第53話 伯爵家のコレクションルーム
通常、絵画など美術品は家の目立つところに飾るものだ。だが、バンクロフト伯爵家は少し違う。
もちろんホールや廊下、応接室などを名画が彩っているが、表に出ているものは所蔵品のほんの一部でしかない。
なにも出し惜しみをしているわけではない。単純に所持している数が多すぎるというのが非公開の理由で、その全貌を知る者は限られている。
そして今、フィオナはその秘蔵コレクションに囲まれていた。
(あれってロガリオ? こっちはモーリース……なんてこと、まさかイリヤまで!)
右を見ても左を見ても、視界に入るすべてがフィオナに訴えてきて頭がくらくらしそうだ――いや、実際にくらくらする。
「もっと早くに連れてきたかったんだが……フィオナ? 危ない!」
棒立ちになってうっとり見惚れているフィオナにジャイルズが声を掛けると、返事の代わりにふらりと細い身体が揺れた。
ソファーから駆け寄ったジャイルズに背後から支えられてどうにか転倒は免れたが、いまにも気を失いそうな顔色だ。
「フィオナ!」
「……あ……呼吸を、忘れていました……」
抱きとめられた腕の中で、フィオナは思い出したように大きく息をする。
ぼんやりと焦点の合わない目で天井を見上げながらの返事に、ジャイルズは盛大に安堵の息を吐いた。
「わあ、すてき。天井画まで……このまま天国にいけそう……」
「頼むからやめてくれ」
ふらついた足元が定まったのを確認すると、ジャイルズは支えていたフィオナの肩から手を離し、腕を取らせた。
「好きに見たらいいと思ったが、こっちが心配になるな。一旦、座るか」
室内にソファーは一カ所、窓下にあるシェーズロングだけ。
先程ジャイルズが腰を下ろしたばかりのそこに先導されてゆっくり進む間にも、フィオナの目は飾られた絵にくぎ付けだ。
ジャイルズに誘われるまま、ほとんど下を見ることなく座面にすとんと掛ける。
「フィオナ、深呼吸して」
遠くから聞こえる声に疑問も持たずに従って、ふぅーっと長く息を吐く。
と、両の目を手でふさがれた。
「え……?」
「瞬きも忘れていそうだ」
少し体温の低い大きな手のひらに目元を覆われて、なにも見えない――が、目から入る情報を遮断されてようやく、高揚していた気分が少し落ち着いた。
ジャイルズの言う通り瞬きもしていなかったようで、瞑らされた瞳の奥がじんと痛む。
「……忘れていたみたいです」
「そこまで感激してくれるとは予想以上だ」
ため息に乗った苦笑が耳をくすぐって、目元から手が離れる。
そっと瞼を持ち上げたフィオナの視界に飛び込んできたのは、壁一面の絵画ではなく心配そうな表情のジャイルズだ。
焦点が合えば、至近距離で灰碧の瞳に注意深く探られていることが分かって意識が現実に戻る。
(……わっ、か、顔近いっ!? びっくりした!)
近いのは隣に座ったジャイルズに囲い込むようにされて覗き込まれているからで、覗き込まれているのは体調確認のためで、それというのもフィオナが倒れそうになったからだ。
つまり、原因は自分である。
ここまでを一瞬で理解して、もう一度意識的に呼吸をする。
(やだ。私、取り乱し過ぎ……!)
胸を押さえて深呼吸を繰り返し自分に落ち着けと言い聞かせるフィオナに、微かに眉を寄せたジャイルズが気遣わし気に聞いてくる。
「気分が悪い?」
「あ、いいえ、違います。大丈夫です。ちょっと刺激が強かったみたいです、ね」
目を泳がせて口ごもるフィオナに、ジャイルズは訝しそうな顔をする。
「絵は見慣れていると思ったが。ギャラリーも美術館も自分の庭みたいなものだろう?」
「それは、そうですけれど。いきなり、それも傑作ばかりをこんなにたくさん目の前に出されたら驚きます」
さあ見るぞ、と前もって心積もりをして行く美術館とは違う。
ここに連れてこられたのは不意打ちと言っていいくらい唐突で、なんの心の準備もできていないところに名画の洪水だ。
好きだからこそ、フィオナがものすごく混乱したのは仕方ないと思う。
「そういうものか?」
「そういうものです」
「……具合は悪くないんだな」
「はい、もう」
ジャイルズはまだ完全には納得していないようだが、力強く言い切るフィオナになんとなく頷いて、目の前から身体を引いてくれた。
腕の囲いがなくなり、ほう、と小さく息を吐くと、もう一度ぐるりと見回す。
再び絵画をその目に映したフィオナの顔には、やはり喜びが浮かんでしまう。
「夢みたいです……。でも、心の準備がほしかった……」
「そうか、すまない」
「い、いえっ、いいんです! 不満があるのではなくて、私、なんだか突発的なことに弱いみたいで」
まるで連れてきたことを後悔するようにジャイルズが謝るから、フィオナは大慌てで否定する。
最近になって――具体的にはジャイルズと関わるようになって気付いたが、どうも自分はアクシデントが苦手なようだ。
反応する前に、頭も身体も止まってしまうのだ。
(もうちょっと、上手くやれるほうだと思っていたんだけどな……ん? あれ、でも)
だが、改めてよく考えると、フィオナをこうして固まらせるのはジャイルズばかりのような気がする。
だとすれば、これはフィオナではなくてジャイルズに問題があるのではないだろうか。
時折、灰碧の瞳の奥に浮かぶいたずらな光を思い出して、もしやと推測する。
(無意識で驚かせて楽しんでいるってことは……あるかも?)
「それは分かる。よく固まっていたものな」
「え」
「最初の頃、こうすると」
そう言いながら、ジャイルズは指の背をフィオナの頬に当てる。
ふっと微笑む顔がやけに眩しく見えたのは、ここが窓の下でフィオナが見上げているからだろうけれど。
「……ジャイルズ様」
「いや、揶揄ったわけじゃない」
「ぜったい揶揄っていますよねっ?」
(もう! やっぱり!?)
フィオナの訴えはたいして効果がないようで、楽し気な笑い声が返ってくる。案外笑う人だったんだ、というのも、こうして一緒にいるようになって知ったことだ。
屈託のない態度に毒気を抜かれてしまったことがなんとなく悔しくて、そのままジャイルズの顔から壁の絵に目を向ける。
「近くで見るか?」
「また息を忘れるといけないので、ここでいいです」
「そうか」
フィオナの返事にまた小さく笑う。
なにがそんなに面白いのかと不思議だけれど、つられて自分も笑ってしまうから、まあいいかなとも思ってしまう。
背後から入る柔らかな陽光は計算されていて、直接絵画やガラスの陳列台には光が当たらないようになっている。
それに閉め切られていたわりには室内の空気は籠っておらず、埃もない。細心の注意を払って、この部屋が保たれていることが窺えた。
(本当に、大事に守ってこられたのね)
歴史ある家だから、先の戦争に限らず何度も苦境があっただろう。だがそれらを越えて、こうして数々の美術品を良好な状態で保持している。
決して簡単なことではない。
ふと目に止まった絵について、フィオナは口を開いた。
「端から二番目はバルメインですよね。しかも若い頃のでは?」
「ここから見て分かるのか。さすがだな」
「特徴的ですから。よく……無事で」
「ああ。目録から名を消していた時期もあったそうだ」
絵に詳しくはないと言うジャイルズだが、家にあるものについては熟知しているようで滑らかに答えてくれる。
ポアレの受難の原因は戦争だったが、画家の描写スタイルやモチーフが糾弾されることもある。
時代や世相の変化も関係するし、それに信心に関するものは特にデリケートだ。
バルメインは宗教画に生涯を懸けた画家だが、それまでの写実的・禁欲的な画風とは違う、自由な解釈が画壇のみならず当初は民衆からも激しく非難された。
世間に受け入れられ、認められるようになるまで強硬派の一部からは何度も粛清の対象として名指しされ、画家本人は何度も亡命を繰り返した。
絵の所持者にも、当然のように累が及んだ時期もある。
(バンクロフト伯爵家がその対象になったとは聞いたことがないけれど、ずっと昔のことだから。分からないわね)
直接害されなかったとしても、危機感は強く持ったであろう。それでも手放さずにいて、ここにあるという事実に驚嘆の念をもって絵を眺める。
作品そのものに罪はないはずだ。だが、神聖と崇めていたものを踏みにじられたと憤る気持ちも分かる。
フィオナはただ、命を狙われても描き続けた画家と、こうして激動を越えて残ったもの、守った者に対して畏敬の念を抱かずにいられない。
ほかの絵も、ただひたすらに美しいものもあれば、歴史背景がドラマティックなものもある。
本当に素晴らしいコレクションだ。
「……ジャイルズ様は、どの絵がお好きですか?」
「え?」
「お気に入り、ありません?」
風景から人物、静物……モチーフも色もこれだけあれば、好みの作品の一つも見つかりそうだ。
何の気なしの質問に、ジャイルズは意外そうな顔をした。少し悩んで、一枚の絵を指さす。
「そうだな……狩りの絵に猟犬がいるだろう」
「はい。白と茶色の」
「昔、あれに似た犬を飼っていた」
(それって、前にラッセル卿が言っていた……?)
絵を見て淡々と話す横顔に、バーリー家の夜会でリチャードから聞いた話を思い出した。
――婚約はなかったことになって、同じ時期に可愛がってた犬も死んでさ。その頃からあいつ、人と距離を置くようになったんだ――
「子どもの頃は一番あの絵が気に入っていたんだが、犬が死んでからはなんとなく見たくなくて。この部屋からは足が遠のいていた」
「そう……ですか」
ならば今日は、フィオナを連れてくるために無理をしてこの部屋を開いたのだろうか。
本当は来たくなかったのに。
(……私ばっかり、知らないで勝手にはしゃいで……)
わくわくしていた気分が急にしゅんとなった。
顔を曇らせたフィオナが何を思ったのか察したジャイルズが慌てて向き合う。
「フィオナ? 違う、そうじゃない」
「でも」
「たしかにもう何年もここには寄らなかった。でも誤解しないでほしい。無理にこの部屋に来たわけではないし、君には感謝している」
疑わし気に見上げると、ジャイルズは裏のない瞳でフィオナをまっすぐに見つめている。
「久しぶりにこの部屋に来てあの絵を見て……思い出したのは、貰ってきたばかりの子犬の時のこととか、領地で駆け回ったこととか、そういうありきたりのことばかりだった」
「ジャイルズ様」
口許に苦い笑みを浮かべ、それでもどこかすっきりとした表情でジャイルズは言葉を続ける。
「……私のせいであの犬は命を落とした。自分の甘さや手抜かりがひとつの命を消してしまったことは疑いようがない。それでも冷たくなった最期ではなく、もっとたくさん『普通の思い出』があったことを思い出したよ」
眠れない夜、一晩中自分の足元にいてくれたことすら忘れていた自分に驚いた、とぽつりと付け加える。
「あれだけ一緒にいたのにな。ぶつけどころのない悔しさや悲しさだけではなかったというのが……フィオナ?」
「……っ、ふ……っ、ご、ごめんなさい。わたし、そういうの……っ」
ぽろぽろと両の目から涙が落ちるのが止められない。
なにがあったのかは分からない。だが、楽しく過ごした日々を思い出せないくらい、その死に責任を感じたのだろう。
そうと分かるのは、フィオナにも同じことがあったから――母が亡くなったときに。
生来病弱だったフィオナの母が亡くなった直接の原因は、なんてことはない風邪だった。
だが、自分のせいではないか、と思わなかったわけではない。
もともと長くないと言われていた母が遺したかったのはきっと、クレイバーンの家を継ぐ男児だったはずだから。
自分が男として生まれてきていたら、母は療養に専念して、もう少し長く生きられたのではないかと思ったのだ。
だがそうするとセシリアも生まれてこない。幼いフィオナにはなにが正しいのか分からず、ただ苦しかった。
前を向けるようになったのは、叔父や父やハンスが傍にいてくれたから。
たくさん泣いて、たくさん話して。
悲しいだけじゃない思い出を作ってこられたから。
でも、人と距離を取るようになったジャイルズにはそういう相手はいなかったのだと思うと、もうだめだった。
突然泣き出したフィオナに驚いたジャイルズに、どこからか取り出したハンカチで目元を拭われる。聞かれるままたどたどしくそんなことを伝えると、困ったように笑う気配が伝わってきた。
「……幾つのときでしたか?」
「十三、かな」
「すごく仲良かったのでしょう」
「そうだな、誰よりも」
「そんなのだめじゃないですか……!」
十年も。時間薬はたしかに効くが、それだけに頼る以外にもなにかできたはずだ。
まだ子どもで、王都にも来ていなかったフィオナにはジャイルズとの接点などない。だが、当時は涙の一つも出なかったと聞くに至って、余計に自分の無力さがどうしようもなく胸にわだかまる。
「困ったな。泣かせるつもりでは」
「す、すみません」
「ああ、でも君はそうして泣くのか」
涙を拭くのと反対の手が背中に回る。
見上げた視界にジャイルズがくしゃりと笑う顔が映って、ふわりと両腕で抱き込まれた。
「……ジャイルズ様も、泣いていいんですよ」
「代わりに泣いてくれたから、もういい」
「よくないです」
「いいんだ」
明るい窓の外からは鳥の声。伯爵家のコレクションルームで、たくさんの絵画に囲まれて。
フィオナはジャイルズの固い胸に額をつけて、そのまましばらくいたのだった。
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