第49話 変化のかけら
その後は飲み物も用意され、和んだ雰囲気の中で近況報告という名の雑談がしばし交わされた。
フィオナが一番心配していたのは妹セシリアの体調だが、心配ないというハンスの言葉にほっと胸を押さえる。
「風邪をひくような季節でもないって分かってはいるのだけど。あの子は自分から体調が悪いとか言わないから……」
「大丈夫ですよ、侍医も『問題ない』との見立てでした」
セシリアは今も定期的に医師の診察を受けている。ちょうどフィオナがいない間に診てもらって、結果も良好だったようだ。
「フィオナ様がお留守にされた最初の頃はお寂しそうにしていらっしゃいましたが、オルガ様もいらしてくださいまして」
「そう、オルガが!」
「はい。ノーマン様は毎日お見えですので、お三人で一緒になることもございました」
領地にほぼ引きこもって暮らしている上に、父も社交に精を出すタイプでもない。
そのため、成人前のセシリアには友人らしい友人がまだいない。身内以外で親交がある同年代はノーマンと、フィオナの友人であるオルガくらいだ。
フィオナの不在を頼んだわけではないのに、普段から足しげくクレイバーン家を訪れるノーマンだけでなく、オルガも妹を気に掛けてくれた。
そうと知って、フィオナは顔をほころばせる。
「オルガ様と楽しそうに話し込んでいらっしゃいましたよ」
「ふふ、あの二人は本が好きだものね」
読書という共通の趣味を持つ同士だ。きっとまた読んだ本や新しい小説のことで盛り上がったのだろう。
実のところ、二人の話題はフィオナとジャイルズの噂話の検証に終始していたのだが、賢明にもハンスはそうと伝えることはしなかった。
代わりに、しげしげとフィオナを眺める。
「しかし、フィオナ様。少しだけ見ない間に、すっかりと淑女らしくなられて……」
「じいや?」
「ようやくご衣装や髪型にも興味をお持ちになられたようで、爺は嬉しゅうございます。さすが侯爵夫人の薫陶は違いますな」
「ちょっと、じいやってば」
フィオナの仕事も行動も認めてくれるハンスではあるが、やはり年相応に華やいだドレスでお洒落をする姿が嬉しいのだろう。
ヘイワード侯爵夫人セレクトである本日の装いは、生まれる前からの付き合いのハンスの目には孫娘の成長の証のように映ったらしい。
奥様にも見せて差し上げたかった、などと目に涙を溜めて感極まれてしまい、フィオナはバツが悪くなった。
(そんなに喜ばれると、コルセットが苦しいって言えなくなったじゃない……!)
侯爵家に滞在した初日から徐々に締め方がキツくなってきたコルセットだが、まだ緩い、とメイドたちは支度のたびに張り切っている。
今朝も「あと二段は締められる」と言うのをどうにか勘弁してもらったのだ。
慣れないフィオナにはもう十分すぎるほど。
外出着でこれなら、今度予定されているという王宮での拝謁のときなどは一体どうなることだろう。
綺麗な服は好きだが、つくづく、令嬢らしい恰好というものは負荷を伴うものだとこっそり息を吐いた。
姉の顔でセシリアの様子をハンスから聞くフィオナの隣で、ジャイルズはティーカップを片手にゆったりと構えている。
狭い事務室の中古のソファーなのに、そうしているとまるで一幅の絵のようだ。ブロマイドにでもしたら、さぞ人気が出ることだろう。
端整な顔に浮かぶ表情は「冷徹貴公子」の名からは考えられないほど穏やかで、会話の途中には軽い笑みが浮かぶことさえある。
つい先月までのジャイルズしか知らない者には、人が変わったように見えるに違いない。
最近は見慣れたとはいえ、一年以上同じ隊にいたデニスもそうだ。
元上司の変わりぶりをちらちらと見てしまっていたのに気付かれて、慌てて現上司のロッシュに話を向ける。
「そ、そういえば! オーナー、フィオナさんに言うことがあるとかなんとかって」
「ああ、そうでした」
「私に? なにかあったの?」
連絡事項はほぼ毎日伝えてもらっているが、今日はここに来ることが決まっていたためデニスの派遣はなかった。
店関係では特に差し迫った案件も聞いていない。内容が予想できずに問いたげな瞳を向けたフィオナに、ロッシュはにこりと微笑む。
「お嬢様。レジーから連絡がありましたよ」
「えっ、本当!?」
わあ、と嬉しそうに瞳を輝かせて、フィオナは思わず立ち上がる。
まあまあ落ち着いて、とロッシュに手のひらを見せられても、それでそれで、と話の続きを促してしまった。
(もうすぐ描き上がると言っていたから、その連絡かも……急いで輸送の手配をすれば、私が王都にいる間に届くはず!)
絵の届け先はこの店なので、領地に帰ってしまったら見られない。
はしゃいでいるのは自分でも分かるが、叔父の絵はいつだって何よりの楽しみなのだ。
そんなわくわくした気分だったが、続いたロッシュの言葉は思いがけないものだった。
「絵を送ったそうです」
「……送った……?」
「はい。早ければもうあと一、二週間でここに届くでしょう」
困惑顔に変わったフィオナに、ロッシュが首を傾げる。
「あれ、お嬢様。いつもレジーが絵を送ってくるのを楽しみにしてらしたのに、今回は喜ばないのですか?」
「ち、違うわ。楽しみよ、早く見たいし……でも、あの、オーナー。連絡があったって、いつの話?」
「そうですねえ、わりと前でしたか」
「そんな。だって輸送の手続きや保険は、まさか叔父様が自分で?」
普段はあからさまに不満を口にしない彼女が、分かりやすくヘソを曲げている。拗ねた物言いが珍しくて、ジャイルズはフィオナを見上げた。
もともと叔父が外国から絵を送ってくる際にトラブルになったことが、フィオナがこの仕事を始めるきっかけになったと聞いていた。
いわば仕事の第一目的なのに、それができなかったのが不満なのだろう。
「いえ。今回は私が手配しました」
「オーナーが?」
「ついでがありましたので、はい」
連絡の不備を詫びるロッシュの口調や表情は、どこか意味ありげだ。
ジャイルズがさっと視線を走らせると、ハンスもかしこまって口元を結び、微妙に顔を逸らしている。
だが、動揺しているフィオナはそれらに気づいていない。
これまで、しっかりしているとか落ち着いているといった印象が強かったフィオナだが、今だけはむしろ年齢よりも幼く見える。
意外に思うと同時に、不意に気障りを感じてカップを置いたジャイルズに、ロッシュが食えない笑顔を向けた。
「空気を読まないレジーにしては珍しく、お嬢様が忙しくなさっているのを察したようでして」
「あ……っ、ええと、その」
フィオナとジャイルズ、それにルドルフも交互に見つつ、楽し気に言うロッシュにフィオナが口籠もる。
父たちが計画したノーマンとの婚約に関して、フィオナは叔父に手紙で相談していた。
差し迫った婚約発表は回避できたものの、味方になってくれると約束してくれた叔父には聞かれるままに、現在の状況もそれとなく伝えてあったのは確かだ。
ようやく部屋を見回したフィオナは、訳知り顔のハンスにも大きくうんうんと頷かれて、両手で顔を覆って天井を仰ぐ。
(叔父様……いつもはそんなこと気にする人じゃないのに!)
むしろ、叔父は周囲がどうあろうと我が道を行くタイプである。こんなふうに人並みに気を遣われるなど、思いもしなかった。
「……やだもう私。なんだかごめんなさい、オーナー」
「なあに、構いませんよ。お嬢様にはほかの事務仕事をお任せしていますし、今はデニスの指導もしてもらっていますからね」
お気になさらず、と言われてフィオナは両手で頬を押さえたまま、すとんと腰を下ろす。
一人取り乱した羞恥に頬の熱が引かない。
そのまま指の隙間から視線を泳がせると、自分を見つめる灰碧の瞳とバッチリ目が合った。
なんとなくジャイルズの目に浮かぶ光が硬いようだが、その意味を察する余裕は今のフィオナにはない。
「し、失礼しました。お騒がせしまして、私、あの」
「いや。フィオナはよほど叔父君の手伝いをしたかったんだな」
「……そう、ですね。……そうだったみたいです」
(――ああ、そうか。私…… 叔父様に、もう私は必要ないって思われた気がしたんだ)
ジャイルズに言われて、フィオナははたと気が付いた。
輸送の手配など誰がしても同じだ。だが、自分が頼まれなかったことで、フィオナはお役御免だと言われた気がしたのだ。
人間関係は相互で成り立つのだから、片方だけが求めたり、必要としたりでは続けられない。
分かってはいても、幼い頃から慕っていた相手に一方的に拒絶されたように感じてショックだったのだろう。
だんだんと心の波がおさまってきたフィオナに、ロッシュがまた声をかける。
「着いたら、すぐにお知らせしますので」
「……うん」
「心配しなくても、最初に包みを解くのはお嬢様の役目ですよ」
「うん、ありがとう」
慰められてコクコクと頷く。返事はまだ片言だが、ようやく落ち着いた。
面倒なことが嫌いな叔父は、回りくどいことを好まない。フィオナの手助けが不要になったらそうと直接本人にはっきり言うはずだ。
そんなことさえ頭から抜けていた自分に、今は反省中である。
「いやあ、輸送手続きですら人任せにしたくないとは。お嬢様に愛されて、レジーは果報者ですね」
「え、オーナー?」
「そういえば、お小さい頃のフィオナ様は『おおきくなったら、おじさまとけっこんする!』とおっしゃって」
「じ、じいや!?」
「それを聞いた旦那様が、自分は父なのに言われたことがない、と落ち込みましてねえ」
「ははは、目に浮かぶようです」
「そんな昔のこと……!」
ロッシュとハンスに昔話で盛り上がられて、またも身の置き所がない。
うろたえてさまよった手を、かしりと掴まれる。驚いて顔を向ければ、まるで彫刻のような笑顔がそこにあった。
「……ジャイルズ、さま?」
「遅くなる前に戻ろうか、フィオナ」
まるで出会った当初のような温度のない表情に、頷く以上の返事はできない。
言うが早いか、ではとジャイルズは席を立つ。当然、手を持たれているフィオナも一緒だ。
慌てて辞去の挨拶をして扉へ向かうと、それまで大人しく甘いパンを食べていたルドルフが口を開いた。
「なーんだ、ヤキモチか」
「ル、ルド、お前っ、こら!」
「顔は良いのに余裕はないん……っ、うむぎゅっ」
デニスが駆け寄ってルドルフの口を押さえるが、しっかり聞こえてしまった。
目を丸くするフィオナが見渡すと、ロッシュは面白そうに肩をすくめ、デニスは焦った顔を取り繕うように笑顔を浮かべている。
ハンスは最初の頃のジャイルズに対するように、ツンとそっぽを向いていて……。
「あの……」
自分をエスコートする手を辿って持ち主を見上げると、顔を逸らされた。が、見間違いでなければ耳の端が赤い。
それに気づいたフィオナの胸が、急に大きく脈を打った。
「……帰るぞ」
「は、はい」
お互いの顔が見られぬまま、帰路についたのだった。
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