第31話 予期せぬ外泊
物騒な書き付けが見つかって、すぐ。
そういうことか、と呟いたジャイルズはフィオナの両肩をしっかりと掴んで「ここにいるように」と言い残すと、あっという間に出て行ってしまった。
「んもう、恋人にお別れのキスを忘れるなんて忙しいこと。それじゃあフィオナさん、約束通りお茶にしましょうね。モーリス!」
「はい、奥様。ご用意はすでに」
(え、さっきの怪しい手紙は? いいの?)
手紙はジャイルズが持っていってしまったので、部屋に残っているのは額縁とむき出しのキャンバス画だけだ。
だが侯爵夫人はそれら全ても綺麗に無視して、まるでなにもなかったかのように微笑みフィオナの手を取る。
「さあ、行きましょうねえ」
「は、はい」
はるか格上の侯爵夫人に畏れ多くも手を引かれれば、ついていくしかない。
訪れた時と少しも変わらない夫人の様子に、先ほどの文書は何かの間違いかとも思いたくなるが――もし不謹慎なイタズラや本当に何もないのなら、ジャイルズがあの手紙を持ってどこかに行ってしまった説明がつかない。
「ねえ、フィオナさん。コートニーの大聖堂の近くにあるティールームが人気らしいのだけど、行ったことはある?」
「あの、はい。先日、ジャイルズ様と」
「あらあら、まあまあ! 噂通り仲が良いのねえ。で、お店はどうだったかしら?」
「そうですね、お茶の種類がとても多くて驚きました」
廊下を進みながら、侯爵夫人は朗らかに流行の話題を次々と振ってくる。
やや上の空になりながらも相槌を打ちつつ応接室に戻ると、家令の言葉通りにアフタヌーンティーの支度が出来上がっていた。
銀のティースタンドにはケーキやタルト、スコーン、それにサンドイッチ。美しいアンティークカップのティーセットもワゴンに用意されている。
明るい日差しがふんだんに入る室内は、穏やかな午後そのものだ。
目の前に広がる光景が美しくて、平和で、先ほどと地続きとはとても思えない。
「今日のタルトは桃ね。フィオナさん、桃は好き?」
「はい。好きです」
「うちのコックは果物のお菓子が得意なの。うふふ、期待してね」
ソファーに向かい合って掛けると、淹れたての紅茶を侯爵夫人手ずから渡される。
勧められるままひと口飲めば、香気をまとったちょうどいい熱さのお茶が、まろやかなミルクとともにするんと喉を降りていった。
(……いい香り)
ふっと肩から力が抜けて、こくりともう一口含む。
二口目にしてようやくしっかりと味がわかって、そこで自分がかなり動揺していたことに気がついた。
ほうっと息を吐いたフィオナの前に、サンドイッチより先にタルトが置かれる。
「どうぞ。おいしいわよ」
「ありがとうございます」
フィオナに勧めながら、侯爵夫人もパクパクとタルトとケーキを口にする。
薄く紅を刷いたクリーム色の果肉が艶やかな、小さく可愛らしいタルトを口元に運べば、もぎたての桃の香りがした。
そっと立てた歯の上でサクリと生地が割れ、果汁が口いっぱいに広がる。
(うわ、おいしい……!)
甘すぎない、果物そのものの味だ。もちろんただ乗せているわけではなく、果実をより一層引き立てるようタルト生地もクリームも吟味されている。
家にいることの多いセシリアが菓子作りを好むので、フィオナも一緒にキッチンに立つことがある。
だから、この小さいタルトひとつにどれほどの手間がかかっているのか、少しは分かる。
(きっと、ジャイルズ様のために用意したんだろうな)
甘いものは好まないが、果物は好きなようだった。この短期間で夜会も食事も何度も共にしたから、フィオナにもそう想像がついた。
久しぶりに会う名付け子を思って準備したのだろうに、仮の恋人が一人で食べて申し訳ない気持ちになる。
こくんと飲み込むと、飾らない言葉がこぼれ出た。
「とても、おいしいです」
「でしょう! 気に入ってもらえて嬉しいわ。さ、こちらもどうぞ」
次に渡されたベリーのショートケーキも、柔らかいスポンジにさっぱりしたクリームが合わせてあって、いくつでも食べられそうだ。
勧められるまま素直に菓子を口にしては頬を緩めるフィオナを見て、侯爵夫人は満足そうな表情を浮かべる。
(……気遣ってくださったんだ)
なるべく表情には出さないようにはしていたが、きっと酷い顔をしていたのだろう。
領地でも多少いざこざはあるし、ギャラリーの仕事でもトラブルがないわけではない。
しかし、王太子殿下の廃嫡などという、国を揺るがすような物騒な陰謀などとは比べ物にならないものばかりだ。
こうして何事もなかったように振る舞って、甘いもので気を紛らわせて。
侯爵夫人ともあろう方が、格下の年若い男爵令嬢相手に心を砕いてくれた。
小柄で砂糖菓子みたいにふわふわした侯爵夫人の、器の大きさと芯の強さにフィオナはしみじみ感服する。
(きっと今までも、色々な事態に対応されてきたんだろうな)
もう一口、紅茶をいただいてカップを静かにソーサーに戻した。
「ありがとうございます。お見苦しいところを申し訳ございません。もう、大丈夫です」
「あら。ふふ、なんのことかしら」
にこりとした笑みを崩さずに、侯爵夫人はゆったりとカップを手にする。
「ねえ、フィオナさん。お茶が終わったら、『しばらくここに泊まる』ってお家に手紙を書いてね」
「え?」
(ジャイルズ様は「ここで待て」って言ったけど、泊まる? それも、
ジャイルズは一、二時間もすれば戻ってくると思っていたが、そうではないのか。
そしてフィオナ一人で帰ってはいけないのか。
疑問に目を瞬かせるフィオナに、夫人はさらに問答無用で微笑みかける。
「まだまだ見せたい絵もあるし、ね?」
重ねて、いつのまにか背後に来た家令に「着替えのお召し物やお身回りの品はご用意がありますので、お言葉通りに」と囁かれては、これはすでに決定事項なのだと理解せざるを得ない。
「あの……はい。お世話を、おかけします」
「いっぱいお喋りもしましょうね。あの子ったら、ちっともフィオナさんのこと教えてくれないんですもの。んー、そういえば昔から、大事なものは見せびらかすよりしまっておく子だったかしらね、うふふ」
(す、すごく嬉しそうなんだけど! え、いや、私一人で大丈夫……?)
ご機嫌で目を細める夫人を前に、心の中で一刻も早いジャイルズの帰還を願うフィオナだった。
あてがわれた部屋にフィオナが戻ったのは、すっかり夜になってからだった。
湯あみの支度や髪の手入れをしてくれた年配の侍女も下がって、ようやく一人になる。
午後からの目まぐるしい一日がようやく終わろうとしていた。
「つ、疲れた……っ」
うん、と伸びをすると、ナイトウェアの上に薄物のガウンを羽織ったまま、フィオナは四柱式の寝台に倒れ込むように横になった。
(なんか、濃い日だったなあ)
さらりとしたシーツに転がり、とろける手触りの軽い毛布を手繰り寄せると、その心地よさに目を閉じる。
眼裏に浮かぶのは、見せてもらった美術品の数々だ。
侯爵夫人の言葉通りに手紙を書いて家令に託した後は、様々な絵画や彫刻などをこれでもかと堪能させてもらった。
(美術館でもないのにデズムンドを見られるなんて。目の保養だった……しかも独り占めだし、なんて贅沢!)
ヘイワード侯爵家は、バンクロフト家のように美術品を蒐集してきたわけではない。
だが、さすがに歴史ある家。驚くようなものが何気なく飾ってあったり、家族の肖像画が高名な画家の作だったりと、意外な発見に満ちていた。
代々伝わる宝飾品まで見せてもらった流れでか、夫人が面白がってフィオナにドレスをあて始め、着せ替え人形のようにもなった。
そしてドレスアップさせられたまま、帰宅した侯爵閣下とも晩餐の席を共にした。美味しかったはずだが、緊張して味の半分もわからなかった気がする。
侯爵も夫人も、一介の男爵令嬢を見下すようなそぶりもなく、逆にフィオナが萎縮することがないように何くれとなく話しかけてくれた。
大変歓待されたといって間違いないだろう。
だが、フィオナがここに来た目的であったはずのあの贋作と、そこから見つかった手紙については一言も触れられず、話題は一般的なことに終始したのも事実だ。
(……関わるな、っていうことなんだろうな)
部外者であるフィオナに話すことはないと判断されたのかもしれない。
見なかったことにして忘れろ、ということなのかもしれない。
夜になってもジャイルズは戻らなかったから、まだ進捗がなくて言うべきことがないという可能性もある。
こうして一人になると、どうしてもいろいろな憶測や不安が心を過ぎる。
日中なにかと構われたのは、考える暇も与えないようにしてくれていたのだろう。
そうまでしてもらって、あえて話を蒸し返すことはできなかった。
ころん、と寝返りを打つと寝台の天蓋と幕布が目に入る。
フリンジのついた優雅な布にこうして囲まれると、まるで自分がお姫様にでもなったかのようだ。
今日のフィオナは侯爵家の侍女に容赦なく磨かれて、肌はすべすべで、髪もありえないくらい艶やかになっている。
ますますお姫様気分は高まるが、もちろんフィオナは王女でも侯爵令嬢でもない。
「疲れたけど……まだ眠れなそう」
ふぅと息を吐いてのそりと起き上がり、読書灯を引き寄せ枕を背に本を開く。
読書が趣味という侯爵夫人が貸してくれた小説は『愛は永遠の砂漠に』――オルガがクレイバーン家のパーティーの時に言っていたものだった。
人気作だという異国の王子と踊り子の物語は、遠い熱砂の国が舞台だ。
「……行ってみたいな」
――色モザイクで飾られた建物を見てみたい。
歌のようだと言われる言葉を実際に聞いてみたい。そこにしかいない動物や植物、人々の暮らし、食べ物――そんな、まだ見ぬ景色に心が躍る。
ストーリーよりも先に背景が気になってしまう自分はやはり、そういう人間なのだろうと思う。
とはいえ、異国の情景を思い浮かべながら読み始めれば、物語にも引き込まれる。
めくる手を止められずに読み進めていると、控えめなノックの音が響いた。
(誰? あっ、あれね)
訪問者の予想をつけて、フィオナは寝台から下りる。
この部屋のソファー前のテーブルには、水差しだけでなく果物やビスケットなどの軽食も用意されていた。
扉の下の隙間から廊下に漏れた明かりに気づいた使用人が、空いた皿を下げにか、御用聞きに来てくれたのだろう。
クレイバーン家と違い、侯爵家に仕える彼らは遅くまで働いている。
特にシーズン期間中は主人たちの帰宅が深夜や未明になることも多いため、交代で寝ずの番をしているとも聞いた。
今夜も、年配の侯爵閣下の名代として息子夫婦がどこかの夜会に行っていたはずだ。
呑気な男爵令嬢の身としては、社交に行くほうも帰りを待つほうも大変だな、というのが率直な感想である。
そんなところに飛び入りの宿泊客となっているのが少々後ろめたい。
「はい、どうぞ」
手付かずの軽食を夜勤の人の夜食にでもしてもらえたら、少しは心が軽くなる。
遠慮せずどうぞ、の気持ちを込めてフィオナのほうから扉を開けると、まず目に入ったのはよく手入れされた上質の革靴だ。
(ん? あれ、)
廊下は薄暗いが、靴もその上のトラウザーズも、使用人が着るお仕着せではないくらい一目で分かる。
というかそれ以前に、夜更けのこの時間に女性の客間に来るのは、男性の従僕ではなく女性のメイドであるはずだ。
「っ、すまない。遅かった……な」
ゆるゆると顔を上げるとそこには、珍しく焦った様子で目を泳がせるジャイルズが立っていた。
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