第32話 深夜の訪問

「……ジャイルズ様?」

「あ、ああ」


 瞬きを繰り返すフィオナの前で、ジャイルズは顔を半分手で覆って馬車の時と同じように横を向いてしまった。


(? どうし……あ、私こんな恰好!)


 湯浴みも済ませ後は休むばかりのフィオナは、ひらりとしたナイトウェアに、同じ布地にレースをあしらった夏用ガウンを羽織っただけ。

 髪を下ろしてコルセットもなく、すっかりくつろいだ恰好だ。


 侯爵家御用達の店謹製の上質かつ上品な寝衣だが、薄いことには変わりない。

 慌ててガウンの前を深く合わせたが、ジャイルズの指の間から見える頬がうっすら赤くなっている気がする。

 それを見たフィオナの顔にも同じように熱が集まった。


「え……っと、あの」


 実際のところ、キャロライン嬢の夜会用ドレスのほうが肩も出ていたし、もっと胸元も開いていた。

 パーティーでのジャイルズは、そういう女性たちにも眉ひとつ動かさない。

 見慣れているのだから、フィオナのこの姿など気にする必要もないはずだが――ドレスと寝衣は違うのだろう。

 フィオナにしても、病床でもないのに人前でこの姿は心もとない。


 なにか言わなくては、と焦っていると、さすがに気まずい様子のジャイルズがたどたどしく弁明を始める。


「わ、悪い。気にしているだろうと……あの、ルドルフという少年のこととか。だが、そうだな、こんな時間だった。来るべきではなかっ、」

「あっ、あの子! どうなりました、大丈夫ですか?」


 つい気が急いて、自分も赤くなりながらも途中で遮ってしまった。

 ロッシュが乱暴なことをするとは思っていないし、子どもの扱いに慣れたハンスも一緒だ。

 それでもやはりその後どうなったか、ルドルフが自棄になって無茶をしていないか、ずっと気にかかっていた。


「いや、改めて、明日に」

「だって、気になって眠れません」


 誰もいない廊下は小声でも響く。屋敷は広いし、この区画は今日はフィオナ一人のはずだが夜更けに立ち話は迷惑だ。

 去ろうとするジャイルズの手を捕まえて部屋へ入るように頼むと、少しためらった後に了承してくれた。


「こんな恰好でごめんなさい。あの、昼に着ていたドレスは手入れ中で、今はほかに着る服がないのです。ええと、なにか羽織るものを……」


(うぅ、お目汚しすみません! でも、あの子がどうなったかは知りたいし……!)


 ジャイルズは別れた昼間の服装とは違って、きっちりと着こんでいる。きっと夜会にも顔を出してきたのだろう。

 そんな装いと並ぶと特に差が際立って、有り体に言って恥ずかしい。

 冬ならばショールなどの用意も手元にされていただろうが、あいにく見当たらない。

 きょろ、と部屋の中を探すフィオナの目に、寝台の毛布が止まった。


(あ、あれでいいわ)


 不恰好だろうが、このままでは非常に話しにくい。

 取りに行こうとすると、微妙に直視を避けたままのジャイルズが上着を脱ぎだした。

 え、と思ったフィオナの肩に、パサリとそれが掛けられる。


「着心地はよくないと思うが」


 馴染みのないかっちりとした硬さに覆われて、頼りない薄布の隙間が埋まる安心感が湧く。しかし。


(……男の人の服って、大きいし重いんだ)


 体に負担が少ないようにと軽く作られた母のドレスや、メゾン・ミシェーレの柔らかなドレスとは明らかに違っている。

 どこかで移ったらしいシガーの香りも、父が喫煙をしないフィオナには物珍しい。


 ――目の前の男性が「身内ではない異性」だということに、改めて気づかされた。

 多少は冷めたはずの顔がまた熱くなったのはきっと、服に残るジャイルズの温もりのせいだろう。


「……ありがとうございます」


 そわそわと硬い襟に触れつつ礼を言えば、ジャイルズは少しだけ肩の力を抜いたようだった。


 部屋に控えめに灯る明かりは、お互いの顔色をなんとなくごまかしてくれる。

 それに少しだけほっとして見上げると、ようやく目が合った。


「あ、言い忘れていました。ジャイルズ様、おかえりなさいませ」

「っ、あ、ああ。……ただいま?」

「なんで疑問形なんですか」

「いや、どう返せばいいか」


 ジャイルズはまた気まずそうにしたが、先程とは違ってどこか楽し気だ。

 二人で顔を見合わせて、ふっと笑い合う。


「……ろくに説明もせず、置いていってすまなかった」

「ジャイルズ様、さっきから謝ってばかりです。私は侯爵家の皆様に、とてもよくしていただいていました」


 たくさん絵も見せてもらって得難い時間だったと請け合えば、あきらかに安堵の色を浮かべる。


「私は……何軒か確認に寄って、その後ギャラリーに。それと夜会を二ヶ所と、クラブに顔を出してきた」

「お忙しかったのですね」

「おかげですっかり時刻のことを失念していた」


 フィオナが同席する夜会やサロンは、ジャイルズが必要と判断したもののみだ。

 彼の社交の集まり全てに同行していたら、ロッシュのところに行く暇も体力も残らないに違いない。

 逆にジャイルズは、さらにプラスして議会の仕事や、フィオナとの噂の証拠作りのための外出などで多忙を極めている。今だって、彼にしては普段よりも早い帰宅時間なのだろう。


「早く伝えようとして来てくださったんですから、私は逆にお礼を言わなくては」

「……そうか」


 疲れているはずなのに、フィオナが気にしているだろうからと寄ってくれたのだ。嬉しくないわけがない。

 だからもう気にしないでほしいと伝えると、ジャイルズの雰囲気もだいぶいつも通りに戻ったようだった。


「あ、お食事は摂られました?」

「暇がなくて」

「……倒れちゃいますよ」


 一緒にソファーへ腰を下ろし用意のあった軽食を勧めると、ちょうどよかったとジャイルズが手を伸ばす。


(……もしかして、こうなるって分かっていて、ここに軽食が用意されていたのかも)


 食べ始めるジャイルズを見ていたら、うふふと楽しそうに笑う侯爵夫人の顔が、ぽこんとフィオナの頭に浮かんだ。


「足ります? ほかにもあるか、キッチンに聞いてきましょうか」

「いや、十分だ」


 空になったグラスに自分で二杯目を注いで、ジャイルズは逡巡しつつ話し始める。


「そうだな、なにから……まずは、あの少年か。最初は抵抗して手こずったらしいが、風呂に入れてたらふく食べさせたら、落ち着いて話ができるようになっていた」

「そうでしたか」


 ほっと安堵の息を吐くフィオナに、ジャイルズもわずかに口角を上げる。


「親がいないのは間違いないが、以前は絵画修復師の元にいたそうだ」


 修復師、と呟いてフィオナは腑に落ちた顔をする。

 そこで弟子見習いをしていたのなら、少年ルドルフが絵を描けると言ったのは嘘ではないだろう。


 ルドルフの親方という人は修復の腕はあるが、工房の経営や人付き合いが得意な人間ではなかった。

 ほかに職人はおらず、ルドルフと二人で細々と生計を立てていたそうだ。


 半年ほど前、不慮の事故でその親方が亡くなった。

 簡単な葬儀の際に現れたゴードンに半ば強制的に王都に連れてこられ、贋作の制作をさせられていたのだという。


 描けと言われたのは有名な画家がほとんどだったから、知らないということはなかった。

 さらに美術館で本物を見せられたりして、画家のタッチや色使い、描く絵の傾向を覚えた。

 どこからか持ってきた本物をそのままそっくりに真似ることもあったが、モチーフの選別や構図などが描かれた下地の多くはゴードンが用意し、それに色を乗せるのが主な役目だったという。


「どの色をどう塗れば同じようになるのか、絵を見れば分かる、と。似せるだけならいくらでもできる、と断言していたな」

「そんなことが……」

「フィオナが指摘した『レイモンドの赤』が違うのは、自分でも分かっていたそうだ。ゴードンが気づかなかったから、あえて言わなかったと」


 意趣返しだな、と零された言葉をフィオナは繰り返す。


「意趣返し?」

「ああ。お世辞にもいい待遇とは言えない扱いをされていたようだから」


 暴力こそ滅多に振るわれないものの、地下室のような場所に詰められて外出はできず、食事も最低限。反抗すればその食事も抜かれる。

 そんな境遇にほとほと嫌気がさしていたのだ、と少年は面白くなさそうに語った。


 絵をすべて描きあげると、ゴードンはほとんど顔を見せなくなった。

 支払われた報酬は約束したごく一部だけ、しかも監禁は解かれないままルドルフは放置された。

 時々差し入れられる僅かな食料で食いつないでいたところ、先週、久しぶりに現れたゴードンに、着の身着のままで追い出されたということだった。


(酷い。人をなんだと……それにせっかくの才能を、そんなふうに使い捨てるなんて)


 聞くに従い、どんどんフィオナの表情が沈んでいく。

 本物ではなかったが、どれも模写以上の水準を持っていた。あれだけ描ける者はそういない。修復師の元で修行はしていただろうが、やはり天性のものだろう。


「一介の令嬢に見破られる程度のものに金は出せない、と言い捨てられたらしい。多くない手持ちの金で数日はやっていたようだが」

「それで私にあんなことを……」


 伏せた目元にジャイルズの指が触れて、わずかに視線を上げる。


「君が気に病む必要はない、悪いのはゴードンだ。恨みを向ける矛先が違う」

「でも、あの子にとっては私もゴードンも一緒です」


 ルドルフから見れば搾取したゴードンも、贋作を見破ったフィオナも等しく憎いだろう。鼻先に現れれば、噛みつきたくなって当然だ。

 そんなふうにルドルフの憎まれ役を引き受けてしまいそうなフィオナに、それは違うとジャイルズはきっぱりと首を振る。


「彼の言うことが本当だとしても、当たる相手を取り違えていい理由にはならないし、ゴードンがやったことの贖罪にはならない」

「ジャイルズ様」

「そもそも君に対してルドルフは加害者だ。それでもなにかしてやりたいと思うなら、憂さ晴らしの対象になるのではなく別の方法を」

「別の……?」


 強制されたにせよ、犯罪に与した身寄りのない子どもが保護更生の機会を与えられることはまずない。

 ジャイルズも分かっていて、その上で「どうしたいのか」とフィオナに問うてくれている。


「自供が事実なら、彼の身は事が片付くまでは保護することになる。その後の処遇には、君の意見も取り入れようと思う」


 はっとして顔を上げると、真摯な眼差しとぶつかった。


 ――絵を見ることしかできない自分にも、なにかできるかもしれない。

 被害者でも加害者でもなく、関係者として。

 そう思うと胸に詰まった重りが少し軽くなった気がしたが、まだうまく言葉にできなくて、フィオナは膝の上できゅっと拳を握りしめた。


「場合によっては警察や施設に引き渡すことになるが」

「ええ、それは承知しています。あの……ありがとうございます」


 素直に礼を言えば、顔色が戻ったフィオナにジャイルズも表情を緩める。


「急がなくていい。第一、まだ本人の言だけで証拠もないし裏も取れていない。ロッシュ氏は明日にでも実際に描かせてみる、と」

「それ、私も見たいです」

「そう言うと思ったが、ギャラリーに行くのは少し待ってくれ」

「どうしてですか?」


 首をかしげるフィオナに、ジャイルズは真剣な顔で向き合う。


「君のおかげで発見できたあの文書と同じものが、ほかの絵からも見つかった。ブルック伯爵家とファウラー子爵家――前に鑑定してもらった二枚からだ」


 ピクリとフィオナの肩が揺れる。


「それって……」

「君には伏せていたが、売ったのはすべてゴードンだ。そして売られた側は全員、議会で私たちと同じ会派に属している」


 それがなにを意味するのか察するのに、時間はかからなかった。







  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る