第55話 レジナルド・レイモンド・ベイリー
クレイバーン家の狭いエントランスに、気まずい沈黙が落ちる。
「叔父……?」
目を丸くしたまま腕の中にいるフィオナと、床に尻餅をついたままのレジナルドをジャイルズは忙しなく見比べた。
その間も、フィオナは絶賛混乱中である。
(どうして叔父様がここに!?)
半年ほど前に旅立ち、来年まで戻ることはないという話だったのに。
フィオナをまだ庇いながら、ジャイルズは疑いの眼差しをレジナルドに向けている。
話題にはよく上がるこの叔父について、ジャイルズは詳しい容姿を聞いたことはなかった。
だがフィオナの母の弟であるし、何年も前から外国を回っているというから、父たちと同じか少し下くらいの中年男性をイメージしていた。
ところが目の前の彼は、自分とそう変わらない年頃の青年に見える。
そんなジャイルズの背後から、クレイバーン男爵が青い顔でわたわたと謝罪してきた。
「も、ももも申し訳ございません、ローウェル卿! こ、この者は正真正銘、私の義弟のレジナルドでございます!」
「ごめんごめん。ちょっと驚かそうと思っただけなんだけど、効果ありすぎたみたいだね」
恐縮しまくりの男爵とは対照的に、当のレジナルドは悪びれずに一向に立ち上がる気配もない。
――金髪に琥珀色の瞳。色合いは同じでも、フィオナのものより明るい。
繊細に整った面差しや髪色は、向こうに立つ妹のセシリアと似ていた。
「フィオナ、本当に?」
「は、はい」
聞かれて、まだレジナルドから目が離せないままフィオナは声だけで答える。
その返事に庇う腕をようやく緩めたジャイルズは、さっと足を踏み出してレジナルドに手を差し伸べた。
「叔父上殿とは気づかず、失礼を」
「いや、こちらこそ……っと」
ジャイルズの手を取って立ち上がるとそのまま握手を交わしつつ、レジナルドはへらりと笑う。
「驚かせて悪かったね。フィオナたちの叔父のレジナルドだ」
「ジャイルズ・バンクロフトです」
「……ふーん、君がそうかぁ」
「お、叔父様、どうしてっ?」
含みを持たせたレジナルドの相づちにジャイルズが返す前に、遅れてフィオナも駆け寄る。
困惑顔の姪に、レジナルドは邪気のない笑みをぱっと向けた。
「うん。絵と一緒に僕も来ちゃった」
「来ちゃったって、そんな」
「あれ、嬉しくない?」
「……嬉しくないわけないわ! お帰りなさい!」
そう言って、おいでとレジナルドが広げた両手に、ようやく表情が明るくなったフィオナは迷いなく飛び込んだ。
「びっくりしたんだから!」
「あはは、作戦成功! ただいま、フィオナ」
そのまま持ち上げられて、くるんと回される。
まるで恋人同士の再会のようだが、帰国するたび毎度おなじみの光景に周囲は苦笑し、今度はジャイルズがピシリと固まった。
「まだ帰ってくる予定じゃなかったでしょう?」
「フィオナが困ってるって聞いて、戻らないわけがないじゃないか。まあ、すぐには無理だったけど」
遅くなってゴメン、とフィオナを床に下ろしつつ、レジナルドはぱちりとウィンクをする。
その顔を見て、フィオナはハッと感付いた。
「叔父様、さっき作戦って……もしかして、オーナーも知ってるの?」
「切符の手配やなんかはロッシュに頼んだからね」
「……もう、なんてこと!」
先日、話題に上がった「輸送の手配」は絵のことではなかったのだ。
すべてが腑に落ちたフィオナは、大きく納得のため息を吐く。
「ハンスも知ってたよ」
「じいや!?」
二階を見上げてサプライズの仕掛け人に怒ってみせながらも、フィオナの顔には隠しきれない嬉しさが溢れている。
「いつ来られるか分からなかったからね、フィオナには内緒にって頼んだのは僕。ハンスたちを責めちゃだめだよ」
「そんな、驚いただけ」
にこりと子どものように微笑む叔父に、フィオナもまた笑みを返した。
レジナルドは繋いだままの姪の両手を持ち上げ、左手に嵌まる指輪に目を落とし、次いでフィオナの全身に視線を走らせる。
「見違えたねえ。すっかりレディだ」
「そ、そう?」
「まあ何を着ても、僕のフィオナはかわいいけど」
(あ、相変わらず……!)
こちらが恥ずかしくなるくらいの物言いだが、レジナルドはこれが通常である。
独自の価値観のみを基準にする叔父からの賞賛は幼い頃からだ。気恥ずかしいながらも素直に礼を言ったフィオナの頬に、親愛のキスが落ちる。
と、ぐいと腰を掠われ、レジナルドの側からジャイルズへ引き寄せられた。
「……お話中ですが、私もご挨拶を」
「やあ。姪が世話に
「過去形にする必要はありませんが」
「おや、そうかな?」
(え、叔父様? それにジャイルズ様?)
あまりにぞんざいな叔父の口調に、フィオナは内心の驚愕を隠せない。
当のジャイルズが一切気にしていないようなのが救いだが――代わりに、見事な冷徹貴公子の笑みを浮かべている。
フィオナが叔父に宛てた手紙の中で、恋人ができたこと、それによりノーマンとの婚約予定は一時延期になったことは伝えてあった。その後の贋作騒ぎについてもだ。
だが、ジャイルズの名前などは一切書いていない。もちろん、この交際がお芝居ということも秘密のままだ。
フィオナをエスコートしてきた見知らぬ男性ということで、交際相手だと察したのだろう。そこまではいい。
「いろいろ大変だったんだって? 君も疲れただろ、後は引き受けるから休んでいいよ」
「ありがとうございます。ですが、お気遣いは無用です」
(なに、この雰囲気……!)
にこにこと表面上は和やかだが、その下が妙にチクチクする気がする。
二人のこんなところは見たことがない。
フィオナがそっと後ろにいる父に目をやると、男爵は泡でも吹きそうな顔色になっていた。
ジャイルズが自分たちより高位の貴族であるということは、その所作や服装からも一目瞭然である。
いくら自由人な叔父とはいえ、これはない。
額を押さえたくなるが、叔父だけではなくジャイルズの応えも、どことなく別の意味でトゲがある。それもまた意外だ。
「叔父君のお話はフィオナから何度も。まさかこのようにお若い方とは思いませんでしたが」
「うーん、これでも三十に近いんだけどねえ」
レジナルドと姉であるフィオナの母とは多少年齢が離れているが、それを抜きにしても童顔なのは疑いようがない。
ラフな服装も相まって、フィオナやセシリアと一緒にいると兄妹だと思われることも多いのだ。
こうしてジャイルズと並ぶとよくて同年代、もしかすると後輩にしか見えない。
ジャイルズも信じられないという表情を隠さなかった。
「まさか、ご冗談でしょう」
「いや、本当。どうも若く見られるんだよね、昔っから」
よく言われると、レジナルドは肩をすくめる。
(叔父様……?)
レジナルドは他人に……というか、人付き合いに興味がない。特に貴族相手にはそれが顕著だ。
初対面の相手に自分から話しかけないし、ロッシュやフィオナが取り持たないと顧客との会話だって続かないのが常である。
それも人前に姿を現さない理由の一つだが、だからといってこんなふうに突っかかる物言いは聞いたことがない。
普段とは違う態度に、違和感と疑問がフィオナの胸に湧く――が。
不意にレジナルドの手がフィオナの頬に伸びた。
普段は絵筆を持つ指先が器用に目元をなぞり、すっと挑戦的に声を潜める。
「……泣かせたのは、君?」
すっかり涙も乾いたし、崩れるほどの化粧は元からしていない。
腫れが残ったわけでもない目元は、それでも画家の目にいつもと違って見えたのだろうか。
レジナルドからまっすぐ視線を向けられたジャイルズの、フィオナの腰に回した手に力が籠もった気がした。
ジャイルズとレジナルドの間に見えない火花が散ったように感じて、交差する二人の視線を遮ろうとフィオナは慌てて声を上げる。
「ち、違うの。私が勝手に」
「えー、そうかなあ」
レジナルドはフィオナの頭を撫でるばかりで、目も合わせてくれず、話を聞くそぶりもない。
「かわいい姪っ子を泣かすような相手との交際は、叔父としてはちょっとなあ」
「……え」
むぅ、と唇を尖らせてぷいと横を向かれてしまった。
どうやら、妙に鋭い観察眼が別方向に想像を働かせてしまったようだ。急にフィオナの顔に熱が集まる。
「だ、だから叔父様、そうじゃなくて」
「ダメったらダメー!」
「話を聞いてってば」
「聞かない」
「いや、フィオナ」
「あー、すみません。立ち話もなんですし、こちらに移動しませんか?」
子どものように拗ねる叔父、うろたえるフィオナ、気まずげなジャイルズ。収拾がつかなくなりそうな三人に、助け船を出したのはノーマンだった。
セシリアといる向こうには、こちらの応酬の詳細は届いていなかったらしい。普段と変わらないのんびりとした口調に、さらに場の雰囲気がほぐれる。
「居間でお喋りしましょう。叔父様も午後遅くに着いたところで、まだお話も途中だったの」
「あ、そうだったね。うん、そうしよう」
セシリアにも誘われて、レジナルドがくるりとフィオナたちに背を向けた。
明らかにほっとした表情の男爵が、いそいそとジャイルズに声を掛ける。
「ロ、ローウェル卿。お話は別の部屋で」
「……いや。叔父君もいらしているし、後日にしよう。私はこれで失礼する」
「さ、左様でございますか」
父が盛大に安堵している様子がありありと伝わってきて、フィオナはまた心の内で詫びる。
(お父様となにを……? ああ、でも、ジャイルズ様は律儀だものね)
父と話す予定があるとは知らなかったが、今回の総括的な報告をするのだろうと思い直して、見送りのために父たちとは逆方向にジャイルズについて歩き出す。
「そうだ、明日って時間はある? 無理はしなくていいけど」
玄関の扉をくぐろうとしたとき、振り返ったレジナルドに呼び止められた。
叔父の視線はフィオナではなくジャイルズに向いている。
「……空けましょう」
「じゃあ、ロッシュの店でね。お昼頃でいいかな?」
「ええ」
レジナルドはにっと満足そうに笑うと、手をひらひらと振ってそのまま居間へと入ってしまった。
ジャイルズはそんな叔父の無礼にも気を悪くした様子はなく、またも恐縮しきりの父と軽く挨拶を交わし外へ出る。
夕焼けが終わり日が落ちたばかりの空はちょうど、目の前にいる人の瞳のような灰碧色をしていた。
(あ……きれい)
いろいろと濃い一日だった気がする。フィオナはようやく目に入った空にほっと息を吐いた。
乗ってきた馬車はまだ向こう、門の近くだ。だがジャイルズは、エントランスの階段を降りる前に足を止める。
「ここでいい。私が行くまで待つ必要はないから、すぐ中に戻るんだ」
「はい」
自宅の敷地内だというのに心配性である。とはいえ辺りは薄暗くなってきているし、先ほども驚かされたばかりなので、素直に了承した。
一呼吸おいて、フィオナは深く頭を下げる。
「ジャイルズ様。叔父が大変失礼を……申し訳ございません」
「いや。事情が不明瞭な中、心配されたのだろう。叔父上にはどこまで説明を?」
「父やじいやと同じくらいです。ただ、最近のことはまだ手紙が届いていないかもしれませんが……あ、お芝居のことは言ってません。決して」
その返事に頷くと、ジャイルズはなにか考えるように顎に手を当てて、フィオナの顔を眺めた。
(……?)
まじまじと見つめられて居心地が悪い。
なんだろうと思っていると、手が伸びてフィオナの頬を撫でる。というか、こする。
「な、なにかついていましたか?」
「……いや」
ますます分からないまま目を瞬かせていると、今こすったばかりのそこにジャイルズの唇が重ねられる。
「……!」
「また明日。中に入って」
ふっとにこやかに微笑むジャイルズに、くるりと背を返されてトンと押され、扉まで閉められる。
去って行く足音が扉の向こうに聞こえたが、またも不意を打たれたフィオナはそれどころではない。
(や、やっぱり慣れない……!)
とりあえず、急ぎこの顔の熱を冷まさなければ。今度こそ、叔父に何を言われるか分からない。
居間ではなく洗面室に駆け込むフィオナは、ジャイルズが唇を落としたそこが、レジナルドからもキスをされた同じ場所だと気が付くことはなかった。
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