第72話 レジーの打ち明け話

 ジャイルズがヘイワード侯爵家に戻ったのは、夜になってからだった。


(遅くなったな)


 療養中であるフィオナの夕食時間は早い。例の薬湯は数日間処方される予定だから、今頃はもう眠っているかもしれない。

 声は聞けないだろうが、顔を見て無事を確認したい。

 足早に階段を上がるとフィオナの部屋からは明かりが漏れていた。薄く開けられた扉に手を伸ばしたところで、室内にある人の気配が動いた。


「やあ、お帰り」

「叔父上殿」


 ノックをする前に声を掛けてきたのは、フィオナの叔父のレジナルドだ。

 話をしたいと思っても避けられてばかりだったが、どうやら今夜は違うらしい。


「ちょうど今、眠ったところ」

「そうですか」


 起こさぬように静かに部屋に入るが、レジナルドが寝台の傍から動く様子はない。


「あと五分早かったら起きていたけど」

「いえ、休めるならそのほうが」

「ふーん」


 静かな寝息を立てて、あどけなく目を閉じるフィオナにほっと息を吐く。


「さ、いつまでもレディの寝顔を見ていちゃいけないね」


 レジナルドは使用人に代わって夕方からこの部屋にいたと言う。愛おしむように髪を撫でた指で天蓋の布を引き、ジャイルズを連れて寝台を離れた。


「君もなにか食べるかい?」

「いえ、私は」

「じゃあ、勝手に続けさせてもらうよ」


 フィオナの食欲はまだ戻っていないらしい。テーブルに支度された二人分の食事の片方は、半分以上残されていた。


「量をもう少し減らせるかな。食べきれないのを気にしていたから」

「キッチンに伝えます」


 食べたり食べなかったりは当たり前。無理な注文を付ける客人も少なくないのに、逆に残食を気に病むのがフィオナらしい。

 使用人が少ないクレイバーンの家ではコックも家族同然だと言っていたから、さもありなんだが。


 ソファーの空いた席には数冊の画帳が積んである。レジナルドのスケッチを、フィオナが目を輝かせて見ただろうことが想像できた。

 ジャイルズが贈る花も喜んではくれているが、きっと何よりの見舞いになったはずだ。

 勧められて向いのソファーに腰掛けると、慣れた手つきで淹れた茶を渡される。


「薬は入れてないから」

「心配はしていませんが」

「えー、少しは警戒してよ。僕が君に毒を盛らない理由はないでしょ」

「その場合は甘んじて頂こうかと」

「気概はいいけど、君は案外賢くないね」


 呆れた物言いのレジナルドにジャイルズは苦笑する。

 可愛がっている姪を危ない目に遭わせた原因でもある自分が罰せられるなら、それでもいいと本気で思っていた。


「熱も大丈夫なようだし、あと二、三日しっかり眠ればすっかり回復するだろうって。そうしたら連れて帰るよ」

「……」

「不満そうだねえ」


 もぐもぐと食べ進みながら、レジナルドはにやりと口角を上げる。

 そんなに分かりやすく表情を動かしたつもりはなかったが、リチャードやフィオナの前だけでなくても思うことが顔に出たらしい。


(……いや、違うな)


 きっとフィオナのことだからだ。

 改めて自覚するとまだ戸惑うが、受け入れるしかないだろう。


「叔父上殿、私は」

「ああ、ストップ。だーめ、詫びも頼みも聞かない」

「しかし」

「僕だって山ほど文句を言いたいけどさあ、フィオナがやだって言うんだもん。自分にはいいけど、君を責めてくれるなってさ。僕は何も言えない状態で君の話だけ聞くのは不公平だよね」

「フィオナが……」


 議会の後、ジャイルズが自宅に戻るのを予想したようにバンクロフト伯爵は在宅していた。

 顔を合わせたのは執務室ではなく家族室で、そこには父だけでなく母も姿を見せた。


 使用人も下げて行われた話し合いは、舞踏会での事件の全貌についてだけではなく――どうするつもりだ、という父伯爵の問いかけへの答えが受け入れられるかは分からない。

 だが変えるつもりはなく、認めさせる以外の考えはなかった。


 対話を終えて来れば、ある意味で父よりも難関だろうフィオナの叔父がいる。

 謝罪ができない状態だとしても、避けられていたときからすれば、こうして顔を合わせて話ができることは進歩だろう。


「まあ、謝ってスッキリされちゃうのもムカつくし? せいぜい後悔を長引かせればいいさ」

「……はい」

「うわ、真面目か」


 呆れたように眉を上げ、ぱくりと肉を口に放り込む。

 促されて飲んだ茶は予想外に味がよい。軽く驚くジャイルズに、レジナルドは胸を張った。


「おいしいだろ? フィオナに淹れ方を教えたのは僕なんだ」

「そうでしたか」

「あ、もしかしてフィオナが淹れたお茶はまだ飲んだことない? やったね」


 子どものように自慢されても、不思議と反発心は湧いてこない。皮肉や冷やかしにも反応しないジャイルズに、レジナルドは眉を寄せた。


「こうまで手応えがないと、いじめるのも可哀想になってきたな。仕方ない、僕のことでも聞かせてあげよう」


 これでも年上だからね、と寛容さを見せつけるように鷹揚に笑うと、レジナルドはグラスの酒を傾けた。


「……生まれつき身体の弱い姉のあと、母は何度か死産をしてね。これが最後の妊娠だと言われて身籠もったのが僕なんだ。無事に生まれて、しかも男だろ。そりゃあ期待されたし圧もすごかった」

「分かります」


 ジャイルズも末子の男児だ。しかも由緒ある伯爵家の総領息子ということで、家庭教師たちによる授業だけでなく、立ち居振る舞いから考え方まで日々の暮らしそのものが試練だったような部分もある。

 筆頭伯爵家と地方貴族の差はあるだろう。だが、嫡男に掛ける期待とプレッシャーに大差はない。


「僕は勉強が嫌いでね。あ、生物学とか外国語は好きなんだ、面白いだろ? でもさあ、経営学とかマナーとかは、好きな人が勝手にやればいいんだよ」

「そういうわけにはいかないでしょう」

「そうなんだよねえ。まあ、それでも姉がいるときには親の目も誤魔化せたし、姉も庇ってくれたからよかったんだけど。義兄さんと結婚していなくなっちゃってからは、僕一人に集中したんだよね」


 レジナルドが絵を褒められたのは、小さい頃の一時期だけ。

 絵を描くことばかりに没頭して勉強を疎かにするため、締め付けは厳しくなり絵筆も捨てられた。


「嫡男として矯正しようってことだったけど、性格なんて変わらない。しんどくって、まず最初に片耳が聞こえなくなった」


 明るく言うレジナルドの顔をまじまじと見つめてしまう。


「耳の調子が悪いと、体のバランスを取るのが難しいことがあるんだ。おかげで何度も落馬したし、階段もしょっちゅう踏み外して」

「危ないですよ」

「だろ? でも親は、反抗した僕がわざとふざけてやっていると思ったんだなあ。ますます監視はきつくなるし授業も詰め込まれてさ。次に食べ物の味が分からなくなって、声が出なくなって、衝動的に家を飛び出した。それが十歳の頃」


 無表情で挨拶ひとつ言えないでいるレジナルドを、義兄の男爵は何も聞かずに受け入れた。

 妻の実家との話し合いにも積極的に関わり、最終的に長期療養と称して、レジナルドをクレイバーン家で預かることが決まる。


 貴族教育が性質に合わない子どもの話は珍しくない。だが、ここまで拒否症状が酷いケースはあまり聞かない。

 兄弟がいれば、そちらに継がせるよう取り計らったのだろうが、レジナルドにはその手は使えない。どうしたってレジナルド本人が跡取りとしてなるしかなかった。


 しかしそれは、十歳になる前の子どもから聴力も声も奪うほどの負担を強いた。

 気楽に家出をしたと思っていたジャイルズは、予想外に惨憺とした過去を聞かされて神妙な顔になる。


「君なんかが簡単にさらーっとこなしちゃうようなことより、飼い葉桶いっぱいの塩水を飲み干す方が僕にとってはよほどラクだった」

「それは……どうでしょう」


 分かるような分からないようなたとえだが、当時のレジナルドがそう思っていたことは確かだろう。


「姉夫婦のとこに転がり込んでからもしばらくはボーっとして、ただ寝て起きるだけ。そうして季節がいくつか変わって、フィオナが生まれた」


 食事を終えて組んだ足の上に肘を載せ、頬杖をついたレジナルドは窓の外を眺めて懐かしそうに目を細める。


「姉は産褥熱が引かなくて、義兄もそっちにかかりきりでフィオナは乳母まかせだった。僕は子ども室に入り浸った。赤ん坊に興味はなかったけど、不思議な生き物だなあって少しだけ心が動いた気がする」


 乳母は領地の上役をしていた家の婦人で、明るく世話好きな女性だった。

 両親がなかなかフィオナの顔も見に来られない状況で、せめて年の近い叔父と親しくさせようと思ったのだろう。

 抱かされたり、寝かしつけをさせられたりしているうちに、赤ん坊のフィオナはレジナルドを見分けて笑うようになる。


「ちっちゃい手で僕の指をぎゅって握って『えじー』って言ったんだ。『ママ』でも『ダディ』でもなくて、初めて呼んだのが僕! しかもお日様みたいにニコニコしてさ、もう!」


 身を乗り出して自慢されるが、赤ん坊のときのフィオナなど想像しても可愛らしいだけ。見られなかった悔しさはあるが、レジナルドに嫉妬はない。


「それは可愛らしいですね」

「いや、あのね。可愛いなんてもんじゃないから! 天使だから! 光ってたし!」


 話し始めたフィオナと一緒に声と言葉を取り戻していったレジナルドは、好きだった絵を再び描き始める。

 禁止され、抑圧された分を奪い返すように描き続け、いつしか心の平安も取り戻していた。

 その一端には、雛が親鳥に向けるような純粋な信頼をまっすぐに寄せるフィオナの存在があったことは間違いない。


「結局そのまま実家から離れた。関わらないのがお互いにとって一番さ」

「……そうでしたか」

「話を聞いて僕の印象変わった?」

「はい。こう言うと失礼ですが」

「ははっ、別にいいよ。僕も君の都合はどうでもいいし」


 あっけらかんとした口調に、ほんの僅か年長者の気遣いを感じる。

 グラスを置いてスケッチブックをまとめたレジナルドはもう一度寝台のほうを見て、立ち上がった。


「……君さあ、もっと話せば?」

「は?」


 唐突な提案に、気を張り忘れたジャイルズの口からは疑問の声が出た。


「ま、どっちにしろフィオナは連れて帰るけどね」

「あの、叔父上殿」


(それは、いったい――)


 レジナルドの真意を測ろうとするが、ぐいぐいと背中を押されて表情が見えない。


「さあさあ、メイドに交代して君も退室ー。部屋に居残ろうったって、叔父さんは許さないからね!」

「いえ、そんなつもりは」

「ないの? 情けないなあ! いやでも、やっぱりダメーっ」


 ジャイルズが部屋を出ると即座にメイドを呼んでドアを閉めたレジナルドは、そのままひらひらと手を振って廊下の闇に消えていったのだった。





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