第77話 思い出と訪いと

 フィオナはやや強引に深呼吸をすると、濡れた目元を拭い両手でパチンと頬を挟む。

 ピリッと手のひらの傷に痛みが走ったが、構うことはない。


(しっかりしなきゃ……!!)


 立ち上がり、椅子の背に掛けてあったショールを手に取る。

 気分が乱れたときに部屋に籠もるのは良くない。ここが領地なら屋敷の裏にある丘に向かうのだが、その代わりに侯爵邸の庭に下りた。


 涼やかな夜の空気を肺いっぱいに吸い込むと、心が落ち着く。

 レンガ敷の通路を初めて一人でガゼボへ向かった。庭園灯と月明かりしかなくとも、三度目ともなれば迷うことはない。

 

 たどり着くと、六角形の天井から下がる色ガラスのランタンには灯がともっていた。ここだけほわりと明るいが、夜の美しさを損なう眩しさではなく、フィオナはほっと頬を緩める。

 気持ちの良い風に吹かれたまま、ベンチに腰掛ける。

 この園亭でジャイルズと過ごした二度の時はどちらも昼間で……そういえば先日、眠ってしまったフィオナを寝台まで運んでくれたのはジャイルズだったと後から聞いた。


(あれ、そういえば)


 さらに一度目の時は、ここで見送るフィオナの額と瞼にキスをされたことまで思い出してしまい、わたわたと一人慌てる。


(う、わ、わ……ど、どうしよう!?)


 自分の気持ちを自覚してしまった今、なんというか、すごく恥ずかしい。

 しゃがみ込んで頭を抱えたい気持ちを堪えて、赤くなっているに違いない頬を押さえる。


(こ、ここに来たのは失敗だったかも……っ)


 そうはいっても、この侯爵邸の広い庭で迷子にならずに行けるところは他にない。

 しばらく声も無く悶えた後、どうにか気持ちを落ち着けることに成功するが、相変わらず頭にちらつくのは今夜会えなかった人のことだ。


 遠い存在でしかなかったのに、今のフィオナの心をこんなに占めている。

 さら、と吹いた風に乱された髪を押さえた手に、淡く光る指輪が目に入った。


「……これも返さないと」


 しかし、直接会う機会がもうないのなら、どうやって渡したらいいだろうか。


(さすがに、手紙と一緒に封筒に入れるわけにはいかないわよね。誰かに預ける? でも、なんて言って?)


 二人の事情を唯一知っているリチャードになら可能だろう。だがジャイルズが不在の状態で、フィオナからリチャードに会いに行くことは難しい。

 ヘイワード侯爵夫人やミランダも信頼できる人だが、それとこれとは別問題だ。もちろん、ロッシュにも同じ理由で頼めない。


 実務に思いを巡らすのは、騒がしい心を落ち着かせる役に立つ。

 なにかいいアイデアはないかと探すようにぐるりと見渡すと、記憶の隅に引っかかるものがあった。


(どこかで見た気がする景色だけど……あ!)


 王宮の小庭園ではない。目に映る風景に感じた既視感は、すぐに一枚の絵に繋がった。

 バンクロフト伯爵家のコレクションルームにあった、夜の庭を描いた一枚だ。

 と同時に、はたと閃く。

 あのコレクションルームはフィオナが知る限り、限りなく安全で、そうそう人も来ない場所だ。


 ――あの部屋に指輪を隠して、取りに行ってもらうのはどうだろう。


 辞退はしたが、いつでも訪れていいとジャイルズが言ってくれていた。明日、家に帰る前に寄ってもらって、額縁の後ろにでも置いてみようか。


(私があの部屋で一人にしてもらえれば、だけど)


 きっと有能そうな執事頭が同室するだろうが、指輪を隠す隙はあると思いたい。けれど――なんだか、泥棒みたいだ。


「……ふ、ふふっ」


 やりたいのは奪うことではなく返却することなのに。物騒な自分の思いつきに、つい笑ってしまう。

 契約書代わりに指輪と交わした時計は、自分のもとに戻ってこなくてもいいような気がしているのも不思議だ。


「はあ、おかしい……。……お母様」


 ふいに、亡くなった母を思い出す。

 幼い頃から先は長くないと言われ続け、結婚など考えもしなかった母は一体どんな思いで父の手を取ったのだろう。


 今、母に会いたい。

 幸せだったとの言葉を疑ったことはないが、後悔はなかっただろうか。

 行きたいところもやりたいことも、諦めてばかりだったはずだ。


 訊きたくとも浮かぶのは儚い笑顔ばかり……また少し滲んだ視界で指輪を外す。

 すっかり着け慣れてしまったから、空身の指はまるで裸にされたように心許ない。フィオナは指輪を持ち上げて、夜空に透かした。


「……きれい」


 フープの中に遠く輝く月を入れて、声を覚えていない母の歌を口ずさむ。

 そうすれば、近くにいられるような気がして。


 ――み空ゆらぐ星のもと、眠れ愛し我が子――

 古い、今は歌われなくなった子守唄がこんな夜にはぴったりだ。


 セシリアを胸に抱き、揺り椅子に掛けた母の膝に甘えるフィオナの髪を、頬を撫でてくれた。「心のままに生きてね」と微笑んで。

 あの日が、母が起きていられた最後だった。


(心のままに……私は、私の心は)


「フィオナ!」


 外した指輪をもう一度嵌めたとき、背後から声がかかった。

 驚いて振り返り、そこに立つ人を見て、またいつかのように瞬きを繰り返す。


「ジル様?」


 どこか性急そうな、切羽詰まった表情のジャイルズが肩で息をしている。


「見つけた……!」


 その一言で、自分を探していたのだと気が付いた。ジャイルズはガゼボに入ると心底ほっとしたように息を吐き、フィオナの隣にどさりと座る。


(え? ど、どうして……!?)


 会えなくて困っていたはずなのに、とつぜん目の前に現れるとどうしたらいいか分からない。

 驚いてぴしりと固まるフィオナの傍で、少し乱れた前髪を掻き上げたジャイルズの目が安心したように細められた。


「部屋にいなくて……心配した」


 ため息交じりだが非難の色はない。

 純粋に心配だけを乗せた声に、フィオナの胸がぎゅっと詰まる。


「ここの警備は信頼していいし、使用人も見回っているが。万が一、君になにかあれば」

「ご、ごめんなさい」


 庭に出るときには使用人室の近くにある裏口を使った。隠れて行動したわけではないから、フィオナの所在は把握されていただろう。

 けれど、それを知らないで誰もいない部屋を訪れたなら、きっと驚いたはずだ。


「あの、今日は来られないって」

「……ああ。これから王都を出て国境の町まで行くことになった」


 今はその道中だ、というジャイルズにフィオナは目を丸くする。


「仕事柄、急用で遠出になることは珍しくない。一時間だけ猶予を貰った」


 従者が表で待っているのだと聞いて、無理をしてほしくないはずなのに、会えて嬉しいと伝えてしまいそうになる。


「フィオナがクレイバーンの家に戻る前に会いたくて」

「え、な……っ」


 真摯な声に胸が音を立てる。

 フィオナが言葉に詰まっているうちに、ジャイルズは話を変えた。


「ところで、どうして庭に?」

「その、少し寝付けなくて」

「薬湯を用意するか?」

「いえっ、大丈夫です。外の空気に当たりたかっただけなので!」


 即座にあの苦い薬を遠慮すれば、ようやくジャイルズの顔にも笑みが広がった。


「しかし……連絡もなしに来た私のせいだが、いつもフィオナを探して走っている気がするな」

「ええと、そう、かも?」


 そういえば歌劇場でも、ルドルフを追った路地でも、離宮でも、いつもジャイルズが駆けつけてくれた。

 そのことに気が付いて、ふわふわとした嬉しさと共に申し訳なさを感じる。


「言われてみれば不公平でしたね。今度は、私がジル様を追いかける側にならないと」

「はは、それは……フィオナ、手をどうした?」

「え?」


 はっと表情を変えたジャイルズに右手首を掴まれた。

 眉を寄せて見つめられた手のひらに包帯はなく、ガーゼに血が滲んでいる。


「ああ、さっき手紙を書いていたのですが……気付きませんでした」

「部屋に戻ろう。手当をしないと」

「大丈夫です。痛みもないですし、もう血も止まって――っ、きゃ!?」


 そのまま手を引かれて立ち上がったところを、さらりと横抱きにされた。驚いたフィオナは、反対の手でジャイルズの肩にしがみついてしまう。


「そうだな。落ちないようにそのまま掴まっていてくれ」

「そ、そうではなくて、あ、歩けますっ!」

「怪我人は大人しく運ばれるものだ」

「足は無傷ですし、重いです!」

「そうか? 背嚢を担いで行軍したことを思えば軽いものだが」

「それと比べられても……!」


 フィオナが何を言っても一向に降ろす気はないようだ。


(……も、もう……!)


 夜でよかった、侯爵夫人や使用人たちの前でなくてよかったと、諦めるしかないだろう。

 すっかり赤く染まった頬を隠すように肩口に顔を埋めたフィオナに、ジャイルズは満足そうな笑みを浮かべて足を進めた。





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