第27話 蛇女
海に近いその町は死にかけていると言われていた。
まず、魚が年々捕れなくなっている。最初に町から逃げ出したのは、漁師たちだった。
次に漁師たちを顧客としていた飲食店が次々と潰れて行った。潰れる前に店をたたんだ者、夜逃げした者、更にスーパーやコンビニがなくなり、医者に診てもらうためには、山を越えて隣町まで行かなければならなくなった。
トモキの通う小学校でも、児童の数がじわじわ減り続けていた。トモキの教室の机は、既に四台その持ち主を失っていたが、今朝また一人、学校に来なかった者がいた。朝、担任がやってきて、
「残念なお知らせがあります」と言うと、みんなからああーと低い声が出る。
「花沢さんが、ご家族の仕事の都合で引っ越しました」
さよならさえ言わずに、彼らは去っていった。次は誰か予測するのがみんなの遊びになっていた。
「おい、田中。お前んとこの工場、最近景気が悪いんだって? 次居なくなるの、お前じゃね?」
「縁起でもないこと言うなよ」
そう笑った田中は、二週間後に担任から「残念なお知らせ」をされることになる。
トモキの父はテンキンゾクというサラリーマンで、一家の引っ越しは数年ごとに起きる。今の学校にも、去年転入してきたばかりだ。来年は六年生になるが、母は
「トモキが中学生になる前に他に移動になってほしいわ」と珍しく普段とは逆のことを言っている。
しかし、トモキはこの町が好きだった。まず海が近い。町のどこを歩いていても潮の香りがする。暇なときは港まで行って、現在も残っている数少ない漁船が戻って来て魚を荷揚げしたり、漁師が網を修繕するのを見物したり、ただぼんやり水平線を眺めたりできる。
更に、町を散歩すると、空き店舗や空き家があちこちにある。ガソリンスタンド、喫茶店、家具屋、おもちゃ屋、そしてたくさんの民家。見捨てられた建物というのは、あっという間に朽ちていくようだった。
トモキは廃墟・廃屋が好きだ。なかがどうなっているのか、想像するだけでワクワクする。何もない、そうかもしれない。普通はそうだろう。でも何か、残っているのかもしれない。急な夜逃げで、とりあえずの物をまとめて大慌てで出て行った家族や、商売を畳んで町を去った人、家族や親戚に見捨てられて一人孤独に亡くなった者、そんな人々は、何かを残していったのかもしれない。
何もなかったところに、後から入り込んだものもあるかも。
そんなことを考えながら、何か見えないかと外側から覗き込んだりするのが一人の時間を潰すのに最適であった。
あまり社交的でないトモキには友達がいない。どうせ来年か再来年には引っ越すのだし。辛い別れを経験するよりいいだろうと思っているが、友との辛い別れというのはまだ経験したことがなかった。
トモキの一番お気に入りの廃屋は、町の外れにある。その家は、住民がいなくなってから相当な年月が経過していることが一目でわかる。家の裏庭は山の裾野に繋がっていて、家の壁は二階まで蔓や蔦に覆われ、家屋の周辺に生い茂る植物に一階部分の半分ぐらいまで埋まっている。まるで、背後の山がゆっくりと侵略してきて家を呑み込む途中みたいだ。埃で薄汚れた窓ガラスはところどころ割れている。その隙間から恐々眺めると、内部も植物に侵食されているのが暗がりを透かしてかろうじて見てとれた。
一度この家のなかを探検してみたい、と常々思っているのだが、一人では腰が引けた。こういうときは、誰かいてくれれば、と切実に思う。秘密の探検に付き合ってくれる友が。親に言えば反対するに決まっているから、当然内緒で。
空き家に勝手に住みつくホームレスなどがいるかもしれず、危険だから絶対に近づいてはならない、とトモキは母から何度も言われている。トモキの新しい趣味には気付いていないはずなのに、母親の第六感というやつかもしれなかった。
そんなことを言われても――
では、一人で過ごす退屈な長い午後をどうやってすごせというのか。
前に住んでいた町には大きな図書館があったが、この町では、山を越えて隣町へ行かなければ本が借りられない。毎週末父が車で連れて行ってくれるが、それだけでは足りないのだ。町の唯一の書店は、トモキが引っ越して来た時点で既に廃屋になって久しかった。
トモキだってホームレスは怖い。いや、きっと悪い人ばかりでなくいい人もいるに違いないが、いい人なのか悪い人なのか判断がつかない人に寂れた町外れの空き家で遭遇するのは、かなり恐ろしかった。
しかし、他に選り取り見取りなのに、よりによってこんな植物に半分以上食らわれたような空き家を選ぶだろうか。隠れて済むのであれば、自分ならこの家は選ばない、とトモキは思う。植物のベッドというと聞こえはいいが、虫だの蛇だの潜んでいそうだ。
「あっ」
割れたガラスの向こうで、何かが動いた気がした。
六月のよく晴れた日で汗ばむぐらいだったが、背筋に冷たいものが走った。
すぐに引き返そうとして、やめた。家に近づきすぎなければ。トモキは小学校五年生にしては背が高く、中学生と間違われることが度々あった。足は速い方だ。
いざとなったら、ダッシュで逃げればいい。
トモキは生い茂る草をかき分けて窓に近づき、窓ガラスが割れてできた隙間に顔を近づけた。
埃まみれのガラスを隔てたすぐ向う側に、白っぽい顔が暗闇にぼうっと浮かび上がった。ものすごい顔だった。
トモキは声もなく後ろに倒れた。目を開いたまま気を失っていたのだ。
引っ越しの日がこれほど待ち遠しかったことはなかった。
六年生になったトモキには相変わらず友達がいなかったので、珍しく事前にクラスの担任からアナウンスがあったものの、父の車で町を出て行く彼を見送りに来た者はなかった。
後部座席に座ったトモキは、車窓を流れる風景を眺めていた。一年で更に空き家の数が増え、一層荒廃した感じを醸し出している。
「よかったわ、この町を出ることができてホッとしてる」
助手席の母がため息混じりに言うと、ハンドルを握る父は前方を見つめたままで答える。
「なかなか静かでよかったけどね。魚がうまいし」
「あなたはおいしくお酒が飲めればどこでも満足なんでしょ。昼間だっていうのに、商店街はシャッターが閉まった店だらけ、人通りも少ないし、気味が悪いわ。『死にかかった町』なんて名前でネットで騒がれてるらしいわ。物好きな人達が廃墟を見にわざわざやって来るんですって」
あのものすごい顔
トモキは思わず目を閉じた。あれはただの白昼夢だった、と頭の中で何度も唱える。
現に、目を覚ました時、日が暮れかかった廃屋の庭に彼は倒れていた。恐々体を起こしてみると、倒れた時にできたと思われる擦り傷と打撲以外目立った傷はなく、ズボンのポケットに入っていた財布は無事だった。
何もされていない、と安堵の息を吐きながら、トモキは乱れた着衣を直し、髪の毛に挟まった草や、衣服や剥き出しの腕についた汚れを可能な限り払い落として家に帰り、熱いシャワーを浴びた。断じて、何事も起こらなかった。
「ねえ、あの空き家よ」
母親の声にトモキははっと我にかえった。
「なんだい?」
「ネットで話題になってる家。なんでも――蛇女が最初に目撃されたのがあの家なんだそうよ」
「ほんとうかい? じゃあ最後の思い出に探検していこうか?」
車が減速し、トモキは叫び出しそうになった。
やめて!
しかしその前に母が口を開いた。
「やめてよ、気持ち悪い。どうせホームレスでも住みついてるのよ」
車は再びスピードをあげ、町外れの空き家の前を通過した。
「ホームレスがなんで『蛇女』になるんだい? いくら見間違えたにしても」
「よく知らないけど、青白い顔をして耳まで口が裂けているそうよ。そして、全身鱗に覆われているんですって」
「よく知ってるじゃないか」
「他に娯楽がないから、近所の奥さんたちみんなでその話で盛り上がってたのよ。なんでも、最近では、子供まで出るらしいわ」
「子供?」
「蛇女の子供、全身に鱗の生えた小さいのが何匹もいるらしいわ」
「それは皮膚病を患った野犬か何かじゃないのかい、可哀想に。お化けは見えたかい、トモキ」
リアガラスの遠ざかる風景に食い入るように見入っていたトモキは、父に呼ばれて弾かれたように振り向いた。バックミラーに映る父の目は笑っている。
「トモキはあのお化け屋敷に行ったことがあるのかい?」
「ないよ」とトモキは即答した。
「あるわけないわ。危ないから近づかないように、って口を酸っぱくして言ってたもの」
トモキは後部座席に体を深く沈めて目を閉じた。
彼は視力がいい。
遠ざかっていくあの空き家の崩れかかった門から、あの時の白いものすごい顔と、それより小さい、小型犬ほどの大きさの生き物たちの白い顔が、見えたような、気がした。
気のせいだ。あの日と同じで、平気なふりをしても内心ビビっているから、あんな幻を見るのだ。
恐怖のあまり気を失ったあの日、家に帰ったトモキは母に「転んだ」と説明したのだった。風呂に入る時に、腿の内側に何か光るもの――薄く半分透き通ったうろこ状のもの、ただし鱗にしては大きすぎるので鱗のはずはなかった――が付着してるのに気づいた。
内腿に擦り傷ができていたが、シャワーでよく洗い流したら、傷が化膿することもなかった。さっき見たと思ったいくつもの小さい顔が自分に似ていたなんてことは、全くの気のせいだ。
トモキは後部座席でぎゅっと目をつむって、この死にかかった町から脱出できることを心から喜んだ。
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