第20話 恋人役のひととなり(下)

 小さく息を吐いて、フィオナは改まった様子で話し始めた。


「おかげさまで、父にもちゃんと伝わりました。それで、とりあえず様子を見ると」

「とりあえず?」

ローウェル卿と自分の娘がまさか、という気持ちはよく分かります。幸いにもこれがお芝居だとは思っていないようですが、一時の気の迷いだと信じているようですね」


 クレイバーン男爵の考えは分かる。だが、自分の娘を過小評価しているのではないだろうか。

 そんなジャイルズの気持ちとは裏腹に、フィオナはすっかり納得している表情だ。


「私には相変わらず、婚約のことは伏せられたままです。なので、こっそりノーマンに聞いたのですが、彼のほうは別に話があったそうです」


 昨日ノーマンがいたのは、フィオナとジャイルズの関係を懸念した男爵が、今後の相談に呼んだとのことだった。

 夜にはヘイズ男爵も加わって話し合いをしていたそうだが、そこでもやはりフィオナは蚊帳の外だったと苦笑する。


 結果――半月後のパーティーは予定通り開催する。そこでの婚約発表は見合わせることになった。

 だが、婚約をする予定自体を無かったことにはしないという。


「ノーマンがクレイバーンの後継になることも、一緒に発表するつもりだったようです。それも延びてしまったのは、彼に申し訳なかったですね」


 要するに、クレイバーン男爵たちは、フィオナとジャイルズの交際は長続きしないと踏んでいるのだ。


 個人としても家としても、家格はジャイルズのほうが上だ。

 自ら娘の元に足を運ぶジャイルズを黙認するしかないし、この状態でほかの者との婚約発表などできない。


 普通なら、このまま自分の娘をどうにかジャイルズと結婚させようと目論むものだが、クレイバーン男爵は違った。

 二人が別れて周囲が落ち着くのを待って、ノーマンとフィオナを結婚させようというのだ。


 破綻を前提にされるなど不愉快であろうに、時間稼ぎができればそれでいいと言うフィオナの表情は晴れやかだ。


「相談していた叔父から、返事の手紙が届いたのです。全面的に味方になってくれると約束してくれました。具体的にはまだ何も決まっていないのですが、それだけで心強いです」

「……そうか」


 契約が終わり二人が別れるときは、最大限フィオナに配慮することを決めていた。

 だが、どうしたって不本意な噂は立つだろうし、それでフィオナの評判に傷がつかないはずがない。どうあがいてもジャイルズはその一端を担ってしまう。

 そのことを思うと、妙に気が塞いだ。


「それで、父が婚約発表を見送る決定打になったのは、あの……ジャイルズ様が、その、ああいったことをした、そのおかげではあるのですが」


 フィオナが珍しく言い淀む内容については予想がつく。昨日のあれは、本当の恋人だけに許される距離だ。

 一度外した視線を戻したフィオナは、決意したように一気に言った。


「せめて予告をしてもらえませんか?」

「予告?」

「申し訳ないのですが、慣れていないのです。そのたびに驚いてしまって、『恋人らしい』反応ができません」


 それではよろしくないと、フィオナは生真面目に訴える。

 抗議されるだろうと構えていたジャイルズの肩からは力が抜けた。


(……つまり、嫌ではないというわけか)


 耐えられないことを強いるつもりはない。だが、やるなら効果がなくては無意味だ。それも最大限の効果が。

 フィオナが嫌だと言わない限り、その方針は変更しない。


「だが、前もって考えているわけではないから、予告と言われても難しい。それに、いちいち断ってはかえって不自然だと思うが」


 自分でもそうは思うのだろう。フィオナは一瞬怯んで、反論を口にする。


「で、でも、それでは」

「君の言いたいことは分かる。では、こうしよう」


 言うが早いか、向かい合わせに座っていたジャイルズは、フィオナの隣に席を移す。

 大人二人が並んで掛けても十分余裕のある広さの座席に、あえて肩が触れる距離で腰を下ろした。

 フィオナはそのジャイルズのほうに上半身をひねって、呆気にとられたままだ。


「え、な、」

「なんでって。私に予告なしに触れられても、君が驚かなくなれば済むことだ」


 ジャイルズの言葉の意味を確かめるように、丸くなった瞳が瞬きを繰り返す。

 物音に律儀に足を止める猫のように、今日もまた驚いて固まったフィオナの手を持ち上げた。


「ほら、こうして」


 手のひらを重ねて、馬車の揺れに合わせてあやすように軽く上下させる。何度も繰り返せば次第に強張っていた手も腕も、最後には肩からも力が抜けていく。

 代わりに、気遣わしそうな瞳がジャイルズを見上げた。


「平気です?」

「嫌ならしないし、嫌ならやめる」


 フィオナは確かめるようにジャイルズの奥を覗き込んで、ふと下を向く。


「フィオナ?」

「……分かりました」


 心を決めた言葉とともに、不敵にきらめく琥珀色の瞳に見上げられた。

 ただ重なっていただけのフィオナの細い指が、控えめにジャイルズの指に絡む。

 握られたのと反対の手は、ダークブロンドの前髪をさらりと撫でて耳の上で止まった。


「……!」

「走ってきてくださったんですね」


 髪が、乱れていたようだ。

 色のない手つきは家族に対するもののようで、伝わってくるのは純粋な気遣いだけ。


(――彼女は、違う)


 ジャイルズから、伯爵家から。なにかをかすめ取ろうとする手ではない。

 向こうから触れられても不快ではなかった。冷えるどころか、温かい安堵のようなものが広がる内心で深く息をする。


 二度ほど撫で付けてジャイルズの髪を整えると、フィオナは満足したように頷いた。

 下ろした手を握り込み、きゅ、と口元を引き結ぶ。


「負けません。しっかり恋人のフリをしますので、お覚悟くださいませ」


 ……いつ、勝ち負けの話になったのだ。


 やはりどこか変わっている。

 せっかく真剣な顔をしているところに悪いが、笑いそうになってしまった。


 だが、恋人役がこの令嬢でよかったと、フィオナが隣にいることに満足している自分がいる。


「……受けて立とう」

「あ、でも、嫌なときは絶対にすぐ教えてくださいね?『犬に噛まれた』とか言いますけど、犬に噛まれると大変なんですから」


 慌てて付け加えるフィオナは、もう既に勝敗のことなど忘れているようだ。

 ジャイルズは吹き出しそうになるのを堪えて――やはり堪えきれず、短い笑い声を上げたのだった。




 §




「それで、どうだ?」

「いきなりか」

「ほかになにを聞けと」


 予想通り夜半になって伯爵家を訪れたリチャードは、座るより早く問いかけた。

 尋問というよりは興味津々といったふうで、ジャイルズは苦笑いする。


 人払いは済ませてあるが、もう一度扉を確認してからジャイルズはリチャードの質問に答えた。


「おかげさまで順調だ。……多分」

「多分か! 謙遜しなくていいぞ。俺の耳には、もう既にいくつか『ローウェル卿の恋の噂』が届いている」

「早いな」

「それでこそ噂だろう」


 聞いてみれば、公園での目撃証言だ。昨日の今日でよくそこまで、だ。

 感心しつつ呆れつつ、ベネット夫人の店に行ったことを話せばリチャードは勢いよく食いついてくる。


「メゾン・ミシェーレ? おいおい、本当かよ」

「本人はただの茶飲み仲間のつもりらしいが」

「はあぁ……色々と、相当に予想外なお嬢さんだな」


 その通りだ。

 しかも、フィオナは店ではずっと向こうの言葉で話していた。

 たしかに本人も「勉強した」とは言っていたが、まさかあそこまで話せるとは思わなかった。

 会話自体はジャイルズも分かるものの、話題に上がる服飾も絵画も専門用語が多く、ところどころついていけなかったくらいだ。


 夫人は当然として、デザイナーもお針子も、付き添いのジャイルズなどそっちのけでフィオナを囲む。

 自分が背景に溶け込んで、楽しげに盛り上がっている様子を平和に眺める状況は新鮮だった。


「じゃあ、ドレスも作ったんだな」

「本人よりデザイナーと夫人がやたら張り切っていた。さすがに今週末には無理だが」


 せっかくのドレスだが、バーリー伯爵家の夜会には間に合わない。

 多少の手直しですぐに着られるものもあったが、どうせなら一から作ったほうがいいとフィオナを除く満場一致で決定したのだ。


「あー、それでいいんじゃないか。恋人として周知された後でイメージが変わったほうが、インパクトがあるだろうし」

「……見世物ではないんだが」

「へえ?」

「今の服も悪くない」

「へええ?」


 思わせぶりにニヤニヤとするリチャードをちらりと横目で睨めば、両手を軽くあげてそこまでにする。


「そんな大そうな店に知り合いがいるのに、彼女はなんだってああ地味な服を着てるんだ?」

「ああ、あれは……亡くなった母親のものだそうだ」


 体が弱い娘のためにと、亡母の両親や夫であるクレイバーン男爵が吟味した服があるのだという。

 フィオナはそれを少しだけ直して、着続けているのだ。


 疲れたらすぐ横になれるように背中や側面に飾りは付けず、体力を消耗しないように軽く柔らかい布で、ドレープは控えめに。

 目に優しい穏やかな色、体に負担の少ない形。


 回復したら着るようにと願いを込めて縫われ、結局一度も袖を通さなかったドレスもあったそうだ。

 フィオナの妹は、母と同じく伏せっている時期が長かったから必然的に。フィオナ自身は、今も妻を愛する父と、時々会う祖父母のために。亡き母の服は、娘たちに継がれている。


 口止めはされていない、とフィオナが試着室に閉じ込められている間に、その話をしてくれたのはベネット夫人だった。


『そんな事情ですからね、こちらが口を出せることではないでしょう。実際、布や仕立ては良いものですよ。ただ正直、あの子の肌と髪には色もデザインも物足りません』


 ようやくフィオナに似合いのドレスが作ってやれると、ベネット夫人は満足そうだった。

 稀代の商売人は、凪いだ冬の湖面のような眼差しをしていた。

 品定めされる視線には慣れているが、それとは別種の熱を持って眺められた気がする。


『ローウェル卿。貴方がどういう方か、まだ判断は保留にさせていただきますけれど。服を新調しようとあの子に思わせてくれたことだけは合格です』


 自分が本当の祖母であるかのような口ぶりには苦笑いしか出なかったが、悪い気はしなかった。


 フィオナを置いてけぼりに周囲が盛り上がり、結果的に小物も含めて予定よりも多くをオーダーすることになった。

 勝手にジャイルズが支払いを済ませたことで立腹されてしまったが、必要経費ということでなんとか言いくるめた――事実、ジャイルズと関わらなければ不要だったはずのものなのだから。


「なーるほどねえ。当然、明日も会うんだろ?」

「午前中は仕事だそうだから、昼からの予定にしている」

「よし、女性に人気のティールームに予約を入れといてやる。週末までもう日がないからな、王都中に見せつける勢いで二人で出歩けよ」

「……」

「面倒そうな顔するなって」


 面倒だと思ったのはフィオナと会うことではなく、噂のためにという煩わしい理由のほうだ。


「……そんな感じだ。それでリック」

「ああ。オットー・ゴードンだが、ロウストリートの画廊は開業を延期したままだ」


 視線の具合で、話の流れが変わったのをお互いに言わずとも察知する。こういうとき、気心の知れた間柄は便利だ。


「ちょうど店員らしいのが掃除をしていて、話を聞いた。ゴードンは、いつまでか分からんが絵の買い付けに行っていて、戻ったらオープンする予定だとさ」

「戻ると思うか?」

「半々だな」


 現時点で故意か不慮かは確定できないが、コレット侯爵夫人に贋作を売ろうとしたのは事実だ。

 売買は不成立で被害はないし、不名誉な噂を嫌う姉は訴えることはしない。だが侯爵家はゴードンの動向に目を光らせるだろうし、親しい友人にはそれとなく注意を促すだろう。

 積極的な動きはしばらくないと踏んでいた。


 だが。


「ブルック家とファウラー家が『有名画家の未発表作品』をゴードンから買っていた」

「……リックのところは」

「ああ、うちにも売り込みに来てたらしい。あと、ガーランド家にも」


 名前が出たのはすべてコレット侯爵家、そしてバンクロフト伯爵家と同じ派閥に属している家だ。

 偶然と言うには気にかかる。


「店内に何枚か絵は飾ってあったけど、本物かどうか俺には分からなかったよ」

「そうか。すまないが、もうしばらく見ていてくれ」

「忙しくしてくれるねえ」

「悪いな」


 軽い抗議めいた声におざなりな返事をすれば、承知したように笑って返される。


「はは、楽しいって言ってるんだよ。こんなに面白いシーズンは初めてだ。ミス・クレイバーンに感謝だな」


 ひらひらと手を振って帰るリチャードをその場で見送って、ジャイルズは思案顔でペンを手に取ったのだった。










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