が裏庭の片隅にあったことなど、すっかり忘れていた。


「父はいつも通り酔っぱらっていて、母に暴力を振るっていました。そして、母が隠していたお金を毟り取るようにして、『こんな家、もう二度と戻るものか』と言い捨てて出て行きました。私が憶えているのは、それだけです」


 私は刑事にそう話した。父の死体には、頭部に損傷があったそうだが、何しろもう三十年も昔のことだ。アキさんの証言も、私と似たり寄ったりだった(隣の家まで酔っぱらった父が『出て行く』と怒鳴り散らす声が聞こえたのだそうだ)。周辺には当時を知る者は他におらず、結局、当時既に干上がって使用されていなかった古井戸に、父が何らかの理由で(恐らく酔っぱらって)転落した、つまり事故だったということで済まされた。



 私は、母の墓参りのついでに、かつての隣人アキさんの家に都会のお菓子を持って挨拶に行った。私の実家があった場所は更地になっていたが、雑草に覆われまだ売れ残っていた。


「本当に、色々お世話になりました」と玄関先で深々と頭を下げる私に、アキさんは言った。

「キョウコちゃん、まさかあんた、覚えているのかい」


 私は、曖昧な笑みを浮かべ、答えなかった。


 アキさんは、これでもう全て終わったのだから、あんたもお母さんももう自由だ。私は墓まで秘密を持って行くし、それももう長いことじゃない。あんたはあんたで、すべて忘れて幸せになるといい。そう言った。


 私は四十近くなって未だ独身だった。結婚を考えるような相手がいなかったわけではないが、どうしても踏み切れなかった。父の声を、母の姿を、今でも忘れられずにいるから。


 こっちへおいで。とアキさんは泣きじゃくる私の肩にそっと手を置いて抱き寄せた。


 あんたは、何も聞いてない。いいね。そうじゃないと、お母さんが警察に捕まって、二度と会えなくなるんだからね。


 アキさんは怖い顔でそう言うと、私を彼女の家へ連れて行って、二階の押し入れに閉じ込めた。私は暗がりの中で、耳を塞ぎながら、泣いていた。


 助けてくれ、と井戸の中の声は叫んでいた。血が出てるよ。いてえよ。助けてくれよう。もう二度と手はあげないから。お願いだ、助けてくれ、と。


 石でも投げてやればいい。ほら、このでかいの。アキさんの声が言った。それに対して母が何と答えたのかは、聞きとれなかった。


 アキさんの家の押し入れから出してもらった時、井戸の中の声は、もうしなくなっていた。

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