第43話 侯爵邸の庭とバラ(上)

 握られた手がやけに冷たい。

 自分の名を呼ぶ声にも、同じようにひやりとした硬さを感じた。

 けれど見上げたジャイルズの顔には、うっすらと緊張の膜が張っているように見える。


(……どうして?)


 緊張など、自分に対して抱く必要のない感情だ。

 意外すぎる表情のおかげで、昨日のあれこれに波立ったフィオナの心も、すっと落ち着いてしまう。

 ジャイルズの口から次の言葉が出てこないまま、たっぷり十秒ほども待ったあと。


(そういえば。デニス、さっきジャイルズ様のこと――)


「デニスとは何を、」

?」


(わ、かぶった!)


 ジャイルズと言葉が重なるのは、これで何度目だろう。

 間の悪さを気まずく思ったが、すぐにおかしくなってしまった。堪えきれずに小さく笑い出したフィオナにつられて、ジャイルズも苦笑を浮かべる。


「ご、ごめんなさい。なんだか重なりますね」

「そうだな。……デニスが言っていたのは、そのことか」

「あ、いえ。聞いたのは、デニスが私の護衛をしてくれていたことです」


 二人が同じ軍に属していたのも本当なのだろう。だが、それは今知ったことだ。

 責めたつもりはなかったが、ジャイルズはフィオナの顔から視線を逸らした。


「……黙っていて悪かった」

「そんな、私のほうが逆にお礼を言わなきゃいけないです。手紙とか、待ち伏せとかされていたなんて全然知らなくて、その……ごめんなさい」


 デニスが護衛役だということは察したが、向けられた悪意には無自覚で無頓着だった。

 そんな自分を恥じて、しゅんと肩を落としたフィオナの手を握る指に力が加わる。


「知らずに済めばいいと思っていたが」

「でも、肝心の私が歩き回って迷惑をかけてしまって」

「気づかせないようにしていたのはこちらだ。それに……」

「ジャイルズ様?」


 言いにくそうに言葉を濁すのは珍しい。

 覗き込むように瞳を合わせると、う、と小さく息を呑んだジャイルズに、また視線を外されてしまった。

 嫌われたわけではないようだが、そうされると、なんだか寂しい。


 ジャイルズがここに来た用事は分からないが、少し大きめの荷物を持っている。

 忙しい人だから、フィオナに渡すだけなら使用人に預けて帰ることもできるはず。そうしていないところを見ると多少の余裕はあるのだろう。


 少し緩んだ手の平のなかで向きを変えて、ジャイルズの手をフィオナのほうからきゅっと握り直した。


「あの、もしお時間が大丈夫ならお庭に出ませんか?」

「庭?」

あずまやガゼボがあると教えていただいたのですが、まだ見ていなくて」


 侯爵家の庭は花で埋められている。

 王都の中にあるとは思えないほどの広い敷地を生垣で区切って、それぞれに趣を変えた小庭園をいくつも作ったのは先代侯爵だという。


 以来、引き継がれている美しい庭は侯爵家の自慢で、フィオナもここにいる間はいつでも好きに楽しんでよいと言われていた。

 だが、初日は屋敷の中で絵を見て終わってしまい、昨日は日が暮れるまで連れ出されていて、まだ庭に降りたことがなかったのだ。


(場所を変えたら少しはいい……よね、きっと)


 気を抜くと歌劇場でのことがむくむくと蘇ってしまう。

 そもそも部屋に二人でいるとあの晩のことも思い出すし、ジャイルズもフィオナに黙っていたことがバレて居心地が悪そうだ。

 部屋に籠ってお互いの顔だけ見て話すより、開放的な外のほうが気が紛れるはず。


「お天気もいいですから、気持ちよさそうです」

「……そうだな」


 ほっとしたようにジャイルズが表情を緩めたのを受けて、フィオナもぱっと明るい顔になる。

 デニスが持ってきてくれた手紙や書類をぱたぱたと片付けると、二人で外に向かった。





 レンガ敷の通路の両側には、パッチワークのように多種の花が植えられている。

 生垣で区切られた範囲ごとに、色合いや花種などのテーマに沿ったガーデン構成になっているようだ。


 花の名前は分からないと言いながらも、手を引いてくれるジャイルズに案内を任せてフィオナは素晴らしい庭を堪能しながら足を進める。


「ガゼボは向こうだ」

「はい」


 幼い頃から侯爵家を訪れているジャイルズだが、子どもの時分には花だらけの庭に興味が持てず、滅多にここで遊ぶことはなかったそうだ。


 投げたボールでうっかり枝を折っても、客人の子を怒れない庭師たちは悲しそうにするだけだから、かえって気まずかったと苦笑する。

 それなりにやんちゃをしたという小さいジャイルズを、フィオナは楽しく想像する。


「でもきっと、私よりずっとお行儀のよい、いい子だったと思います」

「たしかに、川に流されたり木から落ちたりはしなかったな」

「あっ、それを言いますか!?」


 ついこの前告白した過去の事実を持ち出され、フィオナは赤くなった頬でぷいと横を向く。

 楽し気に笑うジャイルズの声が、耳に心地よかった。


「はは、悪い」

「ジャイルズ様、悪いと思っていないでしょう」

「過ぎたことを責めるつもりはないが、例えば、あの窓から直接降りようとはしないでほしいと思っている」

「し、しません!」


 瞳の奥をいたずらっぽく光らせたジャイルズはそう言って、庭から見える侯爵家の二階にあるフィオナの居室を指さして揶揄う。

 ぷんと怒ってみせながらも、フィオナの胸は軽くなっていた。


(よかった。外にでたのは正解みたい)


 風に吹かれて、わだかまりも飛んでいったようだ。

 何気ない会話を続けながら歩くと、やがて六角形の小ぶりな園亭が見えた。

 赤褐色の木組みでこけら葺の屋根が付いており、満開の赤いバラとヘメロカリスに囲まれている。

 しっかりと庭に溶け込んで美しく佇む光景に、フィオナは目を輝かせた。


「わあ……」

「この辺は赤い花ばかりだな」


 ならば、まだ蕾のダリアもきっと赤いのだろう。

 手を引かれるままガゼボに入ると、作り付けのベンチやテーブルの埃も払われており、すぐにそのまま座れる状態だ。


 天井からは色ガラスのランタンが下がり、今朝手入れした時に出ただろう花が陶器の皿に活けられて、テーブルの上に置かれている。

 すすめられて先に腰を下ろせば、周りは赤い花と隙間に覗く葉の緑と空の青ばかり。

 小鳥の声と、庭師の箒やハサミを動かす音が遠くに聞こえるだけの、夢のような空間だった。


「素敵ですね」

「気に入ったようだな」

「クレイバーンの領地は田舎ですから花も緑も珍しくないのですが、こんなふうに手を入れている場所はないです」


 見事な花々を堪能しつつ素直な感想を述べると、ジャイルズもそうだなと同意する。

 庭園を背景に立つジャイルズを見ていたら、ふと、あの夜がフィオナの頭を過ぎった。


「……そういえば、ジャイルズ様と初めて会ったのもお庭でしたね」


 たくさんの明かりが灯る、王宮の小庭園だった。

 ノーマンとの婚約話をどうにか阻止したいと鬱鬱としていたあの日から、どのくらい経っただろう。

 日数はさほどではないはずなのに、濃縮されたように過ぎていく毎日は実際よりずっと長く感じる。


「ああ、祝賀会のときか……随分前のようだな」

「やっぱりジャイルズ様もそう思います?」


 同じように感じていたと知って面白がるフィオナの隣に、ジャイルズが腰を下ろす。

 ガゼボには外壁に沿ってぐるりとベンチがつけられている。

 話をするなら正面でもいいはずなのに、横に並んで座ったジャイルズにフィオナはくすりと笑った。


「隣に座るのも、慣れました」

「そのようだ」


 さんざん慣らされたおかげで、近くにいても緊張することもない。リラックスした表情のままのフィオナに、ジャイルズも満足そうにする。

 そんなジャイルズを見て、ふと疑問が湧いた。


「……私はノーマンとの婚約を一旦止められましたけれど、ジャイルズ様のほうはいかがですか?」






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