第76話 お芝居の終わり
往診の日。フィオナの診察を終えた医師は、安心させるように笑顔を浮かべた。
「もう大丈夫、薬も終わりにしてよろしいでしょう。ただし、傷がしっかり塞がるまで無理は禁物ですよ」
「はい先生。ありがとうございます」
右手の傷だけはまだ完治とはいかないが、ほかの心配はもうないと告げられてフィオナはほっとした表情を浮かべる。
後ろに控える晴れやかな笑顔のハンスとは反対に、ヘイワード侯爵夫人は不満そうに唇を尖らせた。
「それは良かったわ。でも、もうあと何回か先生に診てもらったほうが安心じゃないかしら?」
「おやおや。レディ・ヘイワードは、よほどこちらのお嬢さんがお気に入りのようですな」
夫人とは同年代でもあり旧知の仲である医師は、愉快そうに笑って流す。
フィオナの滞在を延ばそうとする侯爵夫人の訴えは往診の度で、すっかり恒例だ。というのも、医師のお墨付きが出たら、フィオナはクレイバーンの家に戻ることになっていたからだ。
「回復した患者に必要なのは元通りの生活ですよ、レディ」
「だって、この子がいると賑やかで嬉しいのですもの」
「来シーズンの楽しみができて、ようございましたな」
「んもう、仕方ないわね!」
大げさにため息を吐いて往診の終了を認めた侯爵夫人だが、医師を見送ったハンスが早速フィオナの私物をまとめ始めると、またしょんぼりと肩を落とす。
「ねえ、フィオナさん。やっぱり明日帰ってしまうの? もう少しゆっくりしていいのに」
「侯爵夫人、本当にありがとうございます。でも、父や妹も待っておりますので……」
前の滞在時もこんなやりとりがあった気がする。
今回も予定外の客人となったフィオナに対し親身になってくれ、こうして去るのを惜しんでくれる夫人には感謝しかない。
できることなら希望を叶えたいが、舞踏会でのトラブルがなければ今頃はもう領地に戻っているはずだったのだ。
ハンスをはじめ、フィオナの家族が予定を変更して王都に留まって回復を待ってくれている現状は、侯爵夫人も当然知っている。
「そうよね……困らせるつもりはないのよ。ええ、分かったわ。それじゃあせめて、今日の残りの時間は楽しく過ごしましょうね!」
「はい」
「実はまだフィオナさんに見せていない絵がね、別棟にあるの」
少し寂しげに頷いた侯爵夫人は、さっと笑顔に切り替えるとフィオナの手を取る。
「うふふ、彫刻も見る? 庭だけじゃなく、コンサバトリーにもいくつか置いてあるのだけど。元気になったら連れて行こうと思っていたのよ」
次々に差し出される魅力的な誘いに思わず目を輝かせてしまったフィオナだが、はっと我に返ってハンスを振り返る。
性分をよく知っている爺やは、絵のことを言われて表情を明るくしたフィオナに目を細めた。
「すっかりお元気になられたようですな。お荷物は爺にお任せください、フィオナ様」
「……うん。じいや、お願いね」
「さあさ、行きましょ」
「は、はい……!」
ハンスと数人の使用人に楽しげに見送られて、フィオナは侯爵邸滞在最終日を締めくくる邸内ツアーに出発したのだった。
別棟にあった年代物の絵画を満喫し、コンサバトリーでは彫刻作品だけでなく壁面に使われていたステンドグラスも堪能した。
その間にハンスはあらかたの荷造りを済ませてくれた。嵩張るものは先にクレイバーンの家に運ばれたから、フィオナが部屋に戻った時に残されていたのは、今夜必要な身の回り品と着替えくらいだ。
「わあ、なんだかすっきり……」
傾きかけた日差しが当たるデスクの上には、メモが一枚。
いそいそと荷造りをしただろう爺やの「明朝、お迎えに参ります」という書き置きは心なしか文字が弾んでいて、フィオナは小さく笑みを浮かべた。
ようやくフィオナが家と領地に戻ってくるとあって、安心しているのがありありと分かる。
(心配かけちゃったものね)
もともとここにフィオナの私物は多くないし、見舞いにもらった花はまだそのまま飾ってある。
だが、急によそ行きの顔になった部屋でガランとしたクローゼットを改めて見ると、すう、と風が身体を通り抜けた気がした。
(本当におしまい、なんだな)
フィオナとジャイルズの「恋人のフリ」はシーズンの終わりまで。
舞踏会での予期せぬ出来事のために今日まで延びてしまったが、いよいよ期間満了を迎える。
王都に残る貴族が少なくなったせいか最近ますます忙しそうなジャイルズには昨日の午後から会っていないが、今日の夕食には来る予定だ。
その後、恋人同士の語らいに見せかけて、今後の打ち合わせをする手筈になっている。
熱愛を気取った芝居上、領地に帰っていきなり音信不通になるのも良くないだろう。手紙を行き来させる回数を徐々に減らし自然消滅というのが、きっと疑われにくい。
だがそのあたりについては、ごく最初の頃に大雑把に話したきり触れていない。頻度や文面を確認する必要があると思っているのは、フィオナだけではないはずだ。
(……指輪を返して、時計を戻してもらって……)
――最後にする、と。
きっぱり別れると決めていたのに、今になって胸が苦しい。
病み上がりを考慮したこの装いでは、息が詰まるのをコルセットのせいにはできない。
笑わなきゃ。
そう思うほどに鏡に映る表情は硬く、知らず握り合わせた手にはもうすぐ外す指輪が光っていた。
それなりに覚悟をして臨んだ晩餐だが、家令のモーリスに連れられて向った食事の席にジャイルズの姿はなかった。
「あの子がね、急に来られなくなったのですって」
つまらなそうに眉を寄せる夫人によると、ジャイルズは火急の案件で王宮に呼ばれたまま、身動きがとれない状態になっているらしい。
「今の王都であの国の事情と言葉に一番精通しているのはジャイルズだからな、当然だろう」
「んもう、あなたってば。分かりますけれどね、フィオナさんが家にいる最後の晩なのに間が悪いわ。あの方たちも来週にでもしてくれればいいのに」
詳しい内容は機密のようでフィオナには知らされないが、侯爵も夫人もそれ以上の文句を言わないところをみると、国にとっても重要なことのようだ。
先ほど届いたばかりの急ぎの手紙には、医師から連絡を受けての完治の祝いとともに、不在を詫びるフィオナへの言葉があったという。
(……そっか、いないんだ)
構えていた気が抜けて、妙な心地になる。
会いたかったのか、会いたくなかったのか。自分でもよく分からない気持ちを持て余しながら飲み物が注がれるグラスを眺めていると、侯爵夫人が話しかけてくる。
「フィオナさんも寂しいでしょ」
「あの、いえ。お仕事ですし」
「あらあら。理解も大事ですけれどね、もっとワガママを言っていいと思うわあ」
「オクタヴィア、そういうことをお嬢さんに吹き込むんじゃない」
「まあ、そうかしら。うふふふふ?」
急に話を振られて慌てて答えると、なにやら面白がられてしまったようだ。苦笑する侯爵閣下とこっそりと視線を交わしたりしながら、最後の晩は穏やかに更けていく。
比較的早い時間から食事が始まったため、ゆっくりと過ごして部屋に戻ってもまだ眠るには早い宵のうちだ。
「……どうしよう」
ジャイルズとの最終打ち合わせができなくなってしまった。
明日クレイバーン家に戻ったら、数日のうちに領地に帰ると聞いている。もともとの予定が押しているから、あまり時間に余裕はないのだ。
(もう、会うのは無理よね)
侯爵夫妻によると、ジャイルズはしばらく帰宅できなさそうな口ぶりだった。
少しだけ思案したフィオナは、部屋に備え付けの筆記用具を支度するとライティングデスクに向う。
動きを妨げる包帯をぱらりと外し、薄いガーゼだけを残して右手を解放する。久しぶりに持つペンは重く、傷痕が引きつった。
「痛、たぁ……」
カトラリーと違い、ペンを動かす動作はまだ手の負担が大きい。
普段の字より少しぎこちないが、ジャイルズなら許してくれるだろう。
(もし誰かに見られても、大丈夫なように……)
少しだけ慣れた、あのすごい味の薬湯を飲まなくてよくなったのは幸いだ。
眠気のないクリアな頭で、関係ない人が読んでも平気な当たり障りのない文章に、二人だけが分かる内容を忍ばせていく。
――領地に戻ったら手紙を書きます。お返事は無理をなさらないで――
便せんが半分ほど埋まったところで、文字がぽたりと滲む。
「……インクが」
落ちたのはインクではなかった。
その証拠に、ペン先を拭っても文字の滲みは増えていくばかりだ。
「え……?」
ぽたぽたとフィオナの両の目から落ちる色のない雫に、文字が染まって消えていく。
(私、泣いて……)
書かなくてはならないのに。
一時的に見せかけて、永久に会わないという意味の「さよなら」を。
なのに、止めどなく流れてくる涙がそれ以上の文字を綴らせない。
(やだ、どうして)
家族以外の誰かとこんなに近く、密度の濃い時間を過ごしたのは初めてだ。
それがなくなれば、心に穴が空いた気もするだろう。参考にしようと読んだ小説にも、同じような別れの場面は多くあった。
『でもさ。それだけじゃないって、もう君も分かっているよね』
先日のリチャードの言葉が急に耳元に蘇る。
――王宮の小庭園で、初めて会った。
カフリンクスを返しに行って、なぜか恋人のフリをすることになった。
仮初めの恋人として過ごした日々が頭を過る。
訪れた場所、交わした会話。夜会でのワルツ。一緒に見た絵、伯爵家のコレクションルーム……舞踏会。
歌劇場で見せたジャイルズの笑顔が、湖に落ちるフィオナに手を伸ばしたときの必死な顔と重なる。
恋人のフリをしながらずっと、自分の心も見ないふりをしてきた。そうでなくてはいけなかったから。
けれど、灰碧の瞳はいつもまっすぐにフィオナを見つめていて――頬に、額に……唇に落ちた口付けの記憶が、今さら何かを伝えてくる。
馬車で、ガゼボで。二人だけの時に見せてくれた表情は、たしかにフィオナだけに向けられたものだったと、溢れる涙が心より先に教えていた。
(私、本当は)
往来で、玄関で、そしてこの部屋で。
触れられて驚いたけれど嫌だったことは一度もなかった。その理由は、認めてしまえばあまりにも単純だ。
『絶対に、好きになったりしないって誓います』
そう言ったのは紛れもなく自分なのに。
「……嘘は、吐かない約束だったのにな」
零れた言葉を戻すように唇に触れた指が、くしゃりと便せんを丸めた。
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