第93話 青髭

 何もかもが嫌だった。

 駅の改札口付近に、その子は立っている。痩せぎすだが背が高く、実年齢より上に見られることが多い。持っている服の中では一番まともな、穴が開いたり綻びたりしていなくて、子供っぽく見えない物を選んだつもりだが、どうにも自信が持てない。スカートが短すぎたりTシャツがぴっちりしすぎたりしているのは、彼女の成長速度に合わせて洋服を買い替えることができない家庭の事情のせいであり、彼女のせいではない。

 ほっそりと伸びた彼女の足に遠慮のない視線が集まることに辟易しながら、彼女は待ち合わせの相手を待っている。

「君が〇〇ちゃんかな」

 背の高い男性が立っていた。彼女は無言で頷く。それは彼女の本当の名前ではないが、ニックネームだということにしておけば嘘をついたことにはならないだろう、と自分に言い聞かせてメッセージをやりとりする際に使った名前だ。

 先に立って歩く男の後を、彼女はついて行く。ダークな細身のスーツを着た男の頭髪は短く、丁寧に撫でつけられていた。男の身だしなみがよいことに少し安心した彼女は、父親よりも少し歳が上だろうか、と考える。彼女は実父の顔を知らないから、想像上のお父さんだが。

「お腹空いてる?」

 男が少し振り返って彼女に聞いた。首を横に振った彼女に、男は少し微笑んでから前を向いて歩き続けた。


 そのようなホテルに入るのは初めてだったし、彼女はそもそもこれまでいかなるホテルにも宿泊したことがなかった。ぴかぴかとした室内装飾は高級なものではないが、彼女の目にはきらきらした何か素敵なもののように映る。大きなベッドがあるのも、擦り切れた畳の上に薄い布団を敷いて寝ている彼女には羨ましかった。

 無論、これから何が起きるのかは理解していた。

 目を瞑って、歯をくいしばって我慢すれば済む。彼女は自分にそう言い聞かせる。実際、そんな大層なことではない。みんなやっていることなのだから。

 男は上着を脱ぐと、彼女にペットボトルのお茶を渡した。喉が渇いていた彼女は、喉を鳴らしながら一気に半分ほど飲み下した。

 そして彼女は意識を失い、床に倒れた。


 * *


 目を覚ますと、彼女は両手両足を拘束され、身動きできなくなっていた。頭が重く、考えをまとめることができない。ぼやけていた視界の焦点が合うと、自分が全裸で縛られているらしいことが分かった。シーツをかけたままのベッドの上に寝かされている。

 男の背中が目についたので文句を言おうとしたが、口に何か詰め込またうえにテープのようなものを貼られていた。それでもくぐもった音を喉の奥から発することはできたので、男が振り向いてこちらを見た。

 彼はベッドサイドのテーブルにかがみこんでカチャカチャと金属製の音を立てていたのだが、振り向いた手に何かを持っていた。それがテレビドラマで見た医療用の刃物であることに気付き、彼女は目を見開いた。

「あんなに一気に飲むから」

 男はそう言った。

「完全に意識を亡くした相手ではやりがいがない」

 男がベッドの上に片膝をついたのでベッドが軋んだ。彼女は体をねじって男から遠ざかろうとするが、髪の毛を掴まれ引き戻された。悲鳴を上げたが、大きな声は出せなかった。

「無駄だってことがわからないのかな。余計な手間をかけさせるのなら、それだけ苦痛を大きく、長引かせるぞ」

 彼女は首を横に振った。涙が滲み出ていたのは痛みのせいだけではない。

「はした金のために、ネットで知り合った男に身を任せようなんて考えるからこんなことになるんだよ」

 男は彼女の体を仰向かせ、馬乗りになった。後ろ手に拘束された手や腕が痛んだが、それどころではなかった。男は左手で彼女の口元の辺りを鷲掴みにして固定した。右手に持ったメスが、ゆっくりと彼女の左目に近づけてきた。


 * *


 家に戻ると、いつもは少しだけ不快に感じる臭いにその子は安堵を覚えた。コンビニの袋に詰め込まれたゴミで床は足の踏み場がない。彼女が昨日片隅に置いたランドセルの赤が妙に生々しく、眩しかった。

 母親が外出中なのは幸いだった。

 彼女はゴミ袋を蹴飛ばしながら浴室に向かうと、のろのろと服を脱ぎ始めた。体中から滲み出た血で下着と衣服に染みができていた。傷はどれも浅かった。男は結局、殺す気はなかったのだと彼女は思う。

 ホテルでシャワーを浴びていたが、血が染みて茶色く変色した衣類を手に浴室に入り、シャワーを浴びた。石鹸をつけて揉み洗いすると、染みはほぼほぼ洗い流すことができた。ホッとした彼女が降り注ぐ湯の下に座り込んでいると、突然浴室のドアが開いた。

 湯気の向こうに顔を突き出しているのは、母親が現在付き合っている男だった。

「あれっ、一人?」

 茶髪の男は、ニヤついた顔で言った。

「ちょうどいいや、久しぶりに一緒に入ろう」

 ドアが閉められ、すりガラスの向こうで男が服を脱いでいるのが見える。

 男は――彼女をホテルで死ぬほど恐ろしい目に遭わせた男の方だが――ことが終わって彼女の拘束を解き、放心状態の彼女をバスルームに引きずっていく時に、こういったのだった。

「こんな目に二度と遭いたくなければ、親の言うことを聞いて家で大人しくしていることだよ、お嬢さん」

 派手な音を立ててドアが開き、彼女を回想から引き戻した。

 殺さないでなんて、一言も言わなかったのに。

 彼女はそう思う。

 死ぬのは嫌だなんて、思いもしなかったのに。



******

この短編は、加筆修正して、長編『今日、不登校中の児童の列に……』の一エピソードになっています。

https://kakuyomu.jp/works/16816927860600558353

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