第60話 舞踏会への招待状

 王妃殿下が主催する舞踏会の当日。クレイバーン男爵家のフィオナの部屋は、大変賑わっていた。


「んっ、く……、も、もうやめて、お願い……!」

「だぁめ。息吐いてー、はい、せーのっ」


 訴えを無情に却下されたフィオナは、かけ声につられて、ふうーっと大きく肺の空気を抜いてしまう。

 キリキリと容赦なくコルセットの紐を締めるのは、ベネット夫人の元で刺繍職人となったマリアンだ。


「夫人、いかがですか? まだ締められますけれど」

「マ、マリアン、無理っ」

「ええ、そのくらいでよろしいでしょう」


 今日のドレスを仕立ててくれたベネット夫人が責め苦を終わらせてくれて、ほっと安堵の息を吐く。


 舞踏会に出席するフィオナの支度を誰が手伝うか、一悶着があった。

 先日の拝謁の時は、ヘイワード侯爵夫人、そしてジャイルズの姉ミランダの二人が世話を焼いてくれた。

 だが今日の舞踏会には、この二人の夫人も出席する。自らの準備も必要とあらば、前回と同じようにフィオナにつきっきりになるわけにいかない。


 フィオナも男爵家も、王妃主催のパーティーなどこれまで無縁であったから、助けてくれるという二人には感謝しかない。

 けれど「どちら」と言われると困ってしまう。

 侍女を派遣する、いや、やはり侯爵家に来て、などと主導権を争う二人の間に華々しく登場したのがベネット夫人だった。


『私の作ったドレスです。誰よりも美しく着せてみせましょう』


 そう自信たっぷりに宣言したのが決定打となった。

 そして本日、ベネット夫人は自店の針子を一人とマリアンを連れてきてくれて、今は着付けの真っ最中。

 しかし、ドレス本体を身につける前の段階で既にフィオナはぐったりである。


(拝謁のときもそうだったけど、厳しい……!)


 ヘイワード侯爵家にいたとき以来コルセットにも多少は慣れたが、やはり盛装となると容赦がない。

 田舎領地で身も心も自由に育ったフィオナは母も早くに亡くしており、令嬢の装いに関してうるさく言う者も周りにいなかった。


「お姉さま。きっと素敵になるわ」

「そうよ、頑張ってフィオナ!」


 涙目で助けを求めても、手伝いという名目でここにいる妹と友人はずっとにこにこして見守っているだけだ。


「セシリア、オルガ……あなたたち、楽しんでるでしょう」

「だって楽しいもの。ね、セシリア」

「はい。とっても!」


 こっちは息も絶え絶えなのに、と愚痴を言いそうになるのをぐっと堪える。

 二人のその笑顔のおかげで、舞踏会に萎縮しそうなフィオナの気持ちも上向きでいられるから、結局は助けられているのだ。


「身を飾るのは自己顕示欲を満たしたり、家の権勢を誇るためだけではありませんからね。もちろん、メゾンの宣伝になるのはやぶさかではないですけれど」

「ええ……分かります、ベネット夫人」


 ドレスのコサージュの位置を針子に指示しながらの、ベネット夫人の呟きにフィオナも頷く。

 美しい装いというのは、ファッションの域を超えて案外深い意味がある。

 出席者の華やかな姿は会場の彩りとなり、それは会の成功に結びつく。つまりこの国の貴族として王妃、引いては王家への忠誠を示す意味もあるのだ。


 ベネット夫人が完璧なドレス姿で送り出そうとしてくれるのは、高位貴族ばかりの舞踏会に初めて参加するフィオナのためでもある。

 そうは分かっていても、苦手なものは苦手だ。

 マリアン曰く「普通のご婦人はもっときつく締める」らしいし、倒れるほど圧迫されているわけではない。どうしても慣れないのはもう、性分だろう。


「じゃあ一旦休憩にしましょうか、なにか食べておいたほうがいいわ」

「マリアン、ありがとう……!」


 フィオナにガウンを羽織らせながら、最後にほんの少しだけコルセットを緩めてくれたマリアンが女神に見えてしまう。

 その言葉を待っていたように、オルガはバスケットを引き寄せた。


「私、ビスケットと小さいサンドイッチ持ってきたの」

「わあ! おいしそうね、オルガ」

「お姉様、わたしはお茶を淹れてくるわ。熱いので平気?」

「ええ、大丈夫。セシリア、フローラの様子も見てきてね」


 夫のカイルがまた仕事で家を空けているので、マリアンは娘のフローラも一緒に連れてきていた。

 今は一階の居間でハンス指導のもと、父男爵とレジナルドが子守りを引き受けている。


「フローラは大丈夫よ、さっきも笑ってたみたいだし」


 ぱたぱたと部屋を出て行くセシリアを見送って、マリアンが母の顔で言う。

 実際、きゃっきゃとはしゃぐ赤ちゃんの高い声や、父が歌う子ども向けの数え歌などが支度の最中にも聞こえていた。

 心配していたフローラの人見知りは最初だけで、父男爵の顔も覚えていてくれた。おかげで酷く泣かれることもなく、子守は順調のようだ。


「でも、もう一時間以上経ってるから。そろそろママの顔を見たいんじゃない?」

「あの子、案外おじいちゃんが好きなのよね。ついでに昼寝もしてくれないかしら」


 クレイバーン家での再会以来、マリアンは実父のタルボット卿と頻繁に会っているそうだ。不器用ながら必死にあやしてくれる祖父に、フローラは今ではもうすっかり懐いているらしい。

 仏頂面を綻ばせるタルボット卿を思い浮かべて、フィオナとマリアンは顔を見合わせて微笑む。


「本当に、フィオナのおかげだわ」

「なにもしていないわよ?」


 場所を貸しただけだと首を傾げるフィオナに、マリアンとベネット夫人がやれやれと肩をすくめる。


「あなたはもう少し、我欲を持っていいと思いますけどねえ」

「私、清廉潔白とはほど遠いのですが」

「滅私しているとは言っていませんよ。そうではなくて、考え方です。私生活だけでなく、仕事も含めて」


 指導教官のようにフィオナを諭すベネット夫人の言葉をおとなしく拝聴するが、フィオナは今ひとつ実感に欠ける。


「そうね、世間知らずではないから騙されはしないだろうけど。でもフィオナって変なところで思い切りがいいでしょう。妙なことに巻き込まれないようにね。はい、どうぞ」

「オ、オルガ。ええと、はい。気をつけます……ありがとう、おいしそう」


 ここ最近のことを思い、フィオナはぎくりとしながら渡されたサンドイッチを受け取った。


(妙なこと、かあ……)


 贋作事件にフィオナが関与したことは、ジャイルズたちの働きかけや王宮側の意向もあって公にはなっていない。

 調書で「居合わせた画廊の関係者」として記載されている人物がフィオナだということを知るのは一部の貴族と担当官のみで、褒賞授与が個別に行われた理由のひとつでもある。

 当然オルガが知るはずもないのだが、その件だけではなく、ジャイルズとの恋人のフリのことも、妙なことには違いない。


 覚悟はしていたものの、親友にも言えない秘密が後ろめたい。

 だが打ち明けても心配をかけるだけだし、贋作はともかく、偽装の恋人だということが万が一バレた際に、オルガまで醜聞に巻き込むのは絶対に避けたかった。


(……それも、もう少しで終わりだから)


 王妃殿下の舞踏会は、社交シーズンの終わりに行われる一番大きな催しだ。

 この会が終わると、貴族たちは次々と領地へ戻り始める。

 議会はまだいくつか残っているので、たとえばジャイルズのバンクロフト家やヘイワード侯爵家のように王都に留まる者もいる。

 フィオナたちのような地方貴族はもうだいたい用済みなので、クレイバーン家でも数日後には領地に帰る予定にしていた。


(舞踏会が終わったら指輪を返して、時計を戻してもらって……。それで「恋人のフリ」も、おしまい)


 当初の予定通りだ。

 フィオナはノーマンとの婚約発表が期限未定で延期になったし、ジャイルズも女性に言い寄られることが極端に少なくなった。

 世間の噂や評判も、相手がフィオナということについては文句があるものの、ジャイルズに恋人ができたということ自体は肯定的に捉えられたようだ。

 むしろ予定よりもずっとうまくいったといえる。


(もっと喜んでいいはずなのにな)


 残す大舞台は今夜の舞踏会だけ。なのに、どうしてか肩の荷が下りたと晴れやかな気持ちになれないでいる。

 せっかくのおいしいサンドイッチもモソモソと摘まむ程度だが、食が細いのはコルセットのせいだと思われて誰も心配しないのは気が楽だった。

 戻ってきたセシリアから熱いお茶を受け取り、ほっと一息つく。


「そういえば、舞踏会って王宮ではなく『白の離宮』で行われるのでしょう?」

「そうそう。白い大理石がふんだんに使われていて、大広間のシャンデリアは水晶でできているんですって。建物自体が宝石のような美しい宮殿だって、父が言っていたわ」


 聞くだけで美しい宮殿にうっとりと想像を巡らすセシリアに、マリアンが説明をしてくれる。

 小さな湖の畔に建つ離宮は、王都から少し離れたところにある。

 先の戦火を免れた、歴史ある御殿は普段は立ち入りが制限されている。当然フィオナも今夜が初めてだ。


「マリアンは行ったことがあるの?」

「ううん。綺麗だっていうし、一回くらいは見てみたかったけど」


 父が元宰相のマリアンはタルボット家の令嬢であり、本来ならばフィオナの支度を手伝うのではなく、舞踏会に招待される側だ。

 しかし、成人の披露目をする前にカイルと駆け落ちをした彼女が貴族の社交場に現れることはない。


「あっ、勘違いしないでね。見たいっていうのは、刺繍の図案のアイデアになるかなって思っただけで、自分が舞踏会に出たいということではないのよ」


 凜とした表情で、苦労はしたし迷惑は掛けたけれど悔いはないとマリアンは言い切る。


「あそこにはカイルもフローラもいないわ。私の場所は向こうじゃないの」

「……そうね」


(マリアン、綺麗ね)


 令嬢だったときには袖も通さなかったような簡素な服で、髪も肌も日に焼けている。

 しかし瞳の輝きは力強く、声には張りがある。生き生きとした表情は、過去は過去としてに満足している者のそれだ。

 マリアン越しに、フィオナは鏡に映る自分が目に入った。


(……私は、どうだろう)


 図らずも一級品のドレスをまとい、美しく着飾ってもらって、行けるはずのない舞踏会へ向かう。

 外見はそれなりに整うだろう。だが、中身はどうだろうか。

 視線を落とすと、左手の指輪が目に入る。


(全部終わったら、忘れられるかな)


 そう考えるそばからジャイルズの顔が浮かぶ。

 ――最近の彼は少し、前と変わったようだ。

 特にこれといったことがあったわけではない。だが、なんというか……そう、距離が近い。


(いや、前から近かったけど! それとはちょっと違うっていうか!)


 ジルと呼ばせるようになって、一層「恋人らしさ」を強調するようになった相手役に、またもフィオナは押され気味である。

 どうにか挽回したいのだが、なかなか難しい。


(こ、今夜で最後だもの。問題は、私がちゃんとできるかどうか)


 しっかりと「相思相愛の恋人同士」を印象付けられれば、来シーズンまで噂が保つだろう。ジャイルズのその見立てはきっと間違っていない。

 懸念事項はただ一点、フィオナが固まらずに演技できるかということだけだ。


 そっと息を落としたのを、まわりは別な意味にとったようだ。

 ベネット夫人がにこやかにフィオナに発破を掛ける。


「さあ、そろそろドレスを着ましょうか。心配しないで私にまかせなさい」

「そうよー、着付けが終わったらお化粧もするんだからね!」

「あ、マリアン。髪は私とセシリアが結うから、フローラのところに行ってあげてね」

「ありがとう、オルガ。そうさせてもらうわ」

「……そういえば、私まだ下着だわ……」


 現実を思い出したフィオナは苦笑して、今度こそ長い息を吐くのだった。







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