第40話 無理心中を拒んで自殺を選んだ子

 その子は度々病院にやって来た。風邪をひいたり、湿疹が出たり、理由は様々だが、子供にはよくある疾患だった。


 ある日、その子のお母さんは言った。


「この子もだんだん大きくなるので、大変で……」


 お母さんが愛情を持ってその子を育てていることは、診察室で短い時間しか接することがないような自分の目にも明らかであった。他人の前でだけ取り繕おうなどとしても、案外うまくいかないものだ。勿論、嘘をつくスペシャリストみたいな人間はいるものだが、その子のお母さんは、そういうタイプではなかったと思う。なぜならお母さんは、暗い顔をして十歳になったその子を見て言ったから。


「この子も、どんどん大きくなるので」


 お母さんは、小柄な人である。




 久しぶりにその子がやってきた。勿論、お母さんに連れられて。タクシーから降ろされたその子は、お母さんに引きずられて病院の玄関までやってくると、しばらくの間、土間に寝転がされていた。その子は、一人では歩くことができないのだ。前回見た時よりも背が伸びて、体重も増えていた。私は、いよいよ手伝いが必要になったかと、腕まくりをした。


 診察用のベッドに運ばれたその子は、いつものように静かに天井を見つめている。手のかからない大人しい子だ。


「しばらく見なかったけど、どうですか」


 と先生に言われて、その子のお母さんが語ったのは




 お母さんは、ある日とうとう、くたびれ果ててしまったのだという。


 旦那さんは仕事で留守がちだし、自分では何一つできないその子の世話は、殆どお母さん一人でやっていた。寝たきりとはいえ、確実に成長していくその子の世話をする身体的負担は、日に日に大きくなっていった。しかし、お母さんがもう限界だと思ったのは、腰が痛いとか、疲れたとか、そういうことではなくて、もし万一自分に何かあった場合、その子はどうなるのかと、そんなことが頭をよぎったせいで、そうしたら


 もう駄目だ


 と唐突に思ってしまったのだそうである。お母さんは、まずその子を手にかけてから、自分も死のうと思った。自分がいなくなれば、この子だって一人では生きていけないのだから、残していくわけにはいかない。


 そして毎日、じっと横たわったまま天井を見上げているその子の顔を眺めながら、方法を考えていた。


 するとその子は、ある日突然、ご飯を食べなくなった。食は細い方ではなかったのに、何日も何日も、口を真一文字に結んで、突き付けられたスプーンを拒絶するその子を見て、お母さんは死ぬことを考えるのをやめた。




「そうしたら、この子がまた食事をするようになって……私がしっかりしなくちゃって思ったんです」


 そう言ってお母さんはハンカチで目元を押さえた。


 その子を送り出す時にも、私は張り切って腕まくりをした。タクシーに乗って去っていく前に、お母さんは私に深々と頭を下げたので、私も慌てて頭を下げた。

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