第73話 二度目のガゼボ

 フィオナの居室から見えるヘイワード侯爵邸の庭は、今日も花盛りだ。

 よく手入れされた花木は青空の下で目に鮮やかで、開けた窓から入る風は心地よい。

 だというのに、二階から庭を見下ろすフィオナの顔色は曇っている。


「……はあぁ、退屈……」


 腰高の窓枠に手をついて、フィオナは外の陽気にそぐわない深いため息を吐いた。

 着ているのは軽いワンピースドレスで、髪は結わず下ろしたまま。周囲からの扱いはいまだ病人ポジションであるものの、一日中寝衣でいなくてよくなったのは進歩だ。


 しかし、前回とは違い療養目的で侯爵家に滞在しているフィオナは現在、画廊の仕事を禁じられている。

 ロッシュに相談や確認をされることはあるが、請け負っていた事務仕事は全てデニスとハンスが持って行ってしまった。


(今は字もうまく書けないから、手紙や帳簿を代わってもらえるのは助かるけど)


 当初より包帯を巻く範囲は減ったものの、あいにく利き手の傷はまだ塞がっていない。

 それに、手に包帯など巻いてギャラリーに出たら顧客が気にするだろう。特に、ベネット夫人やタルボット卿に見られたら大事だ。


 だから休暇には納得しているのだが、これまでは毎日動き回っているのが通常だったフィオナである。

 体調が戻ってから数日とはいえ、こんなに「なにもしない」時間を長く過ごすのは初めてで、本日も昼前にしてすっかり時間を持て余していた。


 たっぷりとある時間を潰すには刺繍や編み物がぴったりだが、今のフィオナの手では難しいし、実を言うとそちら方面はあまり得意でない。

 邸内に飾られた絵画や彫刻を見て歩きたくとも、病み上がりの客人がうろうろしていたら使用人にも迷惑だろう。


 動かないから食欲もあまりない。

 けれど、食べなければまた心配されて寝台に戻されてしまう。心遣いは嬉しいものの、このあたりもジレンマだ。


 では読書はといえば、夫人が貸してくれた数冊の本はもう読んでしまった。

 侯爵家の図書室は貴重な本も多く、使用人の入室を制限している。違う本を借りるには家令か夫人の帯同が必要で、そうなると気軽には頼みにくい。


(……こんなに一日中やる事がないのって、初めてかも)


 一般的な貴族令嬢だったら、きっと余裕でゆったりくつろいで過ごすに違いない。だが、子どもの頃はお転婆で、長じてからは外で働くなどしてきたフィオナは動きたくて仕方がない。

 そう思えるのも、心身共に回復した証拠であるように感じた。


 このまま熱がぶり返さなければ、医師の往診は次回が最後の予定だ。なので、ヘイワード侯爵家にいるのもそう長くはない。

 皆に言われる通り、のんびりするのも悪くないはずだと自分に言い聞かせる。


「あ、鳥」


 庭木から小鳥が羽ばたく。

 よく見ようと、窓から身を乗り出し気味にしたとき、コンコンと部屋の扉を叩く音がした。


「はい、どうぞ……っわ、」


 扉が開いたことで窓からの風がびゅうと勢いよく吹き抜ける。薄布を重ねた柔らかなワンピースの裾が大きくはためき、髪とともに舞い上がった。


「――フィオナ!?」


 乱れた髪を押さえるフィオナの元に、血相を変えたジャイルズが驚くほどの速さで駆けてくる。


「ジル様? ど、どうしました?」


 はっしと肩のあたりを掴まれて、丸くなったフィオナの瞳に顔色をなくしたジャイルズが映る。

 バタンと大きな音を立てて扉が閉まると風もやみ、フィオナのドレスと髪がふわりと戻った。

 戸惑うフィオナを何度か瞬きをして見下ろすと、ジャイルズは肩で息をする。


(……あ、もしかして)


 開いた窓辺で、フィオナはそのすぐ傍に立っている。

 このシチュエーションは、舞踏会のと同じだ。

 もちろん、夜と昼の違いはあるし、そもそもゴードンもいない。だが、事件はまだつい先日のこと。重ねて思い出すには十分だ。


(私は、窓に近づくのが怖いとか思わなかったけど……)


 当事者だったフィオナは、端から見て自分がどういう状態だったのか実際にはよく分かっていない。

 しかしジャイルズは違うのだ。


(目の前で人が窓から落ちたら衝撃よね。うっかりしてた)


 腕を掴む手は今も微かに震えてさえいるようで――フィオナは無意識のまま、目の前の蒼白な頬に指先で触れる。


「大丈夫ですよ」

「……フィオナ」

「はい」


 名を呼ばれて、笑顔で応える。

 持ち上げた手を握り返す指先は冷たかったが、今度こそジャイルズの身体から力が抜けたのが分かった。


「驚かせてごめんなさい。いいお天気なので外を見ていました。窓、閉めますね」

「いや、私がやろう」


 そう言ってジャイルズはフィオナをその場から離し、窓を閉めて錠を下ろした。


(本当に心配かけちゃったんだな)


 舞踏会に連れて行ったこと自体も、かなり後悔しているようだった。

 まさかあんなことになるとは誰も予想できなかったのだから、その点に関してジャイルズが責任を感じるのはお門違いだと思うのだが。

 

 ……でも。もし逆の立場だったらと、ふと思う。

 

(私の目の前で、ジル様が湖に落ちたら――?)


 そわ、と背筋が寒くなる。

 嫌な想像を振り払おうと、フィオナは腕をさすった。

 

「フィオナ、寒いのか? また熱が?」

「だ、大丈夫です。体調は問題ありません」

「本当に?」


 振り返って尋ねるジャイルズのほうが今は具合が悪そうなのに、慌てて否定するフィオナに疑いの眼差しを向ける。


「元気です……ええと、でもあの、しいて言えば」

「退屈か」

「そう見えましたか?」


 ぱっと見て分かるほど、自分が外を見る顔は焦がれていたのだろうか。

 表情を読ませないのが成人貴族の嗜みだが、相変わらずフィオナはそれが苦手である。

 子どものようで恥ずかしくなって頬を押さえるフィオナだが、ジャイルズに気にした様子はなくむしろほっとしたように頬を緩めた。


「それならいい。体調に問題なければだが、実は外に誘いに来た」

「えっ、本当ですか?」

「医師も許可済みだ。前に行ったガゼボに昼食の支度をさせてある」

「行きたいです!」


 ぱっと顔を明るくしたフィオナに頷くと、ジャイルズは傍にあったショールを渡す。

 服はそのままでいいというので、下ろしていた髪だけさっとまとめ肩口に流し、室内履きから替えて部屋を出た。


 廊下を歩くのもなんとなく新鮮だ。

 当然のようにエスコートするジャイルズの歩みは普段よりずっとゆっくりで、しかも足に怪我はないのに階段でやたら慎重になるから、少し可笑しくなってしまう。


「ジル様って、実は心配性ですよね」

「フィオナが危なっかしいからだろう」

「そんな、私は普通ですよ?」

「君と私の普通には、認識に相違があるようだ」

「それは困りました。こんなに平凡な人間なのに」

「そう思っているのは一人だけだな」


 軽口を楽しみながら庭を進む。久しぶりに全身を外の空気に包まれて、フィオナは言いようのない解放感に満たされた。


(部屋から眺めるのも綺麗だったけど、やっぱりこうして庭に下りて見ると全然違うわ)


 六角形のガゼボは今日も美しかった。さすがに薔薇の花数はぐっと減っているが葉の色は艶やかに濃く、蕾だったダリヤが咲き始めている。

 前回とは趣を変えた風景に、フィオナは嬉しそうに顔を輝かせた。


「ここは今日も綺麗です」

「庭師が聞いたら喜ぶだろう」


 作り付けのテーブルには既に食事の支度がされていた。まだ食の細いフィオナのためにだろう、小さな器にいろいろな種類の料理や果物が小分けされて盛ってある。

 チーズやグラタン、ブドウなど、なんとなく子どもが好きそうなものが多い気がするが、どれも美味しそうだ。

 しかもティーポットのほかに冷たい飲み物のピッチャーも複数用意されていて、まるでちょっとしたパーティーのよう。


「わあ……豪華ですね」

「昔、侯爵子息がまだ子どもだったときに、よくこうして支度したそうだ。料理長が懐かしがって張り切って用意していた」

「それって、私が子どもということでしょうか」

「さあ、どうかな」

「そこは否定してほしいです……!」


 笑いながら勧められたベンチには、前にはなかったクッションまで置いてある。

 手間を掛けさせたことを申し訳なく思うものの、心配りは素直に嬉しい。礼を言えば気にするなと返された。


 侯爵家の領地で採れる特産品など、フィオナには馴染みのない食材もあり、ジャイルズがしてくれる説明に頷きながら食事を始める。

 外という環境のせいか、これまでより食が進んだフィオナにジャイルズは満足そうだった。





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