第54話 家に戻れば

 やがて涙が止まり心が落ち着くと、フィオナは重大な事実に気がついた。

 ジャイルズに盛大に泣き顔を晒したことも軽く衝撃だが、問題は、彼の胸に頭を預けて背中を抱かれている今のこの状態だ。

 もしかしなくても、これは、大変人目をはばかる体勢ではないだろうか。


 やけに安心できた居所の危うさに気付いてしまえば、このままでいられるわけがない。

 だが、我に返ったフィオナの肩がぴくりと揺れたことに、ジャイルズも気付いたはずなのに。


(え、なんで……っ?)


 距離が空くどころか、ますます囲いが強固になった気がする。

 さらに、上からくすりと笑う声がした。


(〜〜、も、もうっ!)


 ――面白がられている。

 泣いて取り乱したことに対してではない。

 ジャイルズはきっと、頭が冷えたフィオナがこうして焦っているのが楽しいのだ。

 変に深刻ぶられるよりはいいが、一人で憤って一人で泣いてしまった身としてはちょっと悔しい。


 だって仕方ないではないか。

 木に登って助けようとしたのは猫だったが、フィオナは犬だって大好きだ。もともと動物のことではわりと涙腺が弱くなりやすいとも思う。


 それに加えて、きっと他人には口外しないだろうことまで打ち明けてくれた。

 そんな告白に心が動かされないわけがない。


 とはいえ、いくら自分に重ねたとしてもここまで泣いてしまうとは思わなかった。

 これでも成人して、しかも外で働いているのである。

 感情のコントロールはできるはずだったし、もう何年もこんなふうに泣いたことなどなかった。


 先程は目頭が熱くて仕方がなかったが、今度は羞恥で頬が熱い。

 どうにか心に平静を言い聞かせて、顔は上げないままぽそりと呼びかける。


「……ジャイルズ様。そろそろ絵が見たいです」

「そうだな」


 自分の額とジャイルズの胸の間に手を突いて距離を取ろうとすれば、たっぷり数秒もおいてからようやく囲いが解けていった。

 触れていた体が離れ、身体の周りにすっと風が通るようになる。

 清々しい空気を吸い込めば頭も冷えて――代わりにしんと胸に積もったのは寂しさかもしれなかったが、フィオナは気付かないふりをした。


「お、お騒がせいたしました」

「いや」


 泣いた顔を見せたくなくて、睫毛に残った雫を指で払うと、下を向いたままフィオナはソファーから立ち上がる。

 絵に向かって歩き始めたフィオナに追いつくと、ジャイルズは肘を差し出した。


「杖代わりに」


 さっき倒れかけたことを気にしてくれているのだろう。

 だが、フィオナの脳裏にぽんと浮かんだのは別のことだ。


 あの日。

 カフリンクスを返すために、初めて伯爵家を訪れた日。

 フィオナの足の怪我に気づいたジャイルズが、硬い表情で同じセリフで遠慮がちに腕を貸してくれた。


「前も、同じようにしてくださいました」

「……ああ。そうだったな」


 なんだかくすぐったい。

 つい零れたフィオナの指摘でジャイルズも思い出したようだ。懐かしそうに目を細める。


(あの時は、こんな表情はしていなかったけれど)


 差し出された腕を辿って見上げた今のジャイルズは、柔らかく微笑んでいる。

 ルツェファーナの彫刻のように整った顔はそのままに、大理石のような冷たさは見当たらない。


 もう一度視線を下に戻し、貸してくれた腕を取る。

 自分の手にも、あの時はなかった指輪が嵌っていた。


「私、ずっと不思議でした。どうして足を怪我していると分かりました?」


 捻った足の状態はそこまで酷くなく、自分では普通に歩いていたつもりだった。

 しかも後ろにいたのだから、前を歩くジャイルズから包帯などが見えるわけもない。

 その質問に、ジャイルズは思い出すように斜め上を見て少し考える。


「なんとなく、かな」

「なんとなく?」

「小庭園を去る時に足を庇っていただろう。それが気になっていたのだと思う」

「それって祝賀会の晩の……?」


 意外過ぎて、フィオナはまじまじとジャイルズの顔を見てしまう。

 自慢ではないが、容姿も家柄も性格も凡庸な自分の立ち位置は、十把一絡げその他大勢の内の一人だ。

 自分のことを卑下しているわけではない。客観的に見て目立たない人間である、という単なる事実である。

 王宮の華やかな宴の席で、自己紹介もしていない地味令嬢の自分に注意を払い、なおかつ記憶に残している人がいたとは驚きだった。


「ジャイルズ様、記憶力良すぎませんか」

「いや。多分フィオナだったからだ」


 予想外の返事にきょとんとするフィオナに、ジャイルズはなんの迷いもなさそうな目を向ける。


「ほかの令嬢は顔も人数も覚えていない」

「わ、私、そんなに悪目立ちを?」


 ドレスだろうか、髪だろうか。

 確かに流行の形でもないしアクセサリーも最低限だったが、眉をひそめられるほどではなかったはずだ。

 埋没したいわけではないが、周囲から注目されたいという気持ちは今も昔も一切ない。

 フィオナは絵を見るのが好きだが、絵のように皆から見られたいとは思っていないのだ。

 不安になって尋ねると、ジャイルズは安心させるように首を振る。


「そういうことではない。どうしてか覚えていた、それだけだ。それで、どれから見るんだ?」

「えっ、ええと……では向こう端から」


 それ以上の説明はしてくれないようだ。

 なんとなく消化不良の気分を抱えたまま絵の前に立てば、やはりこれはこれ。しっかりと見応えがあった。

 時々挟まれるジャイルズの的を射た解説も興味深く、あっという間に時間は過ぎる。

 感嘆の声しか出ないまま一通り見終わった頃には、高かった日も傾きかけていた。


「はぁ……とても素敵でした。ジャイルズ様、今日は本当にありがとうございます」

「もういいのか?」

「はい。夢でも見られそうなくらい、堪能させていただきました」


 涙の跡もすっかり消えた顔を笑みで満開にして告げれば、ジャイルズも満足そうに頷いて懐中時計を取り出す。

 時間もちょうどよかったのだろう、フィオナは家に帰る流れになった。


「またいつでも見に来ればいい。ダルトンに言っておくから、私がいない時でも自由に」

「いえ、もう十分です」


 軽やかに遠慮すると、ジャイルズは怪訝な顔をする。


「どうして」

「どうしてって……」


(そんなわけにはいかないでしょう!)


 偶然が重なって縁ができて、今はこうして並んでいる。

 だが、フィオナはただの男爵令嬢だ。

 多少絵画には詳しいが、それだってまだまだ勉強中である。

 贋作と文書を見つけたことで過剰に評価されてしまったようだが、本来なら褒賞を授かるような器でもないのだ。

 そんな、言わなくても分かっているはずのことを説明する。


 アカデミーの主席調査官であるリスターだって、この部屋に入ったことはない。

 なのに自分がバンクロフト伯爵家の門外不出のコレクションを見せてもらえたなんて、どう考えても破格の扱いだ。


(何度でも見られたら嬉しいに決まっているけど……望むのは贅沢すぎるもの)


 自分はジャイルズの友人でも家族でもない。

 ただの芝居の相手役だ。わきまえることくらい、言われなくても分かっている。

 だからこそ今日は、一枚一枚を目に焼き付けた。


「でも、そうですね。いつか、目録の作成や額装の相談とかを請け負えたら光栄だと思……」

「フィオナ」


 あえて楽し気に語る未来の可能性を、すっと表情を改めたジャイルズが遮る。

 突然変わった雰囲気にフィオナは戸惑った。


「契約はやめない」


 急な話題転換についていけなくて瞬きを繰り返すフィオナに、ジャイルズは静かな声で淡々と告げる。


「私たちのこの関係は、シーズンが終わるまで継続する。中途解約は無しだ」


 ……もう、恋人のフリをやめたほうがいいのでは、と思ったことに気付かれたのだろうか。

 言動に表した覚えはないけれど、敏く、観察眼の鋭い人だから、フィオナの考えなど容易に見抜いたのかもしれない。

 二の句が継げないフィオナの手を肘にしっかりと収めたままジャイルズは、芝居を続けると繰り返す。


「絶対だ」

「ジャイルズ様……」


 決意表明のようなそれに、小さく息を呑む。

 ぎゅっと胸が締められたように感じたのは、コルセットを思い出したせいだ。射貫くような視線のせいではない、はず。


「……はい。そういうお約束でしたね」


 必死に表情筋を動かして、さも当然のように微笑んでみせれば、やっとジャイルズも詰めていた息を吐いた。


「……行くか」

「ええ」


 鍵を掛ける前に一度だけ部屋を振り返る。

 必要以上に丁寧なエスコートを受けて、フィオナはクレイバーン男爵家への帰路についた。




 §




「お姉様!」

「セシリア、元気だっ――わぁ!」


 今日帰る、と連絡していたからだろう。

 馬車の音を聞きつけて待機していたセシリアに、フィオナは降りる早々抱き着かれた。


「お姉様、お姉様もそのドレスもとっても綺麗ね!」

「あ、ありがとう。あなたも顔色がいいわ。風邪とか引いていないのね?」

「元気よ! 最初の頃は……ちょっと、寂しかったけど」

「セシリア……」


 ぎゅうぎゅうと抱きしめ合って再会を喜ぶ姉妹のもとでは、嬉しそうにしたハンスが旧知の仲になった伯爵家の御者たちと一緒にテキパキと荷物を下ろしていく。

 そこに、長身の男性がぬっと現れた。


「お帰り、フィオナ」

「ノーマン。来てくれていたの」

「毎日よ、お姉様」

「あら、じゃあ寂しくなんてなかったでしょう」

「そ、それは……っ、お姉様とノーマンお兄様は別だからっ」

「はいはい」


 きゃっきゃと上がる弾んだ声に、ハンスがじんわりと目を潤ませている。

 ジャイルズはその光景を微笑ましく眺めていたが、遅れて汗を拭きながら走ってくるクレイバーン男爵に気がつくと、そちらに足を向けた。


「男爵」

「こ、これはローウェル卿っ」


 娘しか目に入っていなかったのだろう。

 ぴしりと固まってカクカクと礼を取った男爵に、かしこまらないでくれとジャイルズが苦笑する。


「ご息女をお戻しするのに時間がかかってしまって申し訳ない」

「い、いえっ! 拝謁など、我が家では準備もままならなかったでしょう。ヘイワード侯にも感謝申し上げます」

「……男爵。少し話がしたいが、よいだろうか」

「えっ? え、ええ! も、もちろんですとも!」


 毎日のようにフィオナから手紙は届くし、先方の使用人が直接来て様子を伝えてくれてはいた。

 だが、わざわざ最初に本人が来て話を通したジャイルズのことだから、今日もきっと挨拶なり報告なりするのだろう――そう予想はしていたが。

 なんとなく、それだけではないかもしれないという胸騒ぎを覚えながらも、男爵が次期伯爵の言葉を断れるわけなどない。

 慌てて了承するフィオナの父に、ジャイルズはまた少し困ったような笑みを浮かべた。


「そ、それでは、応接室で……ああ、フィオナもセシリアも、続きは中に入ってからにしなさい」

「はあい! お姉様、今日の夕食はお姉様の好物ばっかりにしたの! それにね、それにね」

「ちょっとセシリア、落ち着いて」

「もう朝からずっとこんな調子でさ」

「ノーマンお兄様、言わないでってお願いしたのにっ」


 こんなに興奮したらそれこそ熱を出す。妹を宥めながら、それでも自分の帰宅を喜んでくれるのは嬉しくて、フィオナは笑顔で玄関に向かう。

 侯爵家や伯爵家と比べると非常に小さい屋敷だが、その狭さも懐かしい。


(ほっとする……私にはこれくらいがちょうどいい。うん)


 ハンスは早速、荷物を持って二階に上がっているようだ。

 セシリアとノーマンを前に歩かせて、今までいたところとの差を改めて噛みしめながら玄関の扉をくぐると、突然、物陰から伸びてきた腕に捕らえられた。


「きゃっ!?」

「フィオナ!」


 見えない腕に引き寄せられる寸前、すぐ後ろを歩いていたジャイルズがフィオナとの間に割って入り、相手に当て身を食らわせて庇われる。


(わ、び、びっくり……した……)


 心臓がうるさいのは、驚いたからだ。

 ジャイルズに抱きしめられているからではない。


「……誰だ?」

「あっ、あのっ、ローウェル卿」


 ジャイルズの警戒を露わにした低い声にその場の空気が凍る。父がなにか言いかけたが、その冷たい圧に途中で噤んでしまった。

 観葉植物の大きな鉢の陰になって、倒れた不審者の顔は見えない、が。


「痛ったぁー。あはは、手荒い歓迎だなあ」

「……え」


 その、警戒心のない声には聞き覚えがある。

 どでんと尻餅をついたままの男性がゆるゆると身を起こしてくる。

 フィオナを抱き込むジャイルズの腕の隙間から見えたのは、目を丸くするセシリアと驚いた顔のノーマン、それに床に転がる――


「やあ、フィオナ」

「……お、叔父様!?」


 外国にいるはずの、叔父レジナルドの姿だった。







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