第75話 想いの行方
リチャードの言葉にフィオナは首を横に振る。
「母や妹が病気がちでしたから、私は看病の経験があるほうだと思います。でも今思うと、いつも自分のためにしていました」
「うん?」
「病状が急変したらすぐに分かるようにとか、目が覚めたときに傍にいてあげたいと思っていたのは本当です。でもそれ以上に、自分自身が安心したかったのです」
治らぬ病に苦しんでいるのは母で、高熱にうなされているのは妹で、その二人を助ける手立てをフィオナは持たない。
役に立たないと分かっているのに、それでも枕元にしがみついたのは自分が不安だったからだ。
「目を離したら、いなくなってしまいそうで……後から『どうして寝なかったの』って何度怒られても、やめられませんでした」
手の中のカップに視線を落としながら、フィオナは繰り返した夜のことを思い出す。
月も雲に隠れた暗い部屋、苦しげな息づかい。額に浮かぶ汗を拭い、手を握って励ますことしかできない自分。
泣きたくなるような不安はむしろ、必死に生を繋いでいる母や妹こそ切実だっただろうに。
「たぶんジル様も、私を心配してという以上に、ただ何かをしていたかったのだと思います」
「そうかあ……でもさ。それだけじゃないって、もう君も分かっているよね」
頷いて聞いていたリチャードの声が不意に真剣味を帯びる。
病床の記憶から意識を戻して顔を上げたフィオナの目に、笑みを消したリチャードが映った。
「君たちの関係は俺が言い出したことだけど、ジルは本気で」
「ラッセル卿、いけません」
緩んだ手から落ちたカップがソーサーにぶつかって立った音が、リチャードの言葉を遮る。
「……失礼しました。私とローウェル卿は理由があってこうしていて、それはシーズンの終わりまでという約束です」
実際、回復してからもジャイルズがフィオナのもとに頻繁に顔を出すのは罪悪感だけからではないと分かっているし、嬉しいと思ってしまう自分がいる。
(……でも。それを言葉にしては、だめ)
本来、出会うはずがない二人だ。
キャロラインの行動は間違っていたが、言っていることは正しい。バンクロフト伯爵家の嫡男の隣に立つ相手として、フィオナでは分不相応だということは誰の目にも明らかなのだから――たとえ、心がどうあろうとも。
なにか言いたげなリチャードにもう一度首を振って、フィオナは周囲を見渡す。風に揺れる赤い花が咲き誇る庭に目を細めた。
「とても綺麗なお庭ですよね」
「え? うん、そうだね」
頭の芯が急速に鈍っていく。少し長い瞬きをして、ゆっくり息をした。
「この庭のこともこのシーズンのことも、領地に戻ったら私はきっと、夢だったと思うはずです」
「……君はそれでいいの?」
笑って「はい」と言えただろうか。
すぅっと気が遠くなるような感覚を最後に、フィオナは目を閉じた。
「……驚いた。例の薬か」
突然、気を失うように眠ったフィオナを咄嗟に支えたリチャードは、カップの底に少しだけ残っていた薬湯を見て一人納得した。
フィオナの様子を思い出せば、紅茶にしては飲みにくそうにしていたかもしれない。
子どもにも使えるくらい弱い誘眠剤なのに効きすぎるようだ、とジャイルズが言っていたが、その通りだ。
クッションに凭れさせた、眠るフィオナの睫毛に水滴が滲んでいる。
それが彼女の本音だろう。
「まあ……板挟みは当然だろうな」
家格の差、次期伯爵となるジャイルズの義務、そしてフィオナ自身の夢。自領の抱える問題もある。
頑なに壁を作るのは、現実を理解している証拠だ。
恋心の衝動のままに行動する者は、どこかで躓いたが最後、簡単に全てを投げ出すことをリチャードは知っている。
だからフィオナの葛藤は、むしろ好ましくはあるのだが。
ガゼボの外に首を回すと、ジャイルズが戻るところだった。リチャードが席を移動していることに気付いて、足早にこちらへ向かってくる。
「ジル、彼女に薬を飲ませたならそう言え。驚いたじゃないか」
「前に話しただろう。今日はもう少し保つと思ったんだが……部屋に戻ってから飲ませればよかった」
「言うことはそれだけか?」
「なにもしていないだろうな」
「しないから! それに寝たの、たった今だぞ。そんな暇ないって」
「それならいい。連れて戻る」
そう言ってジャイルズは、フィオナを危なげなく抱き上げる。
かすかに声が上がったようだが、くたりとジャイルズの胸に頭を預けたフィオナが起きる気配はない。
健やかな寝息を確認して、ジャイルズの表情がようやく緩んだ。
愛おしげに細められた灰碧の瞳には、熾火に似た熱が見え隠れする。初めて見る親友が浮かべた表情にリチャードは目を見張り、得心がゆく。
「……ああ、そうか。
「今はまだ、な」
恋人のフリや看病といった理由があって、初めて二人は触れ合える。
フィオナが薬を拒否しないのはきっと、眠ってしまった自分をジャイルズに任せられると思っているからだ。
そこに信頼以上のものがないわけがない。
「このまま契約満了で手離す?」
「無理だ」
「即答か、いいね。ジルが何かを欲しがるの、子どもの頃以来だ」
「そうか? ……そうかもな」
フィオナを抱いてガゼボから出たジャイルズの後を追って、口角を上げたリチャードも庭へと下りる。
「ところでさ。お前の最近の激務ぶりに、事務官たちが恐れをなしていたぞ。バンクロフト伯爵から何を条件に出されたんだ?」
「直接はなにも」
「まさか。難航中の鉱山所有権の交渉に有利な材料集めとか、亡命申請のあった某氏との取引とか。その辺を上手くまとめたら彼女とのことを認めるとか言われたんだろ?」
「相変わらず耳聡いが、違う。ただ、伯爵家の実権を握るには実績が必要なだけだ」
「は? 本気か」
予想外だったジャイルズの返答に、リチャードがぽかんと口を開ける。
「最終的にはそういうことだ。だからリック。お前もいい加減、正式に叙爵して足場を固めろ」
「えっ、それってこっちにも飛び火する話? 俺まだ遊びたいんだけど」
「モリンズ侯爵は末息子の独立を歓迎するそうだ」
「ちょっと待て。なんで親父とジルとで先に話がついてるんだよ」
急に焦り出したリチャードに、今度はジャイルズが口角を上げる。
明らかに手を抜いて生きているリチャードだが、そろそろ浮ついた社交界の外で「補佐役ではなく」動いていいはずだ。
勝手にジャイルズが先手を打った格好だが、本心ではリチャードもそれを望んでいる。兄たちの手前、末子の自分からは言い出せないだけで。
「訪ねたときに夜遊びしているリックが悪い」
「あの晩か! ええーっ、俺はジルのために骨を折ったのに」
「そうか、助かる」
「軽いなっ? そして足はやっ、少し待てって!」
人一人抱えているとは思えないほど楽々と屋敷へ歩みを進めるジャイルズを、リチャードが小走りで追いかける。
やいやいと言い合っている間も、フィオナはジャイルズの腕の中でぐっすりだ。
「えーちょっと、マイ・レディ。お休みのところ失礼しますが、ジルが横暴です。目を覚まして窘めてください」
「大声を出すな、起きる」
「うわ、ひどっ!? でも……ははっ、やっぱり今のジルのほうがいいな。義務とか爵位とか、そんなこと関係なかった昔に戻ったみたいだ」
眉を下げて笑うリチャードに、ちょうど侯爵邸のエントランスに着いたジャイルズがようやく足を止める。
「リック」
「あ、俺このまま帰るから」
玄関に控える使用人に自分の馭者を呼ぶように伝えると、リチャードはジャイルズに向き直った。
「彼女とのこと、我ながらいい案だったと思うぞ」
「それは同意する」
「この先は……まあ、どうにか頑張れ」
「雑な激励だな」
腕の中で眠るフィオナに視線を落としたジャイルズが苦笑する。下がった細い手をリチャードが持ち上げた。
「指輪は無事だったんだな」
「……ああ」
力なく預けられたフィオナの左手には、湖に落ちても外れなかった指輪が光っている。
フィオナが目を覚まさなかった晩。この指輪だけが二人を繋ぐ糸に思えて、祈るように手を握り続けた。
離したら最後、二度と掴めない気がして――明けない夜に沈みながら、ジャイルズは自分の想いを痛いほど知った。
出会いが偶然だったとしても、今ではとっくに運命だ。
「諦めるつもりはない。できることを全部やるだけだ」
「きっと今までの何より手強いぞ?」
揶揄い混じりの親友の言葉に、ジャイルズがふっと笑う。
「知っている」
「ならいい。それから……余計なお世話をありがとな。親父に会ってくる」
ジャイルズの肩をトンと拳で小突いて、リチャードは寄せられた馬車に乗り込んだ。
友人を乗せてすぐに走り出した馬車を少しだけ見送ると、ジャイルズは踵を返して屋内に戻ったのだった。
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