第79話 クレイバーン領
フィオナがヘイワード侯爵家を辞して一月半。
ジャイルズは今、車上の人となっていた。同行者はリチャード、行き先はクレイバーン領だ。
揺れる馬車内で書類を読むだけでなく、器用に必要事項を書き込んでまでいる。
そんなジャイルズに、リチャードは呆れ半分、感心半分で話しかけた。
「ジルは今日も熱心だな。酔わないか?」
「慣れた」
「え、こういうのって慣れるもの? さっすが」
王都からクレイバーン領までは馬車で二日。
日々、山のように積まれる職務の中で強引に時間を作ったため、こうして仕事をこなしながらの移動だ。
とはいえ、もともと移動中にあれこれを済ませることが多いジャイルズにとって珍しいことではない。
「道の具合が変わったようだし、そろそろ着くんじゃないか」
「……そうだな」
街道を外れてから荒れ気味だった馬車道の振動が、先程から減った。道路が整備されているということは、居住区が近いということだ。
書面から顔を上げたジャイルズは、ポケットから懐中時計を取り出す。馭者が告げた到着予想時刻はまもなくだった。
「いやあ、楽しみだ。ミス・クレイバーンもルドルフも元気かな」
「そうでなかったら困る」
「まあねえ」
わくわくとした表情のリチャードとは対照的に、ジャイルズの表情は晴れない。
――領地に戻ったフィオナとは既に数通、手紙を交わしていた。
その必要はないはずなのに、当初の予定通りに間隔を空けて手紙を送ってくるのが生真面目なフィオナらしく、彼女が書いてよこす領地のあれこれを読むのは楽しかった。
だが、単純にそう思ったのは初めだけ。
二通目を読んだ際に抱いた「何かがおかしい」という小さな違和感は、次第に大きくなっていった。
内容が当たり障りのないことばかりなのは、仕方がないかもしれない。
伝えられたのは想いだけで、何も話せていない。しっかりとした約束も、共に生きたいと伝えた彼女からの返事も、あの時にはなかった。
男爵からの許可をまだ得ていない関係は「恋人のフリ」をしていた時と変わらないままだ。
「来たのが俺たちだと知ったら、男爵も驚くだろうなあ」
「それは間違いない。リックにも手間をかけたな」
今日、こうしてクレイバーン領へ向かっているのは、フィオナが褒賞で望んだ研究者の派遣についての最終調整のためだ。
日程や滞在先の確認など本来は文官の仕事だが、ジャイルズが無理を言って代わったのだ。
「別に? お前がこういったことを頼んでくるのは初めてだし。それに俺も来てみたかったしね」
いたずらっぽい笑みを浮かべるリチャードが、純粋にこの状況を楽しんでいるのは間違いない。
完璧に準備を整えてからクレイバーンの領地を訪れる予定だったが、仕事にかこつけて時期を早めた。
会いたかった。
楽しげな文面なのに、なぜか泣き顔が思い浮かぶ手紙ではなく、会って話したかった。
馬車が速度を落とし始めたのを機に、書類を片付けて小窓から外を眺める。
特になにもない、とフィオナから聞いていた通り、よくある田舎道が続いていた。
だが、小川にかけられた小さな橋を渡り領地に入ると、景色が変わった。
手入れされた農地が広がり、作業をする人のほかに牧草地には牛や羊の姿もあった。複数ある水車は粉を挽いているのだろう。
「へえ、いいところじゃないか」
「ああ……そうだな」
中核都市でもあるバンクロフトの領地と比べるとはるかに規模は小さいが、健やかな雰囲気だ。
派手さはなくとも、代々の領主が専心して地道に治めてきたとわかる。
領地奥に、ヘイズ家との境となる大きな川がある。
そこから分かれた小川や用水路があちこちに通り、湧き水と共に村人たちの暮らしを支えていることが窺えた。
(フィオナがこだわったのは、これか)
小さな領地では自然と人との距離が近い。護岸工事とともに周辺環境を重要視したのは、こうした領民たちの暮らしを守りたいからだ。
領主の娘とはいえ、そういう考えを持っていることに改めて感心する。
若い女性の関心事といえば、ドレスと流行、そして結婚相手についてばかりだという一般認識は、やはりフィオナには当てはまらない。
「じゃあ、まずは宿屋でデニスと合流だな」
「ああ、向かってくれ」
保護観察中のルドルフから週に一度、報告文を受け取る役目になったデニスだが、一度は暮らしぶりを確認する必要がある。そのため、一足先にクレイバーンへ来ていた。
馬車を降りると、デニスはルドルフと共に宿屋の前で待っていた。二人を見て、うっかり軍隊式の挨拶をしそうになったデニスが慌てて姿勢を変える。
「道中、お疲れ様でした」
「うん、デニスもご苦労。ルドルフ、元気そうだなぁ。新しい師匠はどうだい?」
「どうもこうも! なんで工房の親方ってのは、あっちもこっちも人使いが荒いんだよ!?」
「えーい、ルド」
文句を言うルドルフの頭をくしゃくしゃとかき回すデニスだが、なにか気になることがあるようでリチャードに労われても表情が優れない。
どこか心配そうにジャイルズを窺う後輩の視線が気になった。
「デニス。フィオナには会ったか?」
「あっ、あの、それが」
「お嬢サマならいないよ」
言い淀むデニスに代わって答えたのはルドルフだった。
「……いない?」
「えっ、ミス・クレイバーンはどこかに行ってるの? 親戚のところ?」
いつ戻るのか、とリチャードに訊かれたデニスはますます顔を曇らせ、やはりルドルフが口を開く。
「違うよ。最初っから領地に来ていないんだ。多分これからもずっといない」
「……どういうことだ……?」
ジャイルズの心臓がどくりと嫌な音を立てる。
声が低くなったジャイルズに、デニスは今度こそビシリと敬礼の姿勢を取った。
「お、王都から領地には戻らず、そのまま叔父上と国を出たと……ご報告が遅くなり申し訳ありません! その、自分も昨晩ここに着いてから知って……!」
驚くリチャードも、デニスの焦った表情も目に入らず、真っすぐ自分を見上げるルドルフに視線を合わせた。
「ルドルフ。男爵の屋敷は」
「案内するよ。オレ、もう何度も行ってるんだ」
駆け出す勢いのルドルフの後について、宿には入らずにクレイバーンの屋敷に急いだ。
――侯爵家で別れた夜。
本当はあのまま攫ってしまいたかった。
ジャイルズにはそれが許されるだけの身分も、クレイバーン男爵やレジナルドを黙らせるだけの力もある。
だが、それでは駄目なのだ。
ジャイルズが今使えるその力でフィオナを手に入れても、意味がない。
フィオナが持っている翼は、羽ばたいてこそ輝くもの。
そういう人だと知って、だからこそ眩しさに惹かれたのに、ジャイルズ自身がフィオナを地面に縛り付ける枷になってはならない。
レジナルドに問われるまでもなく、ジャイルズは伯爵家を捨てることは出来ない――というか、考えていない。
爵位も過去も全て抱えての自分だ。
『どうするつもりだ』と父伯爵に問われたのは、行動ではなく覚悟だった。
泥臭く任務をこなしていくことで、自身の影響力を高めればそれだけ自由がきくようになる。
誰にも文句は言わせない。叔父の補佐も、画廊の仕事も、他国へ行くことも。
フィオナの目に映る世界が見たかった。
共に歩きたいと願ったのだ。
手放すつもりなど欠片もない。だが、縛り付けるつもりも毛頭ない。
そのフィオナがいない。
足下が脆く崩れていく心地がした。
王都のタウンハウスよりはずっと広い男爵家は、宿屋からそう離れていなかった。
デニスとルドルフとはまた後で会うことを約束して、屋敷に訪いを入れる。
文官ではなくジャイルズとリチャードが現れたことにハンスは驚き、クレイバーン男爵は予想通り落ち着きを失いつつも二人を迎え入れた。
応接室に入ると、少し遅れてセシリアも同席してきた。
病がちだった妹は、いつかとは違って細い背をピンと伸ばしてジャイルズと目を合わせると、深々と頭を下げる。
「姉から預かった手紙を、わたしが投函していました」
そう言ってセシリアがテーブルに置いた手紙の束に、ジャイルズは目を見張った。
封筒にはそれぞれ、投函すべき日付を書いたメモがついている。最後の一枚はあっさりとした新年のカードだ。
(……フィオナ、君は)
「この手紙を全部出し終わるまでに、もしローウェル卿がいらっしゃったなら絵をお見せするように、と姉から言われています」
「……絵?」
「ベニヒワの絵です。ご覧になりますか?」
「見てこいよ、ジル。調査のことはその間に男爵に話しておくから」
「そ、そうですな。セシリア、ハンス。案内を」
頷いた二人に案内されて、ジャイルズは応接室を後にした。
「こちらが姉の部屋です」
「なにかありましたらお声がけください」
二階に上がり一室の前まで来ると、ジャイルズを置いてセシリアたちは階下へ戻って行こうとする。
「待ってくれ。フィオナは他になにか言っていなかったか」
引き止められると思っていなかったのだろう。
驚いた顔で振り返ったセシリアが、少し考えて首を横に振る。
「いいえ、なにも」
「君が預かったものは、あの手紙だけ?」
「はい」
「……分かった。ありがとう」
今度こそ二人の姿が見えなくなると、少しためらった後にジャイルズは真鍮のドアノブに手をかけた。
――壁紙はアイボリーとペールブルー。薄く開けられた窓からは風が入り、淡い色のカーテンを揺らしていた。
チェストやドレッサーには布が掛けられている。清掃は行き届いているもののベッドリネンもなく、部屋はしばらく誰も使っていなさそうだ。
しんと冷えた心の底に、包帯を巻いたあの晩のフィオナの声が響く。
『ジル様は本当になんでもできるのですね』
嘘だ。
なんでもできるのなら、フィオナを自分の元に止めることができたはずだ。
恵まれていると羨まれても、本当に欲しいものはいつも手に入らない。
父の承認、飼っていた犬、そして――たった一人、愛した人。
残したいと思うほど、指の隙間からこぼれ落ちていく。
(いや……最初から掬えてさえいないのか)
いつからなにも望まなくなったのか。
その不自然さを思い出させたのはフィオナだった。目を逸らし続けてきた虚無感に、一度でも気付けば隠しようがなかった。
ジャケットの上から時計を握りしめる。室内に足を進めると、両手で簡単に持てる大きさの絵が寝台の近くの壁に飾ってあった。
引き寄せられるように近づいて眺める。
陽射しが当たる冬枯れた枝に小鳥がとまり、遠くには少女の後ろ姿が小さく描かれている――今にもさえずる声が聞こえてきそうな、美しく、温かな一枚だ。
レジナルドが「レイモンド」として活躍するようになる以前に描いたからだろうか。筆遣いも色合いも素朴で、ジャイルズが知っている彼の絵とは違う。
現在のレイモンドの作風を模した、ゴードンが用意したベニヒワとは全くの別物だ。
(これは、フィオナが怒るわけだ)
伯爵家でゴードンを一蹴したのも当然だ。たしかにルドルフの贋作もよく描けていたが、比べること自体が間違っている。
あの場面を思い出したジャイルズの頬が、少しだけ緩む。
(……駄目だな)
くしゃりと前髪を掻き上げて、片目を手で隠す。
身分も年齢も上の者に囲まれてなお、堂々と啖呵を切ったフィオナが鮮やかに蘇る。
あんなにも鮮烈な印象を残した彼女を、忘れることなど不可能だ。
見送りも断られて、これが本当に最後になると思ったとき。身体が先に拒絶して足が止まった。
伏せた表情は分からない。だが、いつもは完璧なカーテシーを取る指先に見えた微かな震えが、ジャイルズの背中を押した。
想いはたしかに通じ合ったはずだった。
「フィオナ。どこにいる……?」
深く息を吐くと、ジャイルズはもう一度ベニヒワの絵を見つめた。
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