第6話 バンクロフト伯爵家へ
翌日の午後、フィオナはまた馬車の中にいた。
だが昨晩と違って同乗者は父ではない。不満そうに眉を下げてフィオナの向かいに座るのは、クレイバーン家に長年仕えるじいやのハンスだ。
怪我が治るまで大人しく家にいろと言う父と妹に黙って、ハンスを伴い昼食後にこっそり抜け出したのだった。
「フィオナ様。やっぱり引き返しませんかねえ」
「もう、じいや。何回も言わせないで」
「ですが、落とし物なんて、明日でも明後日でもよろしいではないですか」
そう言うハンスの視線は足元に向けられている。痛々しそうに「家にいたらいいのに」と目は口ほどに伝えていた。
「湿布も効いたし、今はほとんど痛くないから大丈夫。それより、これを早く返してあげないと。きっと探していると思うの」
フィオナは苦笑すると、ぽん、と膝の上に置いたレティキュールを軽く叩いてみせた。
細やかな刺繍がされた小さな手提げ袋は叔父から貰ったもので、中には、昨日フィオナの袖にくっついてきたカフリンクスが入っている。
午前中に紋章年鑑で確認したところ、予想通りバンクロフト伯爵家のものだった。
「お預けいただければ、代わりに爺がお届けしますのに」
「こういうのは直接渡さなきゃ。それに本当に本人のものかどうか、まだ分からないもの」
同じ家でも紋章は個人で微妙に違い、全くの同一ではない。だが、カフリンクスは狭い面積のため略されており、誰のものかまでは特定できなかった。
紋章はいわゆる身分証明書である。
そして紋章入りの物を他家の人物が持つ場合、その人と紋章の家に関係性があることを示す証でもある。
もちろん、そんなに単純なことばかりでもないが、手元にあるこれはなんといっても重鎮貴族のものである。
これを見せれば、手持ちが無くともほとんどの店で買い物ができてしまうだろうし、上手くすれば借金だって可能だろう。
さらには、所持者が犯罪などの事件を起こせば、伯爵家に関与の疑いがかかる恐れがある。
郵便や小包は便利だが、配達途中の紛失などがないわけではない。また、目ざとい輩が盗む場合もあるだろう。
そういった不測の事態を考えると、拾ったフィオナが直接本人に返すのが一番安全だと思われた。
「フィオナ様の責任感の強さと行動力は、得難い長所だと思いますよ。でも、ご自身のお体をもう少しいたわってですね」
フィオナがこうと決めたら曲げない性格だと分かってはいるものの、ハンスはほとほと困った顔でそれでも何度目かの説得を試みる。
「別に病気じゃないから平気よ?」
「ですが、せめて、先にお手紙で面会予約を取ってからでも」
切々と訴えるハンスに、フィオナは肩を竦めた。
「縁もゆかりもない小娘の手紙なんて、伯爵家がいちいち相手にするわけないじゃない。本人に渡る前に、中身も見ずにゴミ箱直行よ。そうしたら永遠に返せなくなっちゃう」
「そうなったらそうなったで、あちらの責任でしょう」
「ハンス、そんな冷たいこと言わないで」
ハンスがフィオナの足を気遣ってくれているのは十分に分かる。
だが、それ以上に、このじいやは普段から過保護なのだ。
「爺が冷たいのではなく、フィオナ様が優しすぎるのです」
「ああ、それは違うの」
親身になるのは「結婚イヤ」同士の親近感ゆえだ。優しさではなく同情だろう。
昨日、聞こえた話では、結婚するよう家族からも圧力があると言っていた。それを断り続けているから、家庭内の空気が悪いとも。
このうえ「紋章つきの小物を失くしました」なんてことが発覚したら――もし自分がジャイルズの立場なら、紛失の事実を隠して血眼になって探すに違いない。
「大丈夫よ。タルボットおじ様の紹介状を出せば、たとえ伯爵家でも門前払いされることはないはずだから」
「ああ、それもですよ! タルボット卿の書状があれば、国王陛下に謁見だって叶うというのに。爺は、いつか人生の大事に使うとばかり」
「やだ、じいやったら。陛下に謁見なんて畏れ多すぎるし、そんな機会なんて無いほうがいいに決まってるじゃない。だから、せっかくあるんだし、ね」
このままだと宝の持ち腐れだと、そう言って朗らかに笑うフィオナにハンスは目を細める。
主家の令嬢とはいえ、生まれる前から成長を見守っているクレイバーンの姉妹は、気持ちの上では愛しい孫娘なのだ。
「カフリンクスを返し終わったら、ギャラリーに寄りましょう。書類もたまっているだろうし、叔父様から手紙が届いているかもしれないから」
「……フィオナ様。もしやそちらが本命で?」
「あ、バレた?」
小さく舌を出してみせるフィオナに、ハンスはため息まじりに額を押さえる。
「さすがに今日は、お仕事はいけません」
「ちょっとだけにするから、三時間だけ!」
「いけません」
「ええ、じゃあ二時間!」
「ダメです」
「一時間半! お願い!」
「……仕方ないですねえ」
懇願するように狭い車内で腕に縋られれば、しぶしぶとハンスは頷いた。結局、フィオナに甘いのである。
「ありがとう! じいや、大好き!」
「よろしいですか、フィオナ様。本っ当に一時間半だけですからね」
念を押されながらも弾けるようにフィオナが笑ったちょうどその時、馬車はバンクロフト伯爵家の門前に到着したのだった。
§
ハンスが言う通り、本来、貴族宅への訪問は事前に約束を取り付けるのが鉄則だ。
よほど懇意にしている仲であれば突然の訪問も許されようが、面識もない娘がいきなり伯爵家に現れて嫡子に会わせろなどと言ったら、つまみ出されるのが普通である。
予想通り、前宰相であるタルボット卿の紹介状は威力抜群だった。
決して動揺をみせないだろう雰囲気の伯爵家執事が微かに眉を上げ、渡した封筒越しにフィオナをしげしげと眺める。
「お人探し……でいらっしゃいますか?」
「ええ。お手を煩わせて申し訳ないのですが、ローウェル卿にお聞きするのが一番と思われる件なのです」
状況や令嬢達の呼びかけからも、あの男性がジャイルズであることはほぼ間違いがない。
だが、フィオナはこれまでにジャイルズに会ったことがなかった。
昨晩も自己紹介はしておらず、もしかしたら別人かもしれない、という可能性がほんの僅かだが残っている。
フィオナはジャイルズに会いたいのではなく「結婚したくないと言い張っていた、カフリンクスの持ち主」に、これを返したいのだ。
だから、執事には手紙を二通託した。
一通はフィオナの身元を保証するタルボット卿の紹介状。
もう一通は、フィオナの袖にくっついてきたカフリンクスの持ち主であるかどうかを確認するものだ。
「……かしこまりました。では、ミス・クレイバーン。どうぞ応接室に」
「いえ、まずはその手紙だけお渡しいただければ。お読みいただいて、お心当たりがないようでしたら、それ以上の手間は掛けません」
その場合は面会の手間も取らせず、このまま辞すると言えば、満足したように深く頷かれた。
玄関ホールのソファーへとフィオナたちを案内すると、執事は階段を二階へと上がっていく。
見るからに高級そうな張地に緊張しつつ腰掛けて、フィオナは背後に控えるハンスに小声で話しかけた。
「屋敷の中もすっごく豪華……信じられる? 門からエントランスまでの距離ったら! それにこのホールだけで、うちのタウンハウスの一階が丸ごと入りそうじゃない」
「名高いバンクロフト伯爵家ですからねえ。ご領地の本宅はもっと大きいそうですよ」
「きっと目がくらむわね。ああ、でも、聞いた通り、素晴らしい絵がたくさん! 叔父様も見たら喜びそう……」
広々とした玄関ホールには大人の背ほどの大きな暖炉があり、王宮のように高い天井からは、大きなシャンデリアが下がっている。
花瓶には華やかな生花が、壁には多くの絵画が飾られていた。
数点の彫刻も置かれており、フィオナが「待つのはここで」と言った理由の一つは、これらをじっくり眺めたかったからでもある。
正面にある、神話をモチーフにした油絵は、美術館に置くような見事な大作だ。
ほかの絵も名だたる画家のものが多く、代々の当主が芸術に理解のあることで有名な伯爵家らしいホールだった。
そんな絵画をしげしげと眺めていると、掃除道具を持ったメイドが二人やってきた。
予定外の来客に気付かなかったのだろう、ホールに足を踏み入れてからフィオナたちを見て、驚いて回れ右しようとした彼女たちを引きとめる。
そうしてしばらく話し相手になってもらっていると、執事が去った階段から別の足音が聞こえてきた。
「あ、し、失礼します!」
「お嬢様、ではこれで」
「付き合ってくれてありがとう。楽しかったわ」
逃げるようにメイドたちが去っていくのを、フィオナは苦笑して見送る。
少ない使用人と家族のように過ごすクレイバーン家と違い、バンクロフト伯爵家はなかなか緊張感のある主従関係のようだ。
「おいでなさいましたな。ほう……随分と男前ですが、あの御方で間違いないですか、フィオナ様?」
「あー、そうね。あんな顔だったわ。たぶん」
耳元でこそりと尋ねるハンスに小声で返す。
階段を下りてくる彼は、フィオナが確かに昨晩会った人物に違いなかった。
シルクのような艶のあるダークブロンド、長い手足に均整の取れた体つき。
美術品のように整った顔だという印象が強かったが、こうして明るい中で見ると、いっそうだ。
少し目元が陰っている気がするのは、もしかして夜通しカフリンクスを探していたのだろうか。
だとしたら気の毒すぎる、早く安心させてあげねば。
見上げるフィオナと階段の途中で目が合うと、冷徹にも見える表情に微かに驚きが浮かんだように感じられた。
(もしかして私を覚えていた?……なんて、短時間だったしそれはないか)
彼は昨日一晩で数えきれない令嬢と接触したはずだ。ろくに話もしていない、薄明かりの小庭園で会った一令嬢など、覚えているわけがない。
フィオナは、自分の容姿の凡庸さには自信がある。
むしろ、全く見覚えがなくて戸惑っていると考えたほうがしっくりきた。
階段を降りきった彼は、フィオナの正面に立った。背が高いから、昨日と同じように見上げる姿勢になる。
「ミス・クレイバーンですね。使用人の非礼をお詫びします」
「いいえ、私から話しかけたのです。彼女たちを咎めないでくださいませ」
通りかかった彼女達に頼んで、少しの間、世間話に付き合ってもらったのだ。
クレイバーン家では使用人と主人家族はよくお喋りにも興じる。ついそんな習慣のまま振舞ってしまったせいで減俸などされたらたまらない。
フィオナの返事に頷くと、ジャイルズは改めてフィオナを真っ直ぐに見据えた。
「フィオナ・クレイバーンでございます。突然の訪問をお詫びいたします」
「……ジャイルズ・バンクロフトです」
探るようにフィオナを見つめる瞳を見返してにこりと微笑むと、叩き込まれた所作で礼をしたのだった。
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