第58話 対話の末に
正体不明の人気画家、レイモンド・ベイリー。
それが自分だ、というレジナルドの宣言に虚をつかれたジャイルズは、僅かにタイミングが遅れたものの、しっかりと握手を返した。
「……そうでしたか。貴方が」
「驚いた?」
「ええ、まあ」
「えー、そのわりには落ち着いてるなあ。僕としては、もっと分かりやすく動揺してくれるのを期待したんだけど」
レジナルドはぷくりと頬を膨らませた。ぶんぶんと上下に強く手を振られながら、ジャイルズはこれまでのことを思い返す。
(……そうだ。フィオナは一度だって「叔父が画商」だとは言わなかったし、肯定もしなかった)
外国から絵を送ってくると聞いて美術商に違いないと安直に結びつけたのは、他でもない自分、そして一緒にいたリチャードだ。
その送ってくる絵がまさか、叔父本人の描いた絵であるという可能性には思い至らずに。
(それに、ゴードンと対峙したときの彼女の言葉はどうだ)
『ベニヒワは、既にあるのです』
フィオナはそう断言した。
十年以上も前に描かれたその絵は
一度も売りに出されたことがなく、目録にも載っていない絵の存在を知るのは、本人か所持者である家族。
もしくはそれに近しい、限られた人間のみのはずだ。
さらに先日は、叔父が湿地でスケッチをすると認めもした。
ギャラリーのオーナーであるロッシュと既知の間柄であることも分かっていたし、彼がレジナルドともレイモンドとも親しいことも話の端々から容易に判明していた。
レイモンドの正体は、市井では秘密に包まれている。
最初に約束したとおり、フィオナはジャイルズに一切嘘はついていない。
第三者であるジャイルズに言えなかったから黙っていただけで、ヒントはいくつも目の前に出されていたのだ。
(……参ったな)
ようやく握手を離された手で、前髪を掻き上げる。
騙されたという憤りは全くなかった。むしろ、秘匿を守れる人間として信頼が増すばかりだ。
「いえ、かなり驚いていますよ」
「えー本当にぃ?」
「……言われてみれば思い当たることが多々ありまして、自分の目の節穴ぶりが遺憾ではありますが」
彼女の絵画に対する知識と熱意、深い造詣――背後に叔父の存在があったことは疑いようがなかったが、それが画家だとすればより納得できる。
バラバラだったパズルのピースが嵌まるように、改めて形作られていく。目の前のレジナルドも、今ここにはいないフィオナも。
「それよりも、『レイモンドの正体』を明かしていいのですか」
「あはは! 君がそれを心配するの?」
フィオナやロッシュが必死に隠しているだろうに、本人がこれでは不用意ではないか。
そう言外に抗議を滲ませれば、レジナルドは一瞬目を丸くして、弾かれたように笑い声を上げた。
危機管理がなっていない。彼らの尽力を軽んじているように思えて、ジャイルズは内心ムッとする。
「正直なところ、君に教えるかどうかは迷ったんだよね。フィオナは君を信用しているけど、僕はまだそこまで君のこと知らないし」
笑いすぎて涙が滲んだ目尻を指で払いながら、レジナルドは事務机に寄りかかかった。
「でもさ。僕の絵を見たときの君の顔が、なんとなく良くってね」
そう言って、さばけた顔でにこりと笑う表情が不意にフィオナと重なる。叔父と姪である二人は瞳や髪の色も造作も違うが、ふとしたときの雰囲気が似ていた。
だが、レジナルドの言うことはやはりよく分からない。
「どういうことでしょう?」
「この絵を、本当にいいと思ってくれたよね」
たしかにいい絵だと思ったからそう述べた。
レジナルドの言う意味が掴めなくて、ジャイルズはそれ以上の返事ができない。
「やだなあ、そんなキョトンとしないでよ。あのね、口先だけか本心からかなんていうのは、伝わるものだよ」
「ですが、理由としてはあまりにも」
「僕の名前ではなく絵を見てくれたから、少し点が甘くなっちゃったかな。まあ、それに、もし伝えたとしても君は不用意に口外するような人間じゃない、と断言したフィオナの信頼を裏切りはしないよねえ」
「それは、当然です」
フィオナが自分のことを信用に値する人物だと評していたと知って、こんな時だがジャイルズの胸が満たされる。
だが一方で、言い知れぬ不満のようなものも感じた。
(……なんだ?)
どうしてそう思ったのか分からない。
表では何もなかったようにレジナルドに対応しつつ、探った自分の内に微かに感じたのは――有り体に言えば、「物足りなさ」だった。
その事実に驚く。
ただの契約相手として関係を始めた自分に、信頼を寄せてくれたことだけでも十分だ。それ以上を求めるのは違うと分かっている。それなのに。
混乱する心を静めていると、レジナルドは後ろ手についた指で寄りかかった事務机の天板をカツカツと鳴らす。
「正体を隠している理由はいくつかあるんだ」
軽く言うレジナルドに、こちらも軽く頷いて続きを促す。
「まあ、一番は面倒だっていうのが大きいんだけど。僕は絵を描きたいだけで、儲けたいわけでも名声が欲しいわけでもないからね。こう言っちゃなんだけど、食べていけるくらいの金銭的余裕はある。正直、人付き合いも画廊とのやりとりもしないで済むにこしたことはないんだ」
画家に限らず芸術家というものは浮世離れしている人間が多いが、レジナルドも例に漏れずな御仁らしい。
好きなことだけをやっていたいという、本能のような衝動を貫き通す意志の強さが、へらりと笑う彼の中にはたしかにあるのを感じた。
「そりゃあ、金はないよりあったほうが絶対いいけど。でも、そのためにわけわかんない奴らの相手をするのは勘弁。それなら露店で叩き売ったほうがまだマシっていうか」
旅先で描いた絵を「荷物になるから」と二束三文で売り払ったり、見ていた子どもにぽいとあげたこともあったと聞いて頭が痛んだ。
「それはあまりにも雑では」
「あっはは、分かってる。ロッシュとフィオナに散々言われて、それならって丸投げしてるのが今だし」
そうして手放した絵は、二人の地道な捜索と交渉によってすべて回収されたという。面倒を厭うが故に面倒を生むレジナルドの手綱を握るのは、根気がいったことだろう。
そこまで話したレジナルドは、逆になにか訊かれたそうな顔をした。試されている雰囲気を察して、ジャイルズが口を開く。
(……「画家レイモンド」は容姿からプロフィールに至るまで、徹底して秘密主義だ。それが人付き合いを避けるためだけとは思えない)
「レジナルド・レイモンド・ベイリー……というのは、筆名でしょうか?」
「レジナルド」に関しては、フィオナやクレイバーン男爵も呼んでいたことから、本名だろうとの予測は立つ。
ジャイルズはフィオナと関係を持った当初、クレイバーン家について軽く調べている。
一瞥した程度で、フィオナや男爵の人柄を知るにつけそれ以上の調べは必要ないと判断したのだが、クレイバーンの縁者にベイリーという姓はなかった。
思い出す限り、王都の貴族でも聞かない家名だ。
レジナルドは明るい琥珀色の目をにんまりと細め、腕を組む。
「いい質問だよ。ベイリーは断絶した祖母の家名を借りた。僕は実家とは縁が切れているからね、あの家の者と名乗るわけにいかなくて」
レイモンドが正体不明でなくてはならないもう一つの理由は、レジナルドの実家との関係だという。
フィオナの母の生家でもある某家の、レジナルドは唯一の嫡子だった。
「嫡男は放蕩が過ぎて勘当されて、何年も行方知れずで今では推定死亡っていうことになっている」
「……そうでしたか」
「家は従兄弟が継いでくれている。嫡男が生きていて、しかも画家なんてものになってるなんてバレたら、両親や継いでくれたアイツにもいい迷惑だろ? ああ、言うまでもないけど実家の家名とか探らないでよ」
「調べたところで使わないですよ」
「そう言うと思った。……で、君はどうなの」
たっぷりとなにか含んだ質問を浴びせられて、ジャイルズは気を引き締める。
「どういう意味でしょう」
「だって君、何か隠してるよねえ?」
疑問の形を借りた断定だ。フィオナとの恋人のフリのことが頭を掠めるが、彼女は叔父には話していないときっぱり言っていた。
(なるほど。芯を捉えた絵を描くはずだ)
隠し事も心も、なにもかも丸裸にするような視線を正面からぶつけられ、これが画家レイモンドかと妙なところで納得をする。
ジャイルズの返事を待つ気はないようで、レジナルドは一人で話を進めていく。
「フィオナはいい子だよ。けれど君とは生きるクラスが違う。その溝を埋める覚悟や準備はなさそうだなあ」
「……っ」
反論を遮るように、レジナルドは組んだ腕を解き、人差し指をジャイルズの胸にトンと突きつけた。
「君は、理由がなければあの子と会えない」
自分は違うと言いたげなレジナルドの言葉は――確かに正しい。
叔父レジナルドとしても、画家レイモンドとしても、フィオナと彼の縁が切れることは絶対にない。今までも、そしてこれからも。
そのことに言いようもない憤りと不満が滾る。
(……違う。不満ではなく、これは)
胸に巣くう重い色の雨雲のような靄はきっと、不安だ。
レジナルドは、ジャイルズの胸に置いた指をそのまま伝い上げ、固く閉じた顎を上に向かせる。
普通ならば不遜といわれるレジナルドの態度だが、身分やそれらから逸脱したところにいる彼には関係ないのだろうし、ジャイルズもそれを指摘する気にならない。
「ねえ? 僕の大事なフィオナは自分の足で歩けるし、歩きたいと言う子だ。あの子らしさを損なうくらいなら、無理にでも引き離したほうがいいかなって思うよ」
正面で向き合ったレジナルドは、大げさなくらい笑みの形を作っている。
だが瞳はどこまでも冷たく無感情で、ジャイルズはこくりと唾を飲み込んだ。こんなふうに呑まれることは、これまでの人生で滅多になかった。
「交際は構わないだろうね。でもその先を望むなら、それは果たしてフィオナにとっての幸せといえるかな」
――言われなくても分かっている。
自らの道を進もうとするフィオナに惹かれたのだ。
(……待て。惹かれた?)
ひとりの人として、女性として。
自分にないものを持つフィオナを好ましく思っていることを今さら覚って、ジャイルズの息が止まった。
――フィオナの姿、声。ジャイルズが差し出す腕に添えられる手。瞬きのひとつでさえも。
やけに鮮明に浮かぶそれらが、自分の中で既に特別な位置にあることにようやく気付く。
一歩も引かない姿勢のレジナルドを前にいつも通りの平静を装うが、心中はそれどころではない。
(私は、フィオナのことを)
そう自覚すればすべてのことに説明がつく。
いつからと言われれば、きっと最初からだろう。
そうでなければ、いくら困っていても恋人のフリなど受け入れられたわけがない。
「地方貴族の末端でしかない僕でさえ、嫡男が家に逆らい、自分の意思を通すには存在を消すしかなかったよ」
レジナルドの声が、耳を滑っていく。
「バンクロフト伯爵家を背負う君に、それができるかい?」
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