第51話 王立芸術アカデミー

「おや、これはフィオナさん」

「リスター調査官、お願いがあるの!」


 王立芸術アカデミーの職員控室につくなり、フィオナは挨拶も飛ばしていきなり水を所望する。

 隣のジャイルズは驚いているが、壮年の主席調査官はその細い目をさらに細くしただけだった。


 持つ手の温かさで萎れないようにとハンカチで包んだバラを見て一つ頷くと、近くにいる部下に声をかける。

 まもなく、水が満たされたグラスがフィオナに渡された。


「よかった……いただいたのだけど、このままでどうしようかと」

「ドライフラワーにもできますが、この淡い色味は生花で楽しみたいですね」

「そうなの、香りもいいし。ありがとう、ミスター」

「どういたしまして。素敵な花を見せていただいて私も嬉しいです」


 バラを挟んで親しげに話す二人を、アカデミーの職員たちは微笑ましく眺める。

 その彼らが、どこかほっとした雰囲気なのはどうしてだろう。ジャイルズの疑問には、近くにいた職員が自発的に答えてくれた。


「ようこそいらっしゃいました、ローウェル卿」

「ああ、邪魔をする」

「いえいえ。本日お越しくださって助かりました。本当に、心から『ようこそ』です」


 彼が話すことには、午前中に来た貴族の依頼者が査定に立腹し、職員たちに当たり散らしたらしい。

 依頼者が鑑定結果や査定に満足しないことはそう珍しくはないが、酷い罵詈雑言に居合わせた者はかなり消耗したそうだ。

 特に矢面に立ったリスターは、顔には出さないものの絶対零度の空気を発していたとのこと。

 無礼な依頼者が帰った後も、部下たちは恐ろしくて近づけなかったのだという。


「同じ貴族の方でもクレイバーンのご令嬢はまったく違いますから、お会いするとほっとします」


 アカデミーには平民の職員も多数いるが、身分を気にせずフラットな態度で彼らに接する貴族は多くない。それに加えて、専門性の高い話題にもついてこられる令嬢は珍しい。

 そういったことから、フィオナはここの職員たちに気に入られているようだ。

 今も早速、美術館に新しく所蔵された絵画について楽し気に話している。


「それじゃあ、直接ご遺族の方とお話できたのね」

「ええ。おかげさまで作品の一部を譲っていただくことができました。研究班の職員たちも喜んでおりますよ」

「そう、よかった! 絵は公開するの?」

「常設展にコーナーを作る予定です。シーズン中に、と言いたいのですが、ぎりぎり間に合うかどうかというところですね。まだ修繕の途中ですが、後でご覧になりますか?」

「いいの?」


 漏れ聞こえる内容から察するに、美術品の譲渡に関してフィオナがなにか関わったようだ。

 公開前の作品を見せてもらえるとなって、そわそわと嬉しそうにしているフィオナに、リスターは穏やかな眼差しを向けている。

 ジャイルズの視線の先に気づいて、職員が二人の会話の解説を始めた。


「ローウェル卿はチャック・デンゼルをご存じですか?」

「いや、聞いたことはないな」


 バンクロフト伯爵家は代々美術品を蒐集している家として有名だが、ジャイルズの父はあまりそちら方面に興味がない。

 家のコレクションを売り払うことはないが、ジャイルズが知る限り新たに買い求めることも最近はしていない。


 ジャイルズ自身、王都の屋敷でも領地でも多くの美術品に囲まれて暮らしているから目には入るが、これといって意識したことはなかった。

 熱心な蒐集家だった先祖や祖父の血は、父やジャイルズよりも姉のミランダに濃く流れているらしい。そこをゴードンに付け入られたのだが……まあ、致し方ない。

 デンゼルを知らないといったジャイルズに、職員はそれはそうだろうと頷いた。


「彼自身はまったく著名ではありませんので。後期派の一人でデズムンドにも影響を与えた人物だと近年判明したのですが、先の戦争で蒐集していらした方が亡くなって、作品が散逸してしまっているのです」


 絵画史を辿るのに重要な人物であり、この国出身の画家だというのに、美術館には模写とスケッチしかなかった。

 だが偶然、フィオナの叔父が訪れた先で消息不明だった彼の遺族と出会ったのだという。


「その伝手で、何枚かお譲りいただくことができました」

「そうか、それはよかったな」

「はい。画稿や手帳が手に入ったのはかなりの収穫ですね。当時の画家同士の交流や作風の流れなどがよく分かって……」


 なおも滔々と述べる職員の話を、相槌を打ちながら流し聞く。

 普段は領地にいて貴族の社交とは縁遠いフィオナだが、美術関連の情報に関しては貪欲で多方面にアンテナを張っている。

 叔父を始め、ギャラリーオーナーのロッシュだけでなくベネット夫人にも協力してもらっていると以前に聞いたことがある。


 主席調査官と話しているフィオナの顔は生き生きと輝いて、いかにも楽しそうだ。

「仕事を辞めたくないから結婚したくない」と聞いた時は驚いたジャイルズも、実のところ、フィオナがそこまでのことをしているとは当初は思っていなかった。

 だが今は、その言葉の重さを実感する。


 美術品や、それを持つことについて深く考えたことはなかったが、認識を新たにできたのはフィオナと過ごしたおかげだ。

 絵は、ただ絵としてのみ存在する。

 描く人と見る人を繋ぎ、将来へと残すために間に入る者が必要だということが、彼女の行動を見ているとよく分かった。


「噂」のためのデート演出で美術館に行った際は、飾られている作品そのものについてだけでなく、フィオナは裏側や職員たちの働きについてもよく話した。

 作品の保存にどれだけ気を遣っているか、どのような意図で並べる順番を決めているか、美術館同士で作品の貸し借りをすることなど、小声で楽し気に語るのだ。


 美術館は絵を見るところとしか認識していなかった。

 その施設の背後には多くの人がいて働いていること、むしろ重要なのは職員たちが取り組んでいる研究や管理修繕にあること。

 表に出ている以上の煩雑な、だが必要な仕事が多くあることなど、考えれば分かるのだが見落としていたことを再確認したのだった。


 ロッシュのギャラリーでフィオナがしている輸送手配や作品の管理もそうだ。

 作品の所在把握、個人コレクターとのコネクションの確立や画家との連携なども、実際のところ裏方でしかない。

 しかしその地味で地道な仕事は、どれも必須なのだ。


 美術品は家族の歴史や思い出などを纏い、個人のプライベートに属する場合が多い。売買や譲渡を無感情に行えるのは投機目的の売人くらいだ。

 相手の懐に柔らかく切り込んでいき、安心して任せられると信を得られる人間が、調査官や画商として名を馳せていく。

 きっとフィオナは将来そうなる一人に違いない。


(……男であれば、迷うこともなかっただろうな)


 この国に限ったことではないが、女性が、しかも貴族令嬢が働くことをよしとしない一般通念は早々には覆されないだろう。

 どれほどフィオナに能力があろうとも、その働きぶりを公正に評価されるかどうかは、また別の話だ。


 本人も叔父の「手伝い」と言っているのは、無意識にそれを分かっているからなのかもしれない。

 ベネット夫人がフィオナに目を掛けるのは、きっと自身の過去と被るからだ。商才があろうと機会に恵まれようと、彼の女傑の時代は今よりさらに険しい道のりだったはず。


 ロッシュの元である程度の裁量を任されているフィオナだが、今以上を望むのはきっと難しい。

 いっそどこかの高位貴族に嫁いで、画家たちのパトロンになったほうが歓迎されるかもしれない、との考えが掠めて、慌てて内心で打ち消す。

 それが嫌だから、フィオナはジャイルズとの芝居を引き受けたのだ。


(手助けくらいはできるだろうか)


 世間の風潮を一気に変えることは不可能だ。

 だが、身近な人の力になることくらいはさせてほしい。

 それが自分との契約を履行してくれているフィオナに対して、ジャイルズができる数少ないことであろうとも思う。


 職員の話が終わったタイミングで二人に近付くと、フィオナがハッとした顔で振り返った。


「あ、ジャイルズ様ごめんなさい。早速話し込んでしまって」

「いや、構わない」

「失礼しました、ローウェル卿」

「リスター調査官、先日は無理を言った」

「いえ、お役に立てて光栄です」


 握手を交わすジャイルズとリスターを見て、フィオナはにこにこと笑みを浮かべる。


「そうそう、ゴードンの画廊にあったポアレですが、ご覧になりますか」

「ここにあるのか?」

「はい。鑑定は終わりましたが、彼の監視が解かれるまではこちらで預かることになっています」


 ゴードンは司法取引が成立して減刑になったが、しばらくはゆるい監視下に置かれている。その間のいわば保釈金のような扱いなのだろう。

 ポアレの絵と聞いてきらりと瞳を輝かせたフィオナに、ジャイルズは苦笑する。


「フィオナ、見たいか?」

「はい、ぜひ!」

「なかなか機会がないですからね。ちょうど王宮所蔵のものも借りてきておりますから、二枚並べて見ることができますよ」

「わあ……!」


 鑑定にあたり、王宮に唯一残っていた彼女の絵を参考にしたのだという。

 戦禍と廃棄を免れた貴重な品も間近に見られるとあって、フィオナは待ちきれないようだ。


「では頼む」

「ええ、こちらにどうぞ」


 そして案内された保管室で、リスター調査官自らが絵を取り出す。

 両手で楽に抱えられる大きさで、だからこそあの当時発見されずに廃棄を免れたのだと、リスターは自分の見立てを述べる。


 並べられた絵画二枚はどちらも大きな花瓶と、そこからこぼれんばかりの花々を描いたものだった。

 女性画家の手らしい繊細な筆遣いで、薄くやわらかな花弁が数多く重なる様が鮮やかに描かれている。引き込まれるような華やかな色使いが、まさしく宮廷画家にふさわしい。

 花の種類や色は違うが、構図や雰囲気など対になるような二枚にフィオナは目を瞬かせる。


「わあ、素敵……」

「見事なものだな」

「ええ。大作ではありませんが、美しいですね。こちらの、青い花瓶のほうがゴードンの画廊から差し押さえたものです。本物とみていいでしょう」


 希少なはずの画家の作品をどうしてゴードンが持っていたのかは、捜査では明らかにされなかった。サックウィル卿の陰謀とは関係ないし、画商をするくらいだから多少の伝手はあってしかるべきだと考えられたのだ。

 その一方で、贋作だらけの店にはほかに差し押さえられるようなものもなく、罰金と合わせて押収されたのだった。


「フィオナさんが今日お持ちになったようなバラも描かれておりますよ」

「あ、本当。これね」


 何種類かの花が描かれていたが、中でもバラが目立っていた。その色とりどりのバラの中に、ちょうど王弟殿下から貰ったようなカップ咲きで花弁の枚数が多いものがある。

 色も同じ淡い黄色のバラを指さしながら、フィオナはそんな偶然を楽しんでいるようだ。


「ここに描かれた花は実在するものなのか?」

「そうですね、全部ではありません。たとえばこちらの赤みが強いグラデーションのものなどは、見たことがないと職員の一人は言っておりましたね」


 花に詳しくないジャイルズの問いに、リスターは的確に答える。

 写生や標本的な植物画ではないので、全体のバランスを見て色の調整をすることはよくある。その結果が現実と離れることも多い、と。


「心で見た色を塗ることもあるでしょうね」

「そうですね、そのほうが多いかもしれません」


 フィオナの呟きにリスターが嬉しそうに返し、ふふ、と楽し気に微笑みあう。やけに親密な空気だが、不思議と違和感がない。

 と、別の職員がリスターを呼びに来た。


「すみません、室長こちらですか?」

「ああ、失礼。ご覧になっていて結構ですよ」

「あ、ごめんなさい。お忙しいところを」

「お気になさらず」


 部屋の向こうに行ったリスターが職員と話し始めると、フィオナがジャイルズに話しかけてくる。


「リスター調査官はすごい方なんです。いつ、なにを聞いても『知らない』って返事がきたことはないんですよ」

「そうか。博識なんだな」

「国外の美術館にもお勤めしたことがあるのですって」


 自分のことでもないのに誇らし気に話すフィオナに、これだけ心酔されればリスターの態度もさもありなんと納得する。

 だから他意はないはずだが、自然と口から出た。


「ずいぶん仲がいいな」


 ぱちり、と大きく開いた目を一度閉じて、フィオナはジャイルズの言葉を咀嚼する。

 なにか思い当たることがあったらしく、苦笑するとジャイルズの袖を引いた。

 内緒ですけど、とこそりと耳に口を近づける。


「実は、お嬢さんのお名前が私と同じフィオナなのです」

「なるほど……?」

「『お父様キライ!』の時期なのですって」


 だから自分は娘の代わりなのだ、とフィオナは笑う。


「忙しくてお嬢さんの顔をあまり見られていないようですし、それもあって」

「……なるほど」

「仲良しですよね」


 ――自分にはよく分からないが、きっと、それが普通の家族のかたちなのだろう。

 釈然としないながらも頷くジャイルズを呆れるでも咎めるでもなく、フィオナはふんわりと笑った。

 ちょうど貰ったばかりのバラのような笑みを残したまま、また視線を絵に戻す。


「綺麗ですね」

「……そうだな」


 着飾って夜会に出るよりも、多分、こうして絵を見ている時がフィオナは一番幸せなのだろう。

 満足そうに目を細める横顔を、ジャイルズは黙って見つめた。




 §





 フィオナたちがアカデミーを訪れた晩。もうじき今日の仕事を終えようとするリスター調査官を訪ねる人物があった。

 いつも身軽な御仁だが、さすがに夜間に供もつけずに現れると思わなかったリスターと、残っていた数人の職員は驚きを浮かべて立ち上がり、礼を取る。


「これは……! 明日にでもお戻しする予定でしたが」

「いや、気にしなくてよい。近くに用事があって、見たらまだ明かりがついていたからね」

「左様でございましたか。では今、ご自身でお持ちになりますか?」

「そうできれば」


 ご用意いたします、と言ってリスターが離席して間もなく、厚い布の包みを持って戻ってきた。

 中身は昼間にフィオナたちに見せた、王宮所蔵のポアレの絵だ。


「大変参考になりました。こちら、確かにお返しいたします」

「ああ、役に立ったなら何よりだ」

「では、お気をつけて。王弟殿下」


 無造作に絵を受け取ると、王弟は踵を返して去っていく。誰もいない廊下に靴音だけが響いて残った。









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