第59話 形勢逆転
しばしの沈黙が室内に落ちる。
先に言葉を発したのは、レジナルドに気圧されているはずのジャイルズだった。
「仰るとおり、現時点で準備不足だということは否めません」
「だよね……うん?」
まだ顎に触れていたレジナルドの指を最低限の動きで優雅に除けると、ジャイルズはその整った顔に見惚れるような笑みを浮かべる。
「興味深いご指摘でした。叔父上殿には感謝申し上げねば」
「んん? ちょっと、あれ?」
ジャイルズのどこか吹っ切れたような表情とは対照的に、今度はレジナルドのほうが目を丸くしている。
どうやら、攻守は既に入れ替わっていた。
「ねえ、僕の予想と反応が違うんだけど」
「そうでしたか」
「『そうでしたか』って、あれ? 君さあ」
「はい、なんでしょう」
もはやレジナルドとの話は済んだとばかりに、返事をしながらもジャイルズの意識は別なほうに向かっている。
さて、と軽くジャケットの身頃に手を掛けて服を整えるジャイルズに、レジナルドが再度問いかける。
「もしかして、自覚なかっ――」
その言葉にかぶせるように事務室の扉が叩かれる。
はっとして双方とも振り返ると、入ってきたのはフィオナだった。
「「フィオナ」」
「お邪魔します。叔父様、ちょっと後ろをごめんなさい」
重なった二人の声に少し驚いたような軽い笑みで応えて、フィオナはいそいそとレジナルドの背後を通りキャビネットに向かった。
確認したい書類を取りに来たのだという。
「ベネット夫人をお待たせしているので、すぐに戻ります。オークションの話になって、日程と出品内容を知りたいと……ああ、ありました」
フィオナがそう言って掲げて見せた書類挟みを、ジャイルズがさらりと奪う。
「ジャイルズ様?」
「私も一緒に行こう。仕立てを急がせた礼を、まだ言っていなかった」
「それを、今?」
瞬きを繰り返し疑問を口にするフィオナだが、ジャイルズが書類を持ったまま歩き出してしまい、慌てて後を追う。
「あの、叔父様とお話し中のような気がしたのですが」
「ちょうど終わったところだ」
追いついた細い手をしっかりと握ってしまえば、ベネット夫人が待つ応接室までの同行が確定した。
戸惑うフィオナを安心させるように問題ないと言うと、レジナルドが不満気な声を上げる。
「えー。じゃあ、僕もそっちに行こうかなあ」
「貴重な絵を置いた部屋を無人にはできませんよ、叔父上殿。旅の疲れもあるでしょうし、ゆっくりとこちらでお待ちを。では失礼」
「? ええと、あの、とりあえず行ってきます。叔父様、また後で!」
レジナルドの申し出をすげなく却下するジャイルズの口調は丁寧ではあるが、頑とした意志が滲む。
ことの成り行きに困惑しきりのフィオナも、向こうに人を待たせている上にジャイルズに手を引かれれば行くしかない。
軽い足音が遠ざかる前に、扉がパタリと閉まった。
静まりかえった部屋に一人残されたレジナルドは、所在なく浮かせた腕をゆっくりと下げる。
そのままふらりとソファーへ近寄り、ドサリと座り込んだ。
「……あー、なるほどね……は、はははっ」
背もたれに身を預け天を仰ぐ。長息は次第に笑い声に変わった。
――ジャイルズがフィオナに惚れ込んでいることは、昨日会った瞬間からレジナルドの目には明らかだった。
筆頭伯爵家と地方の男爵家という家格差は歴然としている。
フィオナのほうに遠慮があるのは当然とも思えたが、二人の間には別の問題があるという勘が働いた。
隠されたものは暴きたい。それは、レジナルドの性分だ。
とはいえ、フィオナに言う気がないのなら、その意思は尊重する。だが相手の男に遠慮は不要だ。
レジナルドは貴族が好きではないが、彼らの思考はある程度理解している。
同様に、ジャイルズのような人間がまず滅多に自分の内を他人に晒さないことも知っていた。
野放図な半端貴族かつ、ほぼ初対面の自分から無遠慮に糾弾されれば、仮面が剥がれて本音のひとつも聞けると踏んだのに。
「いや、まさかねえ。ボロを出すか怒るかのはずだったんだけどなあ」
ジャイルズから出てきた反応は、想定外もいいところではないか。
自分の恋心がそれほどのものだと気がついていなかったなんて、そんな話があるものか。
「失敗したかも……放っておけばよかったかなあ」
気づかないままなら、王都にいる間限りの関係で終わったかもしれない。
ちょっとした好奇心で藪を突いて、大蛇を引っ張り出した気がする。
子煩悩な義兄は、二人の交際についてすっかり気を揉んでいる。
まあ、義兄は相手が誰でも反対するのは違いないのだが、伯爵家に嫁がせるよりはレジナルドと外国にいたほうがいいかもしれない、などとこっそり零したくらいだ。
上の娘が家を出ることを渋々許しはしても、決して積極的に賛成しなかった今までを思えば、よほど参っているのだろう。
ノーマンと結婚という話だって、遠縁の彼がクレイバーンに婿入りするからこそ成立した話だ。
そもそもレジナルドには、ノーマンとフィオナという組み合わせはどう見ても姉弟にしか見えなくて、その時点で首を傾げていたのだけれど。
正直なところ、フィオナを家庭に、それも貴族の家に入れてしまうのはつまらない。
世間体などレジナルドには関係ないが、補佐として連れ歩くのが難しいなら名目上だけでも妻にすればいいと思うほどには、姪のことは好ましく思っていた。
その気持ちを別にすれば、彼女は能力的には伯爵家でも十分にやっていける。
貴族の社交は経験不足だから周囲の目は厳しいだろうし、実家からの物的支援は期待できないが、それもこれも夫がサポートすればいいだけの話だ。
一方で、余計な苦労を背負わせずに領地で身の丈に合った暮らしを、と望む義兄の気持ちも分かる。
親の性とはそういうものらしいから否定はしない。レジナルドには共感し難いが。
――ジャイルズのことを話すとき、フィオナの琥珀の瞳はいつになく柔らかな色を帯びる。
久しぶりに会って見違えたのは姿形よりも、その表情だった。
かつて、義兄と出会った姉の瞳に宿ったのと同じ色には見覚えがある。
だがその瞳の輝きが、月の光のように温度が抜けたものに変わる瞬間があることをレジナルドは見過ごさなかった。
姪が口に出さない憂いの理由がなんであるかは、置いておいて。
「万が一のときは、義兄さんに謝らなくちゃな」
なにがどう転ぶか、非常に興味深い。
テーブルに出したままの絵を眺めるレジナルドの口元は、楽しげに上を向いていた。
§
応接室に向かう廊下を進みつつ、隣を歩くフィオナがジャイルズを見上げる。
思い出して書類を返すと、フィオナは律儀に礼を言って受け取った。
「……なにかありました?」
「どうして?」
「さっきより顔色がいい気がします。あと、雰囲気が……」
言われて自分の顔を触る。そうしたところで分かるわけはないが、自分では気付かない変化が表に出ているかもしれないことは否定できない。
「違うか」
「なんとなくですけれど。最初に事務室でお会いしたときは、少し、あの。急に叔父が誘いましたから、お忙しくさせてしまったのだろうなと思って」
濁した言葉を察するに、フィオナにはジャイルズが疲れているというか、構えているように見えたらしい。
普段通りのつもりだったが、どこかで気が張っていたのかもしれない。
「気にすることはない。今日ここで叔父上殿と話せてよかったと思っている」
「それならいいのですが……でも、本当にすみま」
「フィオナ」
応接室の前まで来て、詫び言を連ねようとする唇に指を当てて強制的に黙らせる。
聞きたいのはそういう言葉ではない。
ふに、と柔らかく沈んだ指先に、目をパチリと開いたままフィオナが固まった。
「謝罪は必要ない。多少調整はしたが無理はしていない」
昼下がりでもさほど明るくはない廊下で、確かめるように瞳を覗き合う。
容姿を褒められることが多いジャイルズだが、冷たさのほうが勝つ自分の目の色があまり好きではなかった。
かえって、フィオナ曰く「よくある」琥珀色のほうが、よほど温かみがある。
束の間泳いだフィオナの視線がジャイルズから少しずれたところで定まって、白い頬にさっと朱が走る。
それに満足して唇から指を離すと、詰めていた息と共に抗議が向けられた。
「っ、ジャ、ジャイルズ様……!」
「ジル」
「え?」
「そろそろ慣れただろう? ジルでいい」
「なっ、そ、そんな」
いつまで他人行儀な呼び方をするのかと、こちらはこちらで抗議を返すと動揺して口ごもってしまった。
抵抗感はあるようだがそこに嫌悪の感情は見えなくて、内心でほっとする。
――フィオナが自分に向ける好意はどちらかというと敬意に近く、あくまで「芝居相手」に対するものだろう。
(……契約は、契約だ)
違えたら最後、今は唯一確信できるフィオナからの信頼も失うだろうことは想像に難くない。
こういう想いを持ったこと自体を責められるとしても、それを今失くすわけにはいかなかった。
レジナルドが言う通り「理由がなければ会えない」二人なのだ。
繋いだままの手に嵌まる指輪とポケットの中の懐中時計を思い浮かべて、自身の行動を定めていく。
「叔父上殿もいらしたことだし、改めて徹底しないと。……ほら、フィオナ」
耳元に小声で秘密を囁くと、至近距離で重なるフィオナの瞳が熱を帯びて潤んでいく。
もう一度促すと、何度か口を開け閉めした後に、おぼつかなげな声が微かに聞こえた。
「…………ジル、さま」
それだけで、ずっと前から胸に開きっぱなしの空洞が満たされる。
我ながら単純だとは思うが、こんな自分もきっと悪くない。
「もう一度」
「ジ、ジル様」
「うん。様もいらない」
「無理です!」
「じゃあ、もう一回」
(……まずいな)
真っ赤になった顔が可愛くて、羞恥からの涙目もいじらしくて、何度も呼ばせたくなってしまう。
「ほら、フィオナ?」
「も、もうっ」
「……なにやってんの?」
急に掛けられた声に二人してばっと振り向けば、ティーセットを乗せた小ぶりなキャスターワゴンを押すルドルフがいた。
廊下の向こうには声なく慌てるデニスの姿がある。
「仲いいのは分かってるからさ、イチャつくなら誰もいない部屋ん中でやりなよ」
「い、イチャ……!」
「邪魔して悪いけど、そこ開けてくれる? オレ手がいっぱいで」
「え、ええ。もちろん!」
助かったとばかりにくるりとジャイルズに背を向けて、フィオナは応接室の扉を開き、手で押さえてルドルフを通す。
「……残念」
「ジ、ジル様。からかうのはよしてください」
「からかってなんかいない」
扉を開ける役を代わりながらの小声でやりとりの後、フィオナは結局、赤い頬のまま何気ないふうを装って部屋へ入ったのだった。
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