第78話 overflow

 部屋に戻ると、家令のモーリスが新しい包帯一式を用意してくれた。

 自分でできるからと断ったのだが、あいにく傷は利き手にある。無理だろうと押し切られ、結局ジャイルズに手当てをされている。


「痛くはないか?」

「はい、大丈夫です」


 ガーゼを取り替えて患部を清め包帯を巻く、というただの医療行為のはずなのに、どうにも落ち着かない。

 というのも、モーリスは大量に持ってきすぎた用具や汚れたガーゼを片付けに行ってしまったから、今この部屋は二人きりなのだ。


(やだ、変に緊張する……)


 結局、庭からこの部屋までは抱き運ばれた。そっとソファーに降ろされて、なんというか、一連の扱いがやたら甘い。


 意識しなければいいのだが心が勝手に騒がしくて、表面の冷静を装うのが精一杯だ。

 しかも外とは違い、室内ではどうしてもすぐ隣のジャイルズだけが視界に入ってしまう。

 なんとか気を逸らそうと治療に集中すると、薬品や包帯を扱う手つきがまるで医師のように慣れたものであることに気が付いた。


「上手ですね、包帯巻くの」

「軍にいた頃はよくやったからな」

「……ジル様は本当に、なんでもできるのですね」


 嫌味ではなく心底感心して言えば、巻き終わった包帯の端を結びながら、ジャイルズは意外そうに眉を上げる。


「なんでもはできない」

「そうですか? お仕事は今日みたいに頼られるほどですし、ダンスもお上手です。剣技も射撃もできると聞いていますし、馬車も操れて包帯も巻ける。十分『なんでも』です。もちろん、ジル様が努力したからこそできるのでしょうが」


 空いている手であれもこれもと指折り数えれば、自覚がないのかジャイルズは複雑そうな顔をする。

 勉学も武芸も一朝一夕にはできないし、結果が伴うかどうかはまた別だ。

 フィオナが知る貴族教育は、壊滅的に合わなかった叔父からの話が多い。全てを参考にはできないが、幼少期からの過酷さは高位の貴族、しかも嫡男ともなれば相当なものだったはずだ。


(……やっぱり、遠いな)


 若い女性以外とならば社交性も十分にある。それにフィオナとのこのシーズンで、女性に対する苦手意識も多少は改善されたと思いたい。

 そうして改めて実感するのはやはり、遥かに高いところの人物だということ。

 本来であれば、一男爵令嬢の自分とは視線も交わさずすれ違うくらいが関の山。卑屈でもなんでもなく、単純に事実だ。


「多少手広くできたとしても、本当にしたいことや欲しいものが得られなければ意味がない」

「そんな、意味がないだなんて」


 自嘲が混ざった呟きに顔を上げると、笑みを消した灰碧の瞳がフィオナを見つめていた。


(……!)


 分かりやすく瞳を揺らしたフィオナの指先が大きな手に包まれて、ドクリと心臓が音を立てる。


「誰に手紙を? 代筆を頼めばよかったのに」

「ジ、ジル様に」

「私に?」


 急に話の河岸を変えられてどうにか答えると、また予想外だとでも言うようにジャイルズは目を見開く。


「もう、お会いできないと思ったので、今後の予定を……領地に戻ってからのことをお伝えしておこうと。結局、書き終えていませんが」

「ああ、その件か」


 きょと、と一瞬疑問の表情を浮かべたジャイルズだが、すぐにフィオナの懸念に思い当たったようだ。

 恋人のフリのお芝居は終わり、残るは幕後の始末だ。


「クレイバーンに戻った私から手紙を始めて、その後は徐々に間を開けて新年のカードで最後にする、といった流れでどうでしょう?」

「……それくらいが違和感がないだろうな」

「ジル様からのお返事は毎回でなく、気が向いたときにしていただければ、よりと思います」

「返事も不要なのか」

「毎回律儀に返信していたらおかしいです。それに、二枚以上は書かないでくださいね。配達の人やお屋敷の人は案外よく見ていますから、不審に思われてしまいます」


 封筒に入れるのは白紙の便せんでも構わないと言い切るフィオナに、ジャイルズは不満そうにしつつも一応頷いて、苦い顔をする。


「しかしそうすると、この傷が開いたのは私のせいだったのだな」

「ち、違います!」


 もう少しペンを握る力を加減すれば、もしくは包帯を外さずに持てば良かったのだ。誰のせいと言えば、少しでも綺麗な字で書きたいと欲張ったフィオナの責任だろう。

 なのにそう説明する前に、ジャイルズは持ち上げた右手のひら、包帯の上に唇を軽く押し当てる。

 動物が傷を癒やすような仕草に、フィオナの肩が震えた。


「痛い思いをさせて悪かった。……フィオナ、」

「ジル様。私はあなたのお役に立てましたか?」


 言葉を継ごうとしたジャイルズをフィオナは故意に遮った。

 多分、この先は聞いてはいけない。


 リチャードに言われなくても、ジャイルズから自分に向けられている気持ちが「秘密を共有し合う仲間意識」という枠からはみ出しているものだということは分かる。


(……私、も)


 フィオナだって惹かれている。

 でも、だからこそ、言葉にしないで別れなければならない。

 ジャイルズにはジャイルズの、フィオナにはフィオナの進む道がある。


 ――結婚するより仕事を続け、外国に行きたいと言ったフィオナをジャイルズは偏見なく受け入れてくれた。

 彼の手を取るということは、ジャイルズが認めたその自分を曲げることに他ならない。


(それに、小さい頃からの夢を手放したら、私ではなくなってしまいそう)


 疑似恋愛のせいでジャイルズに恋したわけではない。

 涙が勝手に零れるくらいに想うのは、一人の人間として惹かれたからで……制約の多い人生を歩む彼には、できる限り自由でいてほしい。

 ジャイルズの生き方を、自分の存在で左右したくはないのだ。


 急に硬質な空気に変わったフィオナを訝しむジャイルズに、渾身の猫を被って仕事用の表情を作る。


「私はジル様にたくさん助けていただいて、このお芝居の目的は十分に達成できました」

「それは……私もだ」

「よかった」

「フィオナ?」


 不自然でなく見える笑みを浮かべ、ジャイルズの手から自分の手をそっと引き抜く。

 そのまま立ち上がると、ローテーブルを挟んだ向かいのソファーに移動した。

 ジャイルズの真正面に腰を浅く落ち着け、姿勢を正す。


「御礼申し上げます、


 声も表情もよそゆきに徹したフィオナにジャイルズが息を呑む。

 強張る灰碧の瞳の前で指輪を抜くと、静かに卓上に置いた。


「本日をもちまして、お芝居は終わりです。これまでのご無礼の数々、今更ながらお詫び申し上げます」


 顔と目を伏せれば、ジャイルズが詰めた息を静かに吐くのが分かった。


「……顔を上げてくれ」

「お預かりしておりました指輪をお返しいたします。傷がついていなければいいのですが」


 つ、と押し出した指輪にジャイルズの視線が落ちる。

 キリと奥歯を噛みしめ涙を堪える。まだだ。まだ泣いてはいけない。顔は上げても視線は下げたまま、膝の上で固く握った拳を見つめた。


「道中ご無事で、職務を果たされますよう」

「っ、フィオナ!」


 声は震えなかった。

 焦りを含んだジャイルズの呼びかけに、ノックの音が重なる。


「ローウェル卿。恐れ入ります、従者の方がそろそろお時間だと」

「……モーリス、分かった」

「階下でお待ちしておりますので、どうぞ」


 扉前で静かに告げた家令が立ち去る足音に、ジャイルズは盛大にため息を吐いた。

 自分の手元しか見ていなくても、刺すような視線を向けられているのが分かる。

 身動きひとつしないでいると、ジャイルズはゆっくりとした動きで懐中時計を取り出した。

 しゃら、と鎖の音を立てて、金の時計が指輪と並んでテーブルに置かれる。


「……フィオナ。手紙は必ず書いてくれ」

「承知いたしました」


 命令を拝受したような応えに、ジャイルズがまた言葉を呑む。


 ――酷い態度だと分かっている。

 でもほかに終わらせ方が分からない。


 長い、永い数秒の後。

 諦めたように指輪を握り込むと、ジャイルズはテーブルに時計を残したまま立ち上がった。扉へと向かう彼の後にフィオナも従う。


「申し訳ありませんが、この場にて失礼致します」


 部屋から半歩出たジャイルズにカーテシーを取ると、その足が止まる。

 不思議に思う間もなく、体ごと振り向いたジャイルズは音を立てて扉を閉め、大股で部屋の中へ戻った。


「ローウェル卿……!?」


 テーブルの上の時計を掴むと荒っぽく内ポケットにしまう。自分に向かってくるジャイルズの勢いに押されて壁際に下がれば、追い詰めるように被さる彼に左手を取られた。

 背中には壁が当たり、二人の間に距離はない。怖いほどの強い眼差しに今度はフィオナが息を呑んだ。


「……時計は返さない」


 掠れた声が、すぐ近くで重く響く。

 驚きに固まったフィオナの薬指に、もう一度性急に指輪が嵌められる。押し込まれたイエローダイヤモンドがきらりと目の端に反射した。


「指輪は君のものだ」

「……ローウェ、」

「ジル、だ」


 小さく首を横に振るフィオナの視線が捉えられる。

 指輪の手は絡められ、空いた手がフィオナの肩を掠め首筋をなぞる。そこにあった、今は消えた傷を確かめるように触れた指が頸の裏に回った。

 

 拘束と呼ぶにはあまりにも柔らかい。なのに抜け出せない。

 熱い手のひらに促され、視線だけでなく顎が上がる。ジャイルズの瞳に映る自分は、泣き出す寸前の情けない顔をしていた。


「フィオナ、好きだ」


 触れ合うほどの近さで、真っすぐに見つめられて。

 誤魔化しようのない告白に押されて、声にならない吐息がフィオナの唇から震えて落ちる。


「好きだ。……愛してる」


 迷いなく重ねられる告白が、身体に入り込む。

 

「君と一緒に生きたい」


 疑いようのない眼差しが、声が。

 フィオナの全身をあますところなく覆って喉を揺らす。


「……わ、わた、し……」


 どうして夜だったんだろう。

 晴れた空の下なら、最後まで隠し通せたはずなのに。


「フィオナ」


 ああ、だめだ。こんなに切なく呼ばれたら、もう拒みきれない。

 この胸はこんなにも――


 堪えていた涙がぽろりと溢れる。

 頬に流れる雫を宝物のように拭われて、嵌められた指輪を確かめるようになぞられて。

 フィオナ、ともう一度――心を乞う響きが、あまりに近くて。


「……好き」


 とうとう言葉が落ちたフィオナの唇に、ジャイルズのそれが重なる。

 触れて、離れて。また触れて。

 頸の後ろを支える手のひらが、腰に回された反対の腕が、甘い枷となってフィオナを包む。


 すがりつくものを探した細い手が、藻掻くようにジャケットのラペルを掴んだ。それを合図に、触れ重なるだけだった軽いキスが角度を変えて、深い口付けに変わる。

 絡め合う吐息と熱に、溶かされて消えてしまいそうだった。


「フィオナ……会いに行くから」

「……でも、んっ」


 喉の奥が痺れるくらい口付けられてようやく僅か解かれても、触れ合ったままの唇がまた口を塞ぐ。まるで、反論は聞きたくないとでも言うように。


 今度こそ膝が崩れたフィオナを壁に寄りかからせると、ジャイルズは惜しそうに拘束を解いた。

 最後まで残した彼の手が、頬を撫でて腕に下がる。


「離したくはないが……」


 今は、と焦がれるように呟いて、持ち上げた指輪の上にキスが落とされる。

 戻された手を胸の前で合わせるフィオナをもう一度抱きしめて、ジャイルズは出て行った。


 遠ざかる足音に背中を壁に付けたまま床に座り込み、フィオナは祈るように組んだ両手を額につける。

 ――左手には指輪が、右の手には巻かれた包帯が。


「……っ、ふっ……ぅ」


 耳に声が、唇に熱が、手には握りしめた布の感触がまだ残っている。

 また瞳から零れだした涙を止めることもなく、うずくまる。


 忘れない。

 なにひとつ忘れられない。きっと一生。


「……さ、よなら」


 震える唇が紡いだ言葉は、誰にも届かず夜の空気に消えていった。







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