第12話 いつまでもどこまでも

 新しい彼女がシャワーを浴びている間に、俺は窓際に立ち、カーテンを開けた。


 午後九時を過ぎているが、マンションのすぐ前に立つ街灯の周辺は明るく照らし出されていた。俺の部屋は三階だ。街灯の傍らに立っている髪の長い女の姿がよく見える。他に人影はない。表通りから外れたうら寂しい路地だ。夜間に一人で歩くことは、ほとんどの女性が敬遠するだろう。


 俯いていた女が顔を上げた。俺と目が合って、女は寂し気な微笑みを浮かべた。下から見上げている女に見えるのは、素っ裸の俺の上半身だけだとわかっていたが、俺は落ち着かない気持ちになってカーテンを閉めようとした。


「どうしたの?」


 いつの間にかシャワーを終えていた女がバスタオルで髪を拭きながら背後に立っていた。


「嫌だ、カーテン閉めてよ。変態に覗かれたらどうするの?」


 彼女はタオルを体に巻き付けて、窓の外を眺めた。


「誰もいないわね」


 カーテンを閉めると、彼女は俺の首に両腕を回し、


「ねえ、もう一回」


 と甘えた声を出し体を押しつけてきた。彼女の湿った体を抱きしめながら、あいつに彼女のことを見られただろうか、と俺は思った。カーテンが閉まる瞬間も、俺にはあいつが街灯の傍らに立っているのが見えていた。


 そう、なぜかあいつの姿は俺にしか見えないらしいのだ。もうとっくに死んでいるのだから見えなくて当然だと思うのだが、ではなぜ俺には見えるのか。


 罪悪感? 


 そうかもしれない。あいつのことを考えながら平気で他の女を抱けるような男でも、潜在意識では何か思うところがあるのかもしれない。まさか、死んでからもストーカーされるとは思わなかったが。



 タマミと付き合っていたのは、三年前のごく短い期間だけ。俺は自他ともに認める気の多い男で、当時も今も女はとっかえひっかえだ。別に寝た女の数を誇りたいわけではないので、この女と一緒に居たいと思うことができれば、その一人と長く関係を続けたいと思っている。だが、そんな相手にはこれまでお目にかかれたことがない。長くて一年、それがこれまでの最長記録で、タマミとは三ヶ月だった。俺のような男と付き合う女はたいてい後腐れがなく、むしろ向うも体だけの関係と割り切っている場合も多い。既に他の女がいると告げれば肩をすくめるか、そうでなければ平手打ちの一つも食らわせて悪態をつきながら去っていくものだが、タマミは違った。


「私には、あなたしかいないの」


 涙ながらにそんなことをいうので、こちらも面食らってしまった。だがもう既に次の女との関係が始まっていたので、俺は突っぱねた。それからタマミは、ああして俺のマンションの外に立つようになった。


 最初は気になったし、気持ち悪かった。意気揚々と新しい女を連れて戻って来た時に、暗がりに立っている元カノ。ホラー映画さながらだ。タマミにこんなことはやめるように忠告し、やめないなら警察に訴えると警告し、実際警察にも行ったが、被害者が俺のような男だと警察も真面目にとりあってくれないらしい。


「まあ……しばらく様子をみて、実際に何か被害にあうことがあったらまたご連絡を」


 とその警察官は言った。実際の被害とは何かと尋ねると、家の前に動物の死骸が置いてあるとか、郵便受けに汚物を入れられるとかだという。


「部屋に女性を連れ込むのも、しばらくおやめになったらどうですか」


 などと呑気なアドバイスもくれた。


 幸い、タマミがそのような「実際の」行為に及ぶことはなかったが、いつ何をされるかわからない気持ち悪さは常に存在していた。試しに一度、引っ越しをしたが、用心深く相手に知られないよう実行したつもりなのに、しばらくするとタマミは新居の前に佇むようになった。警察の言う通り、しばらくは女を部屋に連れ込むのはやめた。しかし、それも段々に腹立たしくなってきた。


「話し合おう」


 といつものように街灯の横に立っていたタマミに切り出した時、彼女は嬉しそうだった。久しぶりに俺に話しかけられたからだろう。部屋に入れる気にはなれなかったので、車に乗せて走り出した。


「ドライブ、久しぶりね」


 うきうきと窓の外を眺めそんなことを言うタマミに、俺は改めて恐怖を感じた。その日は土曜日で、まだ昼間だったが、俺は背筋がぞっとした。


「やめてくれよ。俺たち、別れてからもう一年以上経つんだぞ。いつまで俺をストーキングするつもりだ?」


「そんな悲しいこと言わないで」


 タマミはしくしく泣き出した。


「泣くなよ。とにかくもう終わったことだ。これ以上俺に付きまとわないでくれ。そんなことをしても増々嫌われるだけだって、わからないのか? 俺に憎まれることが目的なのか?」


「そんなこと言わないで。あなたに嫌われたくない。もうこれで最後にするから。最後の思い出にドライブに連れて行って」


 俺は藁にもすがる気持ちで、本当にこれで最後にするのか、と何度も念を押した。


「絶対よ。約束は守るわ」


 と言うので、俺はタマミの言うなりに車を走らせた。


 曲がりくねった山道を走り、人気のない駐車場に車を停めさせられた時点で不安がなかったわけではない。しかし、なんといっても腕力ではこちらの方が勝るし、相手が暴力的行為に出れば、さすがに警察も動くだろうという計算があった。そんな風に思いつめる程度にはストーカー行為に悩まされていたのだ。


 タマミは先に立ってどんどん山道を歩いていく。見た目によらずアウトドア派でハイキングや山登りに行きたがったことを俺は思い出した。虫が大嫌いな俺はことごとく断っていたが。


「ここでいいわ」


 とタマミは言い、立ち止まった。


「ここなら人が来ないから。私、あなたなしでは生きられないの。だから、前から準備してたのよ」


 タマミは鞄の中から封筒を取り出し、中の便箋を抜き取って俺に差し出した。


「読んで。指紋が付かないようにハンカチか何かで持ってね」


 俺は言われた通りにした。便箋は一枚。短い文面だった。


『すべて嫌になりました。もう終わりにします。 西川珠美』


「なんだ、これは」

「遺書よ。見ればわかるでしょう」


 俺から受け取った便箋を封筒の中に戻すと、フラップ部分を舐めて糊付けし、スカートのポケットに入れた。


「まさかお前、俺を道連れに」

「そんなことしないわ。だってあなたを愛しているんですもの」


 痺れるような恐怖に身を固くした俺に対し、タマミはこともなげに言い、鞄の中からPTPシートに包まれた錠剤の束を取り出した。それには見覚えがあった。眠れないからと彼女が服用していた睡眠薬だ。それを一錠一錠ぷちぷちと取り出し、まとめて口に放り込むと、鞄の中から取り出したペットボトルの水で飲み下し、また錠剤をぷちぷちと……それを五六回繰り返し、空になったシートの束とペットボトルを鞄に戻した。


「ここで眠るから、あとは上から土をかぶせてくれればいいの。絶命するまで待つ必要はないわ。ちゃんと埋めないと、死に損なうかもしれないわよ。そうしたら、またあなたのところに戻るから」


 タマミはすたすた歩いて大きな木の後ろに回り込んだ。そこには少し開けたスペースがあり、深く大きな穴が掘ってあった。人間一人なら十分に入れる穴で、掘り返された土が傍らにうず高く積まれ、シャベルが立てかけてあった。


「生き埋めにしろっていうのか? バカな」

「それもそうねえ。じゃあ、やり易いようにしてあげるわ」


 タマミはそう言うと、鞄の中からナイフを取り出し、自らの首に刃をあてた。



 俺は這う這うの体でマンションに戻った。シャワーを浴び入念に体を洗い、車の中を隅から隅まで掃除した。冷静さを取り戻し、あれでよかったのだと自分に言い聞かせた。


 首から血を噴きながら、タマミの体は、自らが掘った(としか思えない)穴の中に落ちた。俺は咄嗟に穴に飛び込んで止血しようと思い、やめた。思い直して救急車を呼ぼうとスマホを取り出したが、圏外だった。電波が届くところまで移動しようと車まで戻りハンドルを握り現場から遠ざかるうちに、通報する気もなくなった。


 あれは本人の強い意思だったのだし、自分には何一つやましいところはない。ただ、俺はタマミとのことで警察に相談に行っている。ストーカー被害に悩む俺に何もしてくれなかった警察が、今度はタマミの死について俺にあらぬ疑いを持つかもしれない。



 俺は少々やましい気分を味わったが、すぐにタマミの居ない人生を満喫するようになった。時間が経つうちに、例えタマミの死体が発見されたとしても、あれは自殺で、自ら掘った穴に入って死んでいる(俺は上から土を被せたりしなかった)のだから、俺が疑われるいわれはないと自信が持てるようになった。ところが。


 ある日ふと窓の外を覗くと、そこにあいつが立っていた。いつものように、電灯の陰に隠れるように。俺は思わず悲鳴をあげた。


「なんなの?」


 ベッドでまどろんでいた女が素っ裸のまんま俺の側に来て、窓の外を覗いた。


「なによ。何もないじゃない」


 俺は震える手で街灯を指さした。


「えっ、どこ? 誰もいないわよ。ちょっと、ふざけてるの?」


 俺は狐につままれたような気持だった。タマミはこちらの騒ぎに気付いたように顔を上げた。気のせいではなく目が合った、と俺は思った。裸の女が裸の俺の肩に抱きついているところを、はっきり見たはずだ。だがタマミは悲しそうな寂しそうな笑みを口元に浮かべただけだった。



 不思議なことに、それが見えるのは俺だけのようだった。タマミは常に街灯の所に立っているわけではなく、何週間も姿を見せない時もあった。しかし、ようやく成仏したのかと安心しきっているところへまた出現したりする。ひょっとして全ては質の悪い悪戯で、タマミは実は生きていて、俺の気を引くためにあんな大芝居をうったのではないかと疑ったこともあるが、俺が部屋に連れ込む女たちの誰にも、彼女の姿は見えないようだった。


 薄気味が悪いという以外に害はなく、今度は警察に相談に行くわけにもいかず、俺はタマミの幽霊にストーカーされることに慣れてしまった。それから何度か引っ越したが、生きていた頃と同じように、タマミはしばらくすると新居の前に佇むようになる。こちらに話しかけてきたりはしないので、無視するより仕方なかった。



 そんな俺でも、いよいよ年貢を納める時が来て、結婚し、子供もできた。タマミは相変わらずストーカーを続けていたが、俺にしか見えないのだから、そのせいで家庭に波風が立つことはなかった。結婚した時四十近かった俺は、もう浮気をしようなどという気力はなく、子供を可愛がる普通の親父になった。長女も可愛かったが、やはり二人目が男だった時は嬉しかった。同胞ができたような気がしたのだ。


 娘と一緒に昼寝を始めた妻を休ませようと、俺は元気な息子をベビーカーに乗せ公園に出かけることにした。エレベーターに乗り込む時に、隣の奥さんと一緒になった。息子は機嫌よく奥さんに手を振った。


「まあ、お利口さんね」

「こいつ、女性には愛想がいいんですよ。男性は無視するのに」

「まあ、お父さんに似たのかしら」


 一階まで降りると、意味ありげな目配せと微笑みを残し、隣の奥さんは自転車に乗って行ってしまった。


「やれやれ、女ってやつは」


 俺は息子に話しかけた。一歩マンションの外に踏み出すと、天気の良い穏やかな散歩日和だった。電柱の傍らにタマミが立っていたが、俺はさして注意を払わなかった。ところが、驚いたことに、タマミはこちらに気付くと、にこやかに手を振ってきた。俺は驚愕して思わず足を止めた。


 しかし、タマミは俺を見ているのではなかった。はっとして息子を見ると、息子はにこにこしながら、タマミに向かって手を振り返していた。タマミはゆるゆると片手を左右に振りながら、俺の方を見て、にやりと笑った。

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