第55話 マリー
マリーとは共犯関係にあったといっていい。
眠れない夜に家を抜け出して落ち合った。酒に酔った父親が眠っている間に。
昼間は車の往来が激しい道路も、夜中にはひっそりしていた。夜のマリーは、瞳孔が開いて真っ黒になった瞳でわたしを見つめ「ニャー」と鳴いた。彼女はタバコ屋の看板娘だった。
タバコ屋の隣は特別な支援を必要とする子供たちのための施設で、ちょっとした遊具が設置された狭い運動場があった。夜中に音のする遊具を使用することはできなかったが、わたしとマリーはよく金網を乗り越えて遊びに行った。運動場の奥にある建物には、特別な滑り台があるのだ。
それは二階建の建物の二階の窓から、緩い螺旋を描いて地上に達するようになっていた。普通の滑り台よりは幅が広く、底板は適度な摩擦でスピードを抑制するよう設計されていた。そのため、下から容易に上っていくことができた。
子供心にも、それは遊具ではなく、火災などに備えて設置された避難用の非常滑り台だということを知っていたが、朝集団登校するための待ち合わせ場所になっているタバコ屋前に集合した子供たちは、自由に隣の施設に侵入し、時間が許す限り鬼ごっこをしたり滑り台を楽しんだりしたものだ。施設の子供たちがやって来るのは、わたしたちが登校したあとだったから。
友達のないわたしは、週末の昼間、施設がお休みのときに、そのスロープを上りきった平らなスペースで本を読んだり夢想したりするのが好きだった。そこは建物の裏側にあり、表通りからは見えない。そして、夜中の風景は、昼間のそれとは違って見えた。施錠されたガラス窓の中は子供たちの教室のようだが、机や椅子はなく、玩具が入っているらしい段ボール箱が暗い影に沈んでいた。
わたしはマリーが一緒なら、暗闇も怖くなかった。寒い夜には、彼女の体はとても暖かかった。
マリーの姿が何日も見えなくて、内気なわたしもついに我慢できなくなりタバコ屋の店番のお婆さんに訊いてみた。すると、マリーは事故に遭ったと。どうやら夜中に車に轢き逃げされたらしく、道路に横たわっているのを近所の人に教えてもらった、とお婆さんは言った。
わたしは泣かなかったが、夜中に家を抜け出しても、施設に侵入することはやめた。一人では怖かったから。
* * * * * * *
夜、塾からの帰り。雑居ビルの四階まで上る階段は、蛍光灯が切れかかって点滅している箇所もあり、普段にも増して不気味だった。父の仕事の都合で幼稚園のときに引っ越してきて以来の住処で、はや中学生になってもなお、わたしはその階段が苦手だった。
一階は駐車場で二階三階はワンフロア丸々何かの事務所になっており、居住部分は四階。事務所のドアの暗いすりガラスも恐ろしげで、わたしは勢いをつけて一気に階段を駆け上がった。三階の踊り場に到達し、柱に左手をついてぐるりと回った途端、数段上にいる小柄なシャム猫の姿が目に入った。
心臓が止まりそうになった。
心細い蛍光灯の下で瞳孔が開いて真っ黒な瞳で見つめてくる猫――
「マリー!」
夜だということも忘れてわたしは叫んだ。
「ニャー」
シャム猫は鳴いて、軽やかに階段を下りてくると、硬直しているわたしの足に体をこすりつけ、見上げてまた「ニャー」と鳴いた。
「マリーなの?」
わたしはシャム猫の頭を撫でた。元々動物が苦手で、人懐っこかったマリーが姿を消してから三年、他の犬猫の頭を撫でることなどできなかったのに。シャム猫は目を細めて撫でられるままになっていた。暖かかった。艶々した毛並みは、野良猫のものではない。マリーも、とても美しい猫だった。
「マリー、帰って来たの?」
途方に暮れたわたしは、マリーを抱き抱えてタバコ屋に向かった。
きっと、お婆さんの話を勘違いしたのだ。マリーは事故に遭ったが、死んではいなかった。とはいえ重傷だったので、傷が完治するまで相当の時間が必要だった。元気に外に出られるようになっても、今日この日まですれ違いが続き、お互い顔を合わせることがないままになっていた。そんなことをつらつら考えて、なんとか理由をつけようとしていた。
タバコ屋はまだ営業中で、店番をしていたお婆さんに猫を見せると、お婆さんは目を丸くした。猫はお婆さんにも「ニャー」とあいさつをして、彼女の足にしきりに頭や体をこすりつけた。お婆さんは嬉しそうに、しかし困惑を隠しきれない様子で猫を抱き上げると、言った。
「でも……うちのマリーは女の子だったのよ」
かれこれ三十年前のできごとである。
今、そのタバコ屋は店をたたんでおり、お婆さんも亡くなってしまっている。父は定年退職するまであの雑居ビルに住んでいたが、その父ももうこの世にはいない。わたしが何度夜中に家を抜け出しても、気付くことがなかった父。
わたしは、あれは確かにマリーだったと考えている。あの雑居ビルの階段に動物がまぎれこむなんてことは、後にも先にもあれ一回限りだったし、あのあと、近所でシャム猫を見かけたことは一度もなかった。マリーがわざわざ、わたしに会いに来てくれたのだ。わたしたちは、友達だったから。
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