第52話 侯爵邸に別れを告げて
「ねえ、フィオナさん。やっぱり今日は止めにしないかしら?」
「侯爵夫人」
「せっかくお話相手になってもらったのに……わたくし、寂しいわ」
「そう言ってくださって光栄です」
ヘイワード侯爵家の広いエントランスホール。しょんぼりと肩を落として憂い顔をする侯爵夫人の前で、フィオナは笑顔のまま少し困って首を傾げた。
楽しい時には笑い、喜ぶ時は小さく飛び跳ね、気分がいいと歌いだす。
いつまでも少女のように感情豊かな夫人のくるくると変わる表情は見ていて惹き込まれるが、もちろん、その効果を十分に分かっての演出である。
それを熟知しているジャイルズが、横から助け舟を出した。
「しおらしくしても駄目ですよ、大叔母様。もうフィオナの荷物は馬車に積みました」
「まあ、ジャイルズ。ひどいわ、こんなに楽しい時間を過ごさせておいて取り上げるなんて」
「大叔母様がそう仰るから、一週間も延ばしたじゃないですか」
継承権をめぐる派閥争いは未然に収束し、ゴードンも監視下に置かれた。
調書の協力や褒賞授受も終われば、フィオナが
だが「まだいいでしょう?」と上目遣いにねだられて一日遅れ、二日遅れ――このままシーズンが終わってしまうのではないかとフィオナが焦るに至って、今日こそは、となった次第である。
フィオナとしては心中複雑だ。
何不自由なく過ごさせてもらい、たくさんの絵画にも触れる機会を得た。
連れて行かれた高位貴族の集まりでも、最初は物珍しそうに窺われていたが、次第に打ち解けて多くの人と美術談義に花が咲くようになった。
中には、今度いらっしゃいと領地に招いてくれた夫人もいる。社交辞令だと思ったが自宅の父宛てに手紙が届き、本気だったのかと驚いたのはつい最近の話だ。
ドレスもアクセサリーも「若い頃のだけれど」と言いながら、上質なものを次々と譲られた。
さらに侯爵家のメイドたちによって毎日磨かれれば、いくら地味が身上のフィオナといえども、すっかり立派な上流階級の令嬢の出で立ちに変わる。
そんな外見の印象は変わっても、ひとつも変わらない表情で瞳を合わせ、フィオナは夫人に礼を言う。
「本当に、なんと御礼を申し上げたらいいか」
「お礼なんかいらないから、もっといてくれていいのよ」
「大叔母様」
連絡はまめにとっているが、妹の体調含め、家のことも仕事のことも気になっている。それに、状況が改善されたら辞すということは最初から決まっていたことだ。
窘めるようなジャイルズの声に、侯爵夫人はぷう、と頬を膨らます。
「わたくしのような老人に残された短い時間を、満たされたものにしてはくれないの?」
「まだまだお元気でしょう。都合のいい時だけ年寄りぶらないでください」
「あら失礼ね」
「拝謁もとっくに済みました。クレイバーンのご家族も彼女の帰りを待っています」
「だってぇ」
「……申し訳ございません」
家族を引き合いに出されてフィオナ本人に頭を下げられると、さすがに侯爵夫人の舌も鈍くなる。
だが、ぱっと顔を明るくすると、両の手をパチンと合わせた。
「そうだわ、ご家族みなさんをここに呼べばいいのよ!」
「えっ?」
「お部屋ならいくらでもありますもの。お父様と妹さんだけでなく、お友達や使用人も連れていらっしゃいな。うふふ、いい考えだわ、そうしましょう!」
くるくると踊りだしそうな勢いでフィオナの手をとる夫人に、ジャイルズは額を押さえて深く息を吐いた。
「大叔母様。これまでのご協力には感謝しますが、そういうわけにはいきません」
「んもう、意地悪ね。だって王都でこんなに楽しく過ごせたのは、すごく久しぶりだったのよ」
「侯爵夫人……」
ヘイワード侯爵家は、実際には爵位を譲ったも同然だが、まだ正式には息子に代替わりを済ませていない。
そのためシーズン中は夫人も王都に滞在しているが、社交の第一線からは身を引いている。
近年は屋敷に籠るばかりで、仲の良かった同年代の伯爵夫人が亡くなってからはその傾向に拍車がかかっていた。
可愛がっていた親戚の子らも、成人してからは滅多に付き合ってくれることもない。
今年もただ適当に時間を潰すつもりでいたが、思いもかけぬ贋作詐欺とフィオナの登場である。
おかげで名づけ子たちが足しげく侯爵邸を訪ねてくるし、夫の侯爵とも減っていた会話がこの件をきっかけにまた増えた。
それに預かった娘は、頑なだった名づけ子の心を得ただけではなく、自分の長話にも目を輝かせて耳を傾け、促せば自分の考えもしっかり話すではないか。
王宮の作法とまではいかないが、男爵家令嬢にしておくのが惜しいくらいに行き届いた所作と言葉の選び方にも好感を持った。
ちょっとお節介をしてやると、見違えるほどに姿も洗練されていく。
せっかくだからと久しぶりに外出すれば、高齢の侍女を連れて歩くよりも安心だし、フィオナは城下のこともよく知っていて外の楽しさを思い出した。
もともと快活な夫人である。そんな日々が面白くないわけがない。
結局、またすぐに顔を出しにくること、次の茶会には出席することなどを馬車の前で約束した。
「それとね、王妃様の舞踏会には必ずいらっしゃいな。ミシェーレのドレスを見せてね」
「大叔母様、私が連れて行きますから安心してください」
「ジャイルズ様?」
毎年、シーズンの最後には王妃主催の舞踏会が王宮で開かれる。
豪華なしめくくりの宴だが基本的に高位貴族のための会であり、これまでクレイバーン男爵家に招待状が届いたことはない。
当然、フィオナは一度も参加したことがなかった。
(それって、舞踏会に私も出るっていうこと?)
恋人のフリのお芝居で、夜会に出席することは今後もあるだろうとは思っていた。しかし、王妃主催の舞踏会となると話が違う。
王子殿下の誕生祝は全貴族が出席対象だったが、そうではない。
(たしかに、招待客のパートナーであれば参加できるけど……)
はたして、そこまで自分に務まるのだろうか。
戸惑うフィオナを脇に、ジャイルズと侯爵夫人が約束を交わしている。
「絶対ですよ」
「分かっています。では、これで」
侯爵夫人がフィオナの手をようやく離した隙を狙ったかのように、さっとエスコートされて馬車に乗り込む。
いつまでも手を振る夫人の姿が見えなくなるまで、フィオナも小窓から離れなかった。
侯爵家の門を出たあたりで座席に座り直す。カラカラと軽快に回る車輪の音が、侯爵家が遠くなっていくことをフィオナに実感させる。
(……考えても仕方ない。うん、今は忘れよう!)
離れていくのに合わせて、舞踏会の話も一度、頭の片隅に追いやることにした。
ほっと息を吐き、ほんのりとした寂しさを感じていると、隣に掛けたジャイルズが口を開く。
「大叔母がすまない」
「いえ。侯爵夫人には本当に、とてもよくしていただきました」
毎日の小さなことから先日の拝謁まで。本当になにくれとなく気を配ってくれて、その好意に甘えるばかりだった。
たとえそこに貴族的な理由や裏の意図があろうと、フィオナには恐縮と感謝しかない。
「あの人はすっかり君が気に入ったようだ」
「ジャイルズ様やミランダ様がいらっしゃるのが嬉しかったのだと思いますよ」
「そうかな」
「そうです。ご領地のほうにもお顔を出してくださいね」
「いや、冬は雪が……」
それはちょっと、と渋るジャイルズに聞くと、伯爵家と侯爵家の領地はさほど離れていないが、途中に雪深い地があり冬季の行き来はそれなりに億劫だという。
その話に、フィオナは顔を輝かせた。
「雪が積もるのですね」
「クレイバーンの領地は降らないか?」
「ええ、あまり。山で雪雲が一度切れるのです」
降るには降るが、回数も量も少ない。その代わり、山を白く染めた雪解け水が川に流れ込む。先の大規模な氾濫は短期間の豪雨が原因だったが、春先の小さな河川トラブルは毎年のことだ。
川の蛇行状態のせいだろうか、ノーマンのヘイズ領ではなくフィオナたちのクレイバーン領地側のほうがいつも被害が大きい。
比べるものではないし仕方がないのだが、どうにかできたらいいと思うことのひとつだ。
「水が綺麗で魚もよく獲れる川なのですが、問題も多くて」
「そういうこともあるだろうな」
「でも山の麓のほうには湿地もあるんですよ。その奥にはブルーベルが咲きますし」
「ブルーベルを喜ぶのは分かるが、湿地になにかいいことが?」
領地の話をするフィオナはどこか誇らしそうだ。だが、今の話にジャイルズは首を傾げる。
バンクロフトの領地にも湿地はあるが、あまり気にしたこともなかった。招待客が狩りに出た際に入り込んで難儀したくらいの思い出しかない。
「動物や、植物が多いのです。特に水鳥はいろんな種類が来ますね。スケッチをするのにもいいですよ」
「知らなかったな、フィオナは見るだけでなく絵も描いたのか」
「あ、いえ、私ではなく」
叔父が、と照れたように話すフィオナは普段と変わらないはずなのに、なにかが引っ掛かった。
「叔父上は美術商だと思ったが、絵も描かれるのだな」
「ですので、ルドルフも一度連れて行こうと思っていました」
「……気に入るといいな」
なにに心が騒ぐのか分からないままフィオナを見つめれば、隣の彼女はそんなジャイルズではなく窓の外を見てルドルフの未来に思いを馳せている。
……気のせいかと自分を納得させて、ジャイルズは足を組み替えた。
「領地のことって、あまり話したことがなかったですね」
「そういえばそうか」
「雪はたくさん積もりますか?」
「そうだな、わりと。毎年根雪になるし」
「わあ、じゃあ地面がずっと真っ白ですね!」
わくわくした声で喜ぶフィオナにそんなにいいものではないと説明するが、あまり通じていないようだ。
だが確かにフィオナなら、多少の不便や苦労も楽しみに変えそうではある。
そんなふうに車中の話は弾み、二人が外の様子を窺うことはもうなかった。
やがて馬車が停まる。
到着の声が掛かって扉が開かれて、初めてフィオナの顔に困惑が浮かんだ。
「……ジャイルズ様」
「まだ時間は大丈夫だろう? 見せたいものがある」
着いたのはクレイバーン男爵家ではなく、バンクロフト伯爵家だった。
戸惑いつつも差し出される手を取って降りると、玄関では執事のダルトンが恭しく首を垂れてフィオナたちを迎えた。
「お帰りなさいませ」
「ああ。変わりは?」
「何事もなく」
二、三言交わしてダルトンはすっと身を引く。
ほかの使用人の姿も見えないまま広々としたホールを進み、いつか来た応接室へ向かう階段の前を通り過ぎた。
「あの、どちらに」
「ホールにある絵は見たのだろう?」
「ええ。初めてお邪魔したときに」
「ではこちらだ」
大理石の廊下の先にある重そうな両開きの扉に、ジャイルズはどこかから出した鍵を差し込む。
ギギ、と鈍い音を立ててゆっくりと扉が開いたが――部屋の中は薄暗い。
フィオナをその場に待たせると、先にジャイルズが慣れた様子で部屋の中へ入る。少しして、シャッとカーテンを引く音がした。
「……!」
「ここにあるのは一部だが」
明るくなった室内に現れた数多くの絵画に、フィオナは文字通り息を呑む。
(うそ……ここって、これって、もしかして……!)
広い、大食堂か舞踏ホールくらいはありそうな部屋の壁には、たくさんの絵が掛けられていた。
部屋の真ん中には数台の陳列台が等間隔で並び、ガラス張りのその中には陶器や宝飾品が綺麗に並べられている。
バンクロフト伯爵家のコレクションルームだった。
戻ってきたジャイルズに手を引かれて、部屋の中へと進む。
踏み出した足がよろけそうになってしまい、苦笑したジャイルズに支えられたがそれも上の空だ。
(まさか、入れるなんて)
歴代の当主が芸術に理解のあることで有名なバンクロフト伯爵家は、領地にあるロングギャラリーと王都邸の玄関ホールが圧巻だというが、このコレクションルームは別格だ。
知り合い程度では中に入れず、身内でさえも難しい。唯一、当主夫妻と後継者だけが自由に出入りできる。
ほかの貴族にとって、この部屋に招かれることはなによりのステイタスであるのだが、そんなことは関係なく、突然眼前に現れた素晴らしい絵の数々にフィオナは声も出ない。
(わ、わあ……どうしよう、目がくらみそう)
パッと見ただけで作者の名前が浮かぶものや、そうでなくても惹き込まれるようなものばかり。
窓からの光の入り方も計算されているようで、ここはまるで小さな美術館だ。
「いろいろあって遅くなってしまったが」
「あ、あの」
どこを見たらいいのか分からないまま、部屋の中央で立ち尽くす。
どの絵も品も、素晴らしいものだということだけはよく分かる。
琥珀の瞳を大きく見張って固まるフィオナに満足そうに微笑むと、ジャイルズは窓下にあるシェーズロングソファーへ一人腰掛けた。
「ゆっくり見るといい。好きなだけ」
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