第57話 開封と開示
昼の時刻にジャイルズがギャラリーを訪れると、奥の事務室にいたのは伝票を書いていたデニスだけだった。
今もまだ軍式の礼を取りそうになる元部下を手で制して、挨拶は黙礼でとどめる。
「ローウェル卿、お一人ですか?」
「……なにか問題か」
「あっ、そ、そうでした! フィオナさんはご自宅に戻られたんでしたね」
ジャイルズから発せられた冷気に慌てるデニスから視線を外すと、ローテーブルに目がいった。
大きめの荷物が梱包の紐がついたまま、無造作に置いてある。
「そ、そちらがレジナルド氏が持ってこられた絵だそうです。今日これから開けるとかで」
デニスの説明に頷く。この場に呼ばれたのは意外だったが、何をするのかの予想はついていた。
(だが、絵を見せてどうするつもりなのか……)
フィオナがあれほど楽しみにしているのだから、きっと彼は目利きだろうし、ここにあるのは「いい絵」なのだろう。
とはいえ、こうしてロッシュが預かっているということは、既に買い手の目処も立っているに違いない。それならば自分に購入の斡旋をする目的とも思えなかった。
「中身についてはなにか聞いているか?」
「いえ、全く。ここで番をしておくようにとは言われましたが、まだオーナーもどんな絵かどころか、枚数も知らないそうです。開けるのが楽しみですね」
「デニスは絵が好きだったのか」
にこにこと無邪気なデニスに、ジャイルズは少し意外な気がした。
「あの、前は好きとか嫌いとか思うほどの興味もなかったです。ただ、こちらに来て、けっこういいものだなあと思うようになりまして。……単純ですが」
あはは、と照れくさそうに頭を掻くデニスだが、その素直さは悪くないとジャイルズは思う。
「最初は正直、護衛の役目が終わったらまた別の職を探そうと考えていたんです。でも今では、長く続けさせていただきたいと思っています」
「そうか」
「なかなかやりがいがありますよ。今度オークションにも同行させてもらうことになって」
「ああ、駆け引きは得意だったな。向いているんじゃないか」
「いやあ、どこまで通用するか分かりません。でも、はい。楽しみです」
軍にいた頃、デニスの業務は事務方ではあったが斥候と諜報も兼任していた。畑は違っても共通する部分もあるだろう。
リチャードが今回の件に半ばむりやり引き込んだデニスだが、現状に満足していると聞けばジャイルズも満更でもない。
そんなことを話していると、ルドルフを連れたロッシュがやってきた。
「あれ、お嬢サマは一緒じゃないんだ?」
「ルドルフ、お、お前はまたー!」
デニスが大急ぎでルドルフの口を塞ぐ。モゴモゴとまだなにか言うルドルフの口をなんとか閉じさせようとデニスが奮闘していると、また扉が開いた。
入ってきたのはフィオナ――と、レジナルドだ。
「今日も楽しそうね。こんにちは、ジャイルズ様。昨日はありがとうございます」
「いや」
ルドルフとデニスのじゃれ合いを真っ先に目に止めて、フィオナがにこりと微笑む。その手は、叔父にしっかりとエスコートされていた。
……勝手知ったる、フィオナにとっては家も同然のギャラリーでエスコートが必要かは甚だ疑問だ。そうはいえ、ジャイルズに異議を唱える筋はない。
挨拶を交わすジャイルズの視線がどこに向かっていたのかは、すぐに分かったらしい。
フィオナは手を抜こうとするのだが、レジナルドがきゅっと握って離さない。
さらに、フィオナから見えない角度でジャイルズに挑発的な視線を送ってきた。
(こいつ……)
遊ばれていると直感する。
視界の端では、レジナルドの揶揄いに気付いたロッシュが眉間に深くシワを刻んで眼鏡を押さえていた。昨日のクレイバーン男爵よりはマシだが、胃が痛そうな顔である。
行動も顔の造作も本当に年上かと疑いたくなるレジナルドだが、ジャイルズがなにか言うより先に、フィオナのほうが叔父に抗議を始める。
「叔父様。荷物が開けられません」
「ん? えー、仕方ないなあ」
レジナルドのこうした行為には慣れっこなようで、手が離れたとたん、待ちきれない様子でぱっと荷物へ近寄った。
叔父本人よりも持ってきた絵の方を優先している様子で、ついでに、捨て置かれてしょぼんとしたレジナルドも相まって少しだけ胸がすく。
……その感覚に、自分で驚いた。
(なんだ、これは)
似たような気分になったことはこれまでも何度かあった。
だがジャイルズは今、改めて自分の心が動いたことを現在進行形で自覚したのだった。
――他人の行動や思惑に乗せられるのは暗愚である、という原則に沿ってきた。
本来、感じたことをそのまま表情や行動に出し、相手に悟らせるのは貴族として未熟であることの表れでしかない。
しかし、フィオナと会ってからは例外ばかりだ。
自分に対しても他の人に対しても、表面だけでの付き合いをしないフィオナだからジャイルズも同じように接してしまう。
恋人のフリが芝居だと分かっていながら、それを抜きにしても、作らない感情を渡してしまっていた。
(……それも悪くなかった)
バンクロフト家の嫡男としては、らしくない。だが
そんな十代の少年のような、今さらの疑問に内心で自嘲する。
「すぐに開けていいでしょう?」
「ええ、お願いします」
絵の包みを前に期待で瞳を輝かせるフィオナへ、ロッシュがハサミを手渡す。
パチンと紐の切れる音がして、ジャイルズは意識を今に戻した。
さっきまで騒いでいたルドルフも中身の絵が気になるようで、いつの間にかテーブルへと近寄っていた。
ジャイルズも含め、部屋中の皆が注目する。
絵を持ってきた当の本人のレジナルドばかりはのんきに構えている。しかもソファーではなく事務机に腰掛けて行儀が悪いどころの話ではないが、もう気にしないことにした。
丁寧に梱包を解くフィオナの手元からは、パリパリと乾いた紙の音がする。
さらに一枚ずつ布にくるまれて、三枚の絵が姿を現した。
「……わ、あ……!」
目を大きく開いたフィオナが、それは嬉しそうな笑みを浮かべる。すぐ隣で張り付いていたルドルフも、あんぐりと口を開けた。
レジナルドの持ってきた絵は二枚は静物画で、残る一枚は風景画だった。
どれも同じ画風で、一人の画家の作品だと分かる。ジャイルズにも、その絵筆のタッチや色使いには覚えがあった。
「……レイモンド?」
「あ、分かった?」
「ええ、まあ」
なぜか嬉しそうなレジナルドに、ジャイルズは軽く頷く。
(よく、レイモンドを)
人付き合いを好まない人気画家が唯一取引をするのは、このロッシュの店だけだというのは有名な話だ。
だとすると、このレジナルドが仲介人なのだろう。
テーブルの上に置かれた三枚の絵には、明らかに贋作とは違う、本物だけが醸し出す静かな迫力が備わっていた。
見たことのない果物と貝殻がそれぞれメインに描かれた静物画、船が行き交う入り江の風景画。
一見、あっさりとしていながら丁寧な描き込みは奥行きを感じさせ、ほのかな旅情と異国の空気を伝えてくる。
一旦、顔を上げたフィオナが振り返ってレジナルドと視線を交わす。自邸のコレクションルームで見たのと同じくらい、その瞳が輝いている。
ジャイルズとも目が合うと、フィオナはてらいのない笑みをゆっくりと浮かべた。幸せそうなその表情に、鼓動が大きく鳴る。
不自然に脈を打った胸から気を逸らそうとするうちに、フィオナの目はまた絵に戻った。
「すごく、素敵……」
「……すっげー……」
ルドルフも食い入るように眺めている。
額装もしていないむき出しのキャンバスに全員がしばし見蕩れていると、レジナルドが口を開いた。
「君も気に入った?」
「素晴らしいですね」
ジャイルズの率直な感想だった。三枚の内でどれが特にと楽しげに聞かれて、少し迷って入り江、と答えた。
「そっか、ありがとう。じゃあねえロッシュ。その入り江の絵さ、レディ・コレットに売って」
「「は?!」」
背後からのレジナルドからの唐突な申し出に、ロッシュとジャイルズが揃って振り向く。
「レ、レジー、ちょっと待て」
「だってさあ、フィオナが世話になったんでしょ? そのレディ・コレットがレイモンドを欲しがっているって」
「そ、それはそうだが、でも、今回の絵は全部もうとっくに買い手が」
額に嫌な汗を浮かべたロッシュは珍しく思いきり狼狽しているが、レジナルドはあくまでケロッとしている。
「またすぐに別なの用意するからさ、先に渡してあげてよ。まあでも、いらないって言われたら流しちゃっていいけど」
レジナルドに言葉を向けられて、姉に代わってジャイルズが答える。
「いらないとは絶対に言わないと思いますが……」
「うん。弟の君が持って行けばいい。あ、値段とか額装とかはロッシュと決めて。僕はそこまで面倒みないからさ」
今日、呼ばれた理由はこれかとジャイルズは驚きながらも腑に落ちた。
しかも、話の具合からいって、このレイモンドの絵に関してはロッシュよりもレジナルドに優先決定権があるようだ。
姉が狂喜乱舞する様を思い浮かべながら、一応、ロッシュにも確認をする。
「オーナー、構いませんか?」
「いやあ、構うよ! ものすごく構うけど、はあ……レジーは言い出すときかないからなあ。……ああ、分かったよ、もう。ワトソン卿になんて言えば……!」
「えー、そこをどうにかするのがロッシュの腕だろ? ねえ、フィオナ」
ロッシュの悲痛な訴えもレジナルドには通じない。
飄々とした笑顔で受け止めて、代わりに話を振られたフィオナは、少し申し訳なさそうにしながらも嬉しそうにした。
「ミランダ様は喜ぶと思いますし、そうしていただければ私も嬉しいです」
「うん、じゃあ、決まりー」
「はあぁぁ……せっかくの一年以上ぶりの新作……俺の考えた完璧なセールススケジュールが……」
「まあまあロッシュ。今日は飲もうじゃないか」
「ちくしょう、奢れよ……!」
ぽんぽんと肩を叩かれるままのロッシュには同情するが、どうもこのレジナルドという人物は大概これが通常らしいと分かる。
フィオナが何度か、叔父は少し変わっていると言っていたが、なるほどと納得だ。
(だが、憎めない人物ではある……たぶん)
フィオナのことがなければ、だが。
そこに控えめなノックの音が響いて、従業員が顔を出した。
「失礼します。お嬢様、ベネット夫人がご来店なさいました」
「えっ、本当?」
「行っておいで。僕は絵と一緒にここで待っているから」
ぱっと顔を明るくしたフィオナに、レジナルドは店頭へ行くように勧める。ジャイルズも頷くと、フィオナは名残惜しそうに絵を見ながら、いそいそと扉へと向かった。
「すみません、それでは少し席を外しますね」
「お、俺も行く……気分転換して英気を養ってくる……」
「ふふ、オーナーってば、さっきから
「いかん。もうダメだ……。デニス、熱いお茶を頼む。奥の商談室な」
「あ、はい」
くすくすと笑うフィオナと、ぐったりと項垂れるロッシュが事務室を出て行くと、ルドルフにお茶の支度の練習だと言ってデニスたちも出て行った。
結果、事務室には三枚の絵と二人の男性が残される。
(さて……どうしたものか)
レジナルドには言いたいことも聞きたいこともあるが、まずはこのことからだろう。
今もソファーではなく事務机に腰掛けて楽しげに足を揺らすレジナルドに、ジャイルズが話しかける。
「この絵は、本当によろしいのですか」
「うん? 構わないよ」
「先約があったようにオーナーは言っていましたが」
「いいよ、また別なのを描くから」
「え?」
(描く? 買う、ではなくて……)
その言葉の意味を瞬時にひらめかせ、はっとしてレジナルドの目を見る。
すとんと事務机から飛び降りたレジナルドが、にっと口角を上げてジャイルズに右手を差し出した。
「ちゃんとした自己紹介がまだだったね。改めて、僕がレジナルド・レイモンド・ベイリーだ」
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