第85話 二年の月日(上)

※ジャイルズサイドの番外編です(時系列は80話「交差する想い」から)

・・・・・



 リチャードたちが出て行き、応接室にはジャイルズとクレイバーン男爵の二人が残った。

 端正な横顔を一瞬だけ翳らせたジャイルズが、すっと視線を上げる。


「クレイバーン男爵。ご息女に結婚を申し込みます」

「け? はっ、はい!?」


 これ以上フィオナの行き先は訊ねない、との了承を得てほっとしたのも束の間。ジャイルズの唐突な申し出に、男爵は取り繕うことも忘れてうろたえた。


「正式な書状などは、私が王都に戻り次第。ですが、先にこの場でフィオナ嬢との婚姻の許しを父君からいただきたい」

「あっ、いや、あの、ローウェル卿!」


 こうなる予感は男爵にもあったはずだ。

 自分を差し置いてノーマンとの結婚は難しいと判断したこともそうだが、離宮での事件からは特に、フィオナに寄せるジャイルズの心の内は手に取るようだったに違いないのだから。

 とはいえ、相手は筆頭伯爵家の嫡男。まさか本当に申し込んでくるはずはないと信じたかったのだろう。


「作法通りの手順を踏まないことをお詫びします。このような状況でなければ、申し入れは後日を予定していたので」

「予定……されていたのですか……」

「はい」


 意志と覚悟をはっきりと示したジャイルズに、男爵はたじろいだ。

 言葉は契約だ。察せられるのと、実際に口に出されるのとでは、まったく意味が違う。


「彼女には伝えてあります。返事はまだですが」


 続く言葉にとうとう声も失くした男爵は、すでに皺が寄りまくったハンカチをこれでもかというほどに握りしめる。


 本来、格上の家との縁組は得難い好機と歓迎するべきもの。そもそも一介の男爵が伯爵家嫡男に対して拒否などありえない。しかし――


(……やはり即答は難しいか)

 

 男爵の脳裏には、ヘイワード侯爵家での療養から戻るなり「今すぐレジナルドと国を出たい」と言った娘の、思い詰めた顔が浮かんでいた。

 求婚されたことすら家族に告げず、逆に離れることを選んだ。

 心に蓋をして決めただろうフィオナの意志を、父親として蔑ろにできないのがクレイバーン男爵らしい。

 返事に窮する男爵を安心させるように、ジャイルズは張った気を微かに緩める。


「本人が不在のまま進められることではないと承知しています。しかし、名目だけでも婚約を認めていただきたい。そうすれば、旅先でなにかあった場合に私と家が役に立てますから」

「き、卿のお立場を利用しろと仰るのですか!?」

「そうです」


 ジャイルズの申し出に、予想通り男爵は愕然とした。

 バンクロフト家は外交に携わっている関係で自国以外に知己が多く、情報も集まりやすい。

 国外にいるフィオナがトラブルに遭った際、いち早くそれを知り助けられるのは、クレイバーンの家族ではなくジャイルズだ。

 さらに、正式な婚約者であれば伯爵家の一員とみなされ、有事の際も迅速な保護が期待できる。

 それらを男爵も理解しているだろうが、自分たちが利するために使おうとは想像もしなかっただろう。


(本当に、よく似ている)


 他人を利用しようとする厚かましさがないところなど、まるでフィオナと同じだ。

 貴族的にはあまり褒められない資質だが、人としては心安い。

 領地の穏やかな治め具合を見るに、その人柄を慕って助力を申し出る者も多いのだろう。


(しかし、それだけでは足りないはずだ)


 内密に縁組を用意してまで手元に置いておきたかった愛娘である。旅慣れた身内レジナルドが一緒でも尽きないだろう親の不安を、ジャイルズは的確に突く。

 

「近隣の国外情勢は概ね落ち着いていますが、安全な地ばかりではないのはご承知でしょう。このような仮定はしたくないのですが、怪我や病気の心配もあります」

「それは……その通り……です」


 フィオナを慈しんでいる男爵が、安全策を増やす提案に惹かれないわけがない。揺れる親心を見越したように話を続ける。


「それだけでなく、私の婚約者として見識を広めるために渡航している、という口実にもなります。どちらもご息女を守る一助になる」


 フィオナの仕事を軽視する気持ちなど、ジャイルズには欠片もない。

 とはいえ社交界には、女性の積極的な活動に眉をひそめる保守的な面々が少なくない。そういう者たちは今回の出立も、わがまま娘の物見遊山と否定的にしか受け取らないだろう。

 しかし伯爵家に入るための学びの一環とすれば、彼らの抱く印象は大きく変わる。


「……ですが、娘は」

「安否確認のために消息を辿ることは、どうか目を瞑っていただきたい。もちろんご家族を煩わせはしませんし、私から彼女に接触しないことも約束します」


 懸念をことごとく拾われた男爵はそれでも言葉を濁したが、ジャイルズの返答はさらに上だった。

 

(フィオナが家族に頼んだのは、“私に居所を告げない”ことだ)


 ジャイルズが勝手にフィオナの行方を探るのを阻止することまでは、依頼の中に入っていない。

 男爵から聞き出さなければ、約束を破らせることにはならない――詭弁だが、必要な建前だ。


 その気になれば、命令して従わせることなど簡単にできる。家格差を気にするフィオナがそれを知らないはずがない。

 居場所を教えないことはジャイルズを拒否したという意思表示でしかなく、強制力を持たない。だが、そう聞けば諦めるだろうとフィオナは踏んだのだ。


 フィオナの思惑通り、強引に開示を迫る気にはとてもなれない。

 しかし、知らぬ間に心の深くに根付いた想いは、その程度の拒絶で手放すには鮮やかに育ちすぎている。


「……しかし、バンクロフト伯爵のお考えは違いますでしょう」

「両親はご息女を歓迎していますよ。父の懸念は彼女にではなく、私にあります」

「なんと?」


 切り札だったに違いない父伯爵の意向は、残念ながら男爵の希望通りではない。

 予想外の返事に惑う男爵とようやくまた正面で目が合って、ジャイルズは改めて姿勢を正す。


「父は、私のほうが彼女に足りないと……自分でもそう思います」

「まさか、そんな」


 当主の許可がなければ婚姻は難しい。

 ジャイルズの伴侶は次代の伯爵夫人となる。下位貴族の娘では当主のお眼鏡に適わないだろう、というクレイバーン男爵の感覚は常識的なものだが、フィオナについては枠外だ。


「その点に関しては、私が彼女の伴侶に相応しいか、この二年間で確かめていただきたい」

「……は、」


 ジャイルズの言葉の意味がすぐには理解できないようで男爵は唖然とするが、既に父には宣言済みだ。

 かつて、父には力不足を指摘され、男爵には釣り合わない関係から生じる不幸を危惧された。それを忘れたことはない。


 フィオナには伯爵家でやっていく資質が十分にある。経験を積めば周囲の補佐もすぐに必要なくなるだろう。画廊の仕事だって当然続けてほしい。

 変わる必要があるのは自分の側だ。


「私との婚姻は彼女に負担を強いるでしょう。ですから、その現状を変えます」


 現在のバンクロフト伯爵家には、政略婚の必要はない。そうはいえ、相手にはそれ相応の家柄や結婚による見返りを期待される。

 翻って、クレイバーン男爵家は後ろ盾も資産もない、細々と続く歴史だけが取り柄の田舎貴族とみなされている。

 フィオナ個人は王族に貸しがあるが、表立って喧伝できる内容ではない。

 一見、ただの下位貴族の令嬢でしかないフィオナから名家の次期夫人の座を奪おうと、キャロラインのように強引なことを仕掛ける貴族が出てくることが容易に想像できた。


 それだけでなく、バンクロフト伯爵家を追い落とそうとする勢力も、突きやすいフィオナを狙うだろう。

 牽制だけでなく彼らを退けるには、ジャイルズ自身に分かりやすい力が必要だ。

 

「まずは父の名代としてではない実績を積むことから始めています。差し当たって今、着手しているのは――」


 ジャイルズが語ったのは、決して簡単とは言い難い案件ばかりだ。

 成果にできれば確かに地位を盤石にするはずだし、広がった人との関わりはフィオナを守るだろう。

 しかし、二年という期限で可能かと言えば、中央の政界に疎い男爵でも無理を感じてしまう内容だ。


「その、卿のお気持ちは買いますが、いささか性急かと。それこそ三年や五年かかっておかしくない事柄も含まれているように思えますが……?」

「父からも同じことを言われました。確かにすべては難しいでしょう、ですが手を抜くわけにはいきません」

「では、なぜ二年とお決めに?」


 言いにくそうに、だが無謀な目算だと正直に告げる男爵の言葉をジャイルズは否定しない。過日、両親との対話の席でも言われたが、どうしても二年という期限は譲れなかった。

 その理由はただ一つ。


「二十歳の彼女の隣にいたいのです。もしもの時は、今度こそ守りたい」

「……!」


 五歳の時から五年ごとのタイミングで、フィオナは大きな怪我をしている。

 偶然だと本人は笑い話にしているし、今年も大事だった。しかしの心配は消えていない。


「二年後までに父君からの許しを得られず、彼女も私との結婚を拒むなら、それを受け入れます」

「……なんと……」


 決定打の一言を告げて頭を下げたジャイルズを前に、男爵は押し黙る。

 しんと静まった部屋の中。開いた窓から入る風に乗って運ばれた鳥の声が、男爵の耳には季節外れのベニヒワの囀りのように聞こえ――亡くなった妻の面影が過ぎていった。

 ぎゅっと目頭をハンカチで押さえ、そのまま深く息をする。


「……はは、もうすでに娘を嫁した気分を味わうとは」


 息と一緒に肺腑から口をついて出た独り言は、ジャイルズの耳までは届かない。

 葉擦れの音を残して鳥が飛び立つと、男爵はハンカチを持つ手を下げた。


「……娘たちの幸せが、妻の一番の願いでした。私も同じです」

「よく、存じています」

「ローウェル卿。フィオナはご存じの通り、はねっかえりな娘です。思い直すなら今のうちですよ」

「……!」


 弾かれたように顔を上げたジャイルズに、男爵は笑みかけて椅子を勧める。


「もう少し、お話を詰めましょうか」


 フィオナと同じ琥珀の瞳からは惑いが消え、代わりに身内に向けるような親しげな色が浮かんでいた。


(男爵……)


「……義父上とお呼びしても?」

「まっ、ままま、まだです!」


 狼狽えながらも即答され、互いの顔には少しだけ気安くなった表情が浮かぶ。

 応接室での話し合いは、日暮れ前まで続いたのだった。




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