第80話 交差する想い
フィオナの所在は把握しているものの、明かすことはできない。クレイバーン男爵は、応接室へ戻ってきたジャイルズにそう告げた。
「申し訳ありません。どうか、娘の気持ちを汲んでくださいませんか」
ジャイルズには離宮でフィオナを守れなかった負い目がある。
行き先を知らせないことが彼女の希望だと重ねて頭を下げられれば、引き下がるほかなかった。
「……分かりました。では、男爵」
苦いものを呑み込んだ顔で頷いたジャイルズは、男爵に呼びかけながらリチャードに視線を送る。
込み入った話になる雰囲気を察して、リチャードは男爵とジャイルズの二人を残し応接室を出た。
「お姉さんがどこに行ったかは、どうしても教えてもらえないかな?」
「約束しましたので」
セシリアとハンスも同じく居間に場所を移した。リチャードは軽い雑談の体で探りを入れるが、返事はとりつく島もない。
人見知り気味だと聞いていたセシリアの言葉におびえたところはなく、はっきりと拒否されてしまう。
しかもフィオナよりも明るい琥珀色の瞳には、険しさまで浮かんでいた。ハンスからも非難の眼差しを受けて、リチャードは気まずそうに肩を竦める。
「ええと、もしかして君、怒ってる?」
見透かされてセシリアはパッと目尻に朱を刷いた。顔を横に向け、少しだけ沈黙した後でぽつりと呟く。
「……お姉様がいなくなるのは来年、わたしが成人してからのはずでした」
「うん。俺もそう聞いていた」
「まだ、一年あったのに」
じわりと涙を浮かべて、セシリアはキッとリチャードを見上げる。
「そっか……ごめんね」
「ラッセル卿が謝ることでは、ないと思います」
「でも俺は、ジルの友達だから」
言葉に滲んだ真摯な懇願を察して、セシリアは気まずそうに目を泳がせた。
「……ローウェル卿のせいではないって、お姉様も言っていました」
「そう」
「でも、約束したので言えません」
顔は似ていない姉妹だが、こうと決めたら譲らないところがよく似ている。
きっと今頃ジャイルズも同じように父男爵から再度、居場所の開示を拒まれているだろう。
さらに身を固くしたセシリアにこれ以上の詮索はしないほうがいいと判断して、リチャードは話題を変える。
「そうだ。ルドルフのこと、これからもよろしく頼むよ」
「は、はい」
「それじゃあ今からは、クレイバーンに研究者を派遣する件についての説明をしたいんだけど、いいかな? ハンスも一緒に聞くといいよ」
「え? あ、あの」
姉の所在を追及されず、身分的な非礼についても非難されなかったことに、セシリアは目を丸くした。
「男爵には先に話したけど、君たちも知っていたほうがいいだろう。……君のお姉さんが領地のために残していってくれたものだ。大事にしないとな」
「ラッセル卿のおっしゃる通りですな、セシリア様」
セシリアはハッとした表情をすると、居住まいを正す。まだ幼さがあるが、その姿はしっかり者の姉を思い起こさせた。
フィオナがいなくなってから急に大人びたセシリアに、ハンスはこっそり涙ぐんでいる。
「……はい。お願いします」
そのまま、居間での時間は穏やかに過ぎていった。
男爵との話し合いが終わったのは、日暮れも近い頃だった。
見送られて屋敷を後にし、ジャイルズとリチャードは宿屋へ向かう。
「残念だったな、ジル」
「ああ」
並んで歩きながら慰めの言葉を口にしたが、来たときと違ってジャイルズにそこまで消沈した様子がない。リチャードは、おやという顔をする。
「もしかして、こっそり教えてもらえた?」
「いや、それはない。だが、無事は確認しているそうだ」
「少しは安心か」
「……そうだな。あと、」
言葉の途中で、誰かが駆ける軽い足音が届く。振り向くと、セシリアが二人を追ってきていた。
「あれ、どうしたの?」
はあはあ、と苦しそうに胸を押さえるセシリアは今にも倒れそうで、リチャードが慌てて手を差し伸べる。後ろからは、ハンスが急ぎ足で向かってきていた。
なかなか整わない息の間から、セシリアは必死にジャイルズになにかを伝えようとする。
「……あ、のっ」
「大丈夫か? 無理に話さないほうがいい」
「姉さ、……の、友……に、」
「セシリア様」
届くかどうかという、か細い声でようやく話し始めたところに、ハンスが追いついてセシリアを支える。
「急に走ってはお身体が」
「だ、いじょ、ぶ」
「……戻りますよ。お父様も心配されております」
青い顔でちっとも大丈夫ではなさそうなセシリアの身体を自分に預けさせると、ハンスはジャイルズたちに向かって軽く礼をした。
最後に願うような視線をジャイルズに残して、セシリアも二人に背を向ける。
「セシリア嬢。感謝する」
ジャイルズの声に少しだけ足を止めて、セシリアは屋敷に戻っていった。
その日、先触れとほぼ同時にシモンズ子爵邸を訪れた客人二人に、使用人のみならず子爵夫妻も目を丸くした。
用があると名指しされた令嬢だけが冷静で、テキパキと指示を飛ばして迎えを整え野次馬を追い出すと、二人の前に腰を落ち着ける。
「突然の訪問、失礼する。ミス・オルガ・シモンズ」
「いいえ、ローウェル卿。ようこそいらっしゃいました、ラッセル卿も」
ブルネットの令嬢は、細いつるの眼鏡の向こうから試すような視線を二人に向けた。
「本日いらっしゃったご用件は、フィオナのことですね」
「話が早くて助かるよ。ミス・クレイバーンがどこにいるか教えてもらえないかな?」
――お姉様の友人に――
苦しげな息の下でどうにか伝えてくれた一言からオルガに繋がるまで、時間はかからなかった。
恋人のフリをしている間。二人の関係が演技だとばれた場合を懸念したフィオナは、友人の話を滅多にしなかったし、積極的に引き合わせることもしなかった。
あれほど会話を重ねた中で、二度以上名前が出たのは二人だけ。
そのうち、長い付き合いの親友と呼べるのはオルガだった。
「すごくない? 雑談の端っこまでよく覚えているよね。なんなの、彼女に関するコイツの記憶力」
「……リックのほうこそ」
フィオナとの会話の記憶を浚うのにさほどの時間を要しなかったと揶揄うが、ファーストネームだけでシモンズ子爵家のオルガまで瞬時に辿り着くリチャードも大概だと、ジャイルズは意に介さない。
そんな二人に、オルガは浮かない表情を隠さなかった。
「フィオナの居場所を知って、どうするつもりですか。無理に連れ戻します?」
「彼女が望まないことはしない」
そう答えて、ジャイルズは膝の上の拳を握り込んだ。
できるならとっくにしている。
立場を利用すれば、出国記録から追跡し、帰国命令も出せるだろう。強引にそうしないのは、フィオナの意思を尊重したいがためだ。
フィオナは指輪を置いていかなかった。
そこに僅かな希望を繋いだ。
ジャイルズの答えは意外だったようで、オルガは困ったように眉を下げる。
「ローウェル卿は、本当に……フィオナが好きなのですね」
「ああ」
迷いのない返事にオルガが目を見張る。
そのまま何度か瞬きを繰り返した瞳からは、猜疑の色が薄れていた。
「正直、フィオナを探して私にたどり着くにしても、もっと時間がかかると思っていました」
「そうですか」
「万が一自分の居所を聞かれても、教えないでほしいと頼まれています。セシリアや男爵も同じでしょう」
父娘の、姉妹の約束はどうしても破れない。だからセシリアは苦肉の策でオルガを繋いだのだろう。
「……私、小さい頃から目が悪かったのです。眼鏡がないと外を歩けないくらい」
突然の昔語りに戸惑うジャイルズたちを気にもせず、オルガはくい、と眼鏡フレームを押し上げて話を続ける。
「今みたいに薄いレンズじゃありませんでした。皆が私の眼鏡を揶揄いました。取り上げられて隠されたり、泥池に転ばされたことも」
「それは……」
「すっかり茶会もピクニックも嫌いになっていたのですけど。十歳くらいの時、集まりにフィオナが初めて参加して……仏頂面で顔も上げない私に、あの子は目をキラキラさせて『すごくきれいね』って言ったんです」
ガラスをレンズにするのは、宝石を磨くのと同じ。そんな宝物みたいなレンズ越しに見たら、世界はどんなに美しいのだろう。
オルガの眼鏡を見てそんなことを言った子は初めてだった。
「バカにしてきた男の子も言い負かしました。
かっこよかったんですよ、とオルガは笑う。
「私たち、会ったその日に友達だって分かりました。……フィオナには思うように生きて、幸せになってほしいのです」
だから友人の願いは叶えたいと言うオルガに、ジャイルズは奥歯を噛む。
「……私は、フィオナの家族ではありません。友人です」
「ミス・シモンズ」
「付け加えると、ただの友人ではなくて親友なので、約束を破ってケンカをしても仲直りができるのです」
はっと顔を上げたジャイルズに、オルガはもう一度厳しい目を向けた。
「フィオナをまた泣かせたら許しません」
「約束する」
「言い切りますね……言質はいただきました。では、ラッセル卿。私がフィオナに怒られたら、一緒に謝ってくださいますか?」
フィオナの幸せを願ったがゆえに破った約束なら、きっと怒らないと思うけど、とオルガは内心で付け加える。
「まかせてくれ。女性に謝るのも許してもらうのも大得意だ」
「ぷっ、あははっ、随分な特技ですね。期待しますよ?」
身を乗り出して、自慢なのかどうか分からないことを自信満々に言うリチャードに、オルガは吹き出した。
ひとしきり笑うと、ふう、と息を吐いて明後日のほうを向く。
「……では。今から独り言を言いますので、耳を塞いでください――」
§
夕暮れの賑やかな市場で、呼ばれた気がして雑踏を振り返った。
(……気のせい?)
「フィオナ、どうした?」
「ううん、なんでもない」
両手に買い物袋を抱えた叔父に、大丈夫だと笑みを返す。
家を、国を出てしばらく。南に行くと言ったはずの叔父に同行したフィオナは今、冬を迎えた北の国にいた。
寒風は日に日に強まり、辺りの景色は急速に冷たさを増している。
気分まかせのあてのない旅は驚きの連続で、目を閉じる暇も無くあっという間に毎日が過ぎていく。
移動続きだったが、先週到着したここの風景をレジナルドが気に入り、しばらく腰を落ち着けることになった。
「叔父様、重いでしょう。やっぱり運んでもらったほうが良かったんじゃない?」
「えー、でも帰ったらすぐ使いたいし」
レジナルドが抱える荷物の中身は画材だ。
いつでもどこでもスケッチをするので、画帳や絵の具などいくらあっても足りない。宝物を見つめるように袋の中を覗く叔父に、フィオナの目元が和らぐ。
「じゃあ、私も半分持つわ」
「いいから、いいから。それより最後になんか甘いの買って帰ろう、飴とかさ」
「えっと、うん。飴ね」
言われて、薬湯の後に手に載せられた飴玉が思い浮かぶ。
(……ダメだなあ)
レジナルドが飴と言ったのは、描きながら食べられて、手が汚れないからだ。
なんでも王都での日々に結びつけてしまうのは、フィオナが心を残しているからに他ならない。
(やっぱり、好きなんだな)
改めてそう実感しても――好きだからこそ、今のままの自分でいいとは思えなかった。
二人の間には差がありすぎる。
零れてしまった告白に嘘はないが、伝えた喜びよりも、切なさと罪悪感のほうが大きかった。
仕事も生き方も。どのくらい頑張れば、胸を張って彼に好きだと言える自分になれるだろう。
その時に、ジャイルズがまだフィオナのことを想ってくれている保証はない。むしろ、勝手にいなくなった相手のことなど忘れているかもしれない。
それでもよかった。
告げられて、応えて、抱きしめられて。
満たされて溢れた想いは、ほんのひととき結晶のように結ばれて消えた。
今のフィオナにはそれで十分だと思う。
(……熱かった……)
感触が蘇る唇にそっと指先で触れると、ネックレスに通した指輪が服の下で揺れる。
思い出のほかに、唯一置いて来られなかったものだ。
「フィオナ? 行くよ」
「あ、はい」
ひゅうと吹いた風にふるりと肩を震わせると、熱を持った頬にひやりとしたものが触れた。
見上げると、重たそうな雲から今年初めての雪片が次々に舞い降りてくる。
(雪……)
「うわー、寒いと思ったら! 積もるぞ、これは」
「……根雪になる?」
「かもね」
――この雪は、遠いバンクロフトの領地にも降っているだろうか。
そんなことを思った胸が、苦しいけれど温かい。
肩に積もり始める雪もそのままに、フィオナは叔父と並んで歩き出した。
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