第19話 恋人役のひととなり(上)
王城内の議場を後にしたジャイルズは、人の多い廊下を急ぎ足で進んでいた。
「ローウェル卿。どうです、この後」
「悪いが今日は先約がある。また今度に」
場所を移しての会合に誘われるのを、何度も断りながら外へ向かう。
約束の時間からはそう遅れていないが、待ち人がいると思えば気も逸った。
何台もの馬車が主人の戻りを待つ出入り口前の雑踏を横目に城門を出れば、少し離れた壁に寄せて伯爵家の馬車が指示通りに停まっていた。
主人の姿を認めた御者の合図で、ジャイルズの到着に合わせてフットマンが踏み台を用意する。
「お帰りなさいませ、若様」
「待たせたか?」
「十五分程でしょうか」
微妙なところだ。だが、普段ならもっとかかるはずの議会をほぼ定刻で終わらせたのは、本日の議長だったジャイルズの手腕によるものだ。
細かい後始末はリチャードに押し付けてきたが、この後の予定のことを話すと面白がって追い返された気がしないでもない。
あの顔ではきっと、話を聞かせろと今夜あたり押しかけてくるだろう。
箱型のランドーの扉を開けると、約束をしていた恋人……役の、フィオナがそこにいた。
読みかけの小説を開いたまま、乗り込んで来たジャイルズを驚き顔で迎える。
「こ、こんにちは。早いですね?」
「そうか?」
時間潰しの本を自ら準備し、待っていないはずはないのに「早い」と言う。
閉会は遅れるのが常だということを承知しているのだろう。
親の仕事内容を全く知らない令嬢が少なくない中、やはりクレイバーンの父娘は家での会話が多いとみえる。
「お店には連絡していますから、急がなくても大丈夫だったんですよ?」
「話の長い奴を多少は急かしたが、その程度だ」
「本当ですか」
「嘘ではない。ところで、どうしてそんな端に?」
フィオナは四人乗りの馬車の隅に、隠れるように小さく腰掛けていた。
向かいの席に腰を下ろしながら尋ねると、彼女は本をしまいながら居心地が悪そうに目を泳がせる。
(なにかあったか?)
バンクロフト伯爵家の使用人には、自身が子爵家や男爵家の出身である者もいる。
さらに伯爵家に仕えているということで、格下の貴族やジェントリに対して、尊大な態度に出る者もいないとは言えない。
無名の男爵家への迎えにあたり人選をしたつもりだったが――懸念は即、解消すべきであろう。
「もしかして、使用人がなにか無礼を働いただろうか」
「えっ、いいえ、とんでもありません。そんなことはまったく。わざわざ家まで迎えに来てくださって、とても親切にしていただきました。……そうではなくて、」
走り出した馬車に一瞬気を持っていかれたが、フィオナはすぐにジャイルズと目を合わせて苦笑いを浮かべた。
「こんなに立派な馬車に乗ることは滅多にないので。広くて、落ち着かないです」
「そうか」
素朴な返答にジャイルズは安堵する。
この馬車は内外装の見た目だけでなく、サスペンションの装備もある。たしかに乗り心地も良い、立派なものだ。
移動が多い父の趣味と実益を兼ねているせいだが、貴族が使う馬車としても贅沢だろう。
だが、種類は違えど、伯爵家にある馬車はどれも似たような仕様だ。慣れてもらうしかない。
「そう隅にいられると話がしにくい」
「……はい」
促されて、フィオナはおずおずと座る位置を中寄りにずらす。
たどたどしい様子は、狩り場で見かけるリスを思い起こさせる。普段の見惚れるような所作との落差に、口元が緩みそうになる。
広すぎて不安だと言うなら、空いた隙間を埋めればいいだろうか。
「次からはクッションでも積んでおこう」
「そっ、そこまでのお気遣いは不要です……え、次?」
次があるのか、とフィオナは遠い目をしているが、恋人の契約は始まったばかりで期間はシーズンが終わるまでだ。
次も、その次もあるに決まっている。
(しっかりしているはずなのに、詰めが甘いというか)
伯爵家の応接室で美術商のゴードンと対峙した時の、凛とした彼女と同じ人物とは思えない。
だが、同じ二面性でもこれまでに接してきたほかの令嬢のそれとは違っていて、嫌悪感はなかった。
今日の行き先は、既にフィオナから御者へ伝え済みであるらしい。
市街地へと向かっているのを確認して、ジャイルズは問いかける。
「ところで、知り合いのドレスメーカーとは?」
「あ、はい。メゾン・ミシェーレというお店です。男性物の扱いはありませんから、ジャイルズ様はご存知かどうか」
ギャラリーの常連顧客が、趣味で経営している店だとフィオナは言う。
隠れ家みたいな小さな店舗で、オーナーである夫人と同じ隣国出身のデザイナーと、二人のお針子がいるのだそうだ。
「隠れ家のような……それなら、前に姉から聞いたことがある」
「そうですか! 侯爵夫人にも知られているなんて、きっとベネット夫人も喜びます」
自分が褒められたかのようにフィオナは嬉しがっているが、ジャイルズが聞いたのは「ちっとも予約が取れず、作ってもらえない」と不満を述べる姉の嘆きだったはずだ。
登城用のドレスなどは、年単位の待ちだと言っていたか。
間違いなく今、王都の女性たちに最も人気のある店のひとつだろう……だが。
「今日のドレスもそこで?」
フィオナが身につけている淡いクリーム色のドレスは、かなり簡素だ。
普段からそうだが、彼女の衣装は町娘が着ていてもそこまで違和感はない程度の大人しさで、とても王都有数のドレスメーカーの作とは思えない。
不躾な質問にもかかわらず、フィオナは冗談でも言われたかのように明るく笑った。
「まさか、違います。今まで王都で服を仕立てたことはありません」
「そうなのか?」
それはそれで珍しくはないだろうか。
母も姉も、なにかといえばドレスを新調し、ジュエラーを呼んでいる。それが貴族女性の普通だと思っていた。
「綺麗なものは好きですよ。ですが、パーティーにはあまり行きませんし、ギャラリーには平民のお客様もみえますから、華やかなドレスを着る機会がないのです。領地では馬で林を見回ったり、皆と一緒に農作業もしますので」
それで服やアクセサリーはつい後回しになっているのだと聞けば、納得はした。
ジャイルズは女性の服装に特別興味も好みもない。だが、フィオナには今着ているドレスとは違うもののほうが似合いそうな気はしている。
「ベネット夫人にも、もう少しおしゃれを楽しみなさいと言われています」
「姉もそのタイプだな。……待て、ベネット夫人? フィオナ、夫人のフルネームは」
「え? ええ。クロエ・マリー=アン・ミシェーレ・ベネット夫人、ですけど」
その名前は、ベネット商会――国内でも指折りの大商会である――の創業者夫人ではないか。
フィオナは知らなくても当然だが、夫のベネット氏よりも辣腕で、商会の影の立役者として祖父の代では有名だ。
さらに店にいつ来店予約を取ったのかと聞けば、一昨日だと軽く言う。
画廊を訪れたベネット夫人から「店に遊びにいらっしゃい」と、恒例の誘いを受けていたのだと。姉が聞いたら歯噛みして羨むに違いない。
「ドレスを作ってあげるって、お会いするたびに言ってくださるので……本当は今日も、いつも通りおしゃべりだけしに行くつもりでしたけれど、ちょうどいい機会ですから」
――フィオナがバンクロフト伯爵家を訪れたときに持ってきた紹介状は、前宰相タルボット卿が書いたものだった。
今日はベネット商会の大物夫人。さらに、ゴードンの前で名前が出た王立アカデミーの筆頭調査官も、既知の間柄と思って間違いないだろう。
クレイバーン男爵家に、彼らとの接点はありえない。
画廊での繋がりだと推察できるが、一介の男爵令嬢には考えられない錚々たる面々だ。
「君は、なんというか……顔が広いのだな」
「そんなことはないと思いますが?」
きょとんと目を大きくするフィオナは、自分の持つ人脈の重要性に気づいていない。
少し考えて、思い出したようにふわりと笑う。
「あ、でも、人には恵まれていますね。親切にしてくださる方ばかりです」
(そうくるのか)
利用し、利用されるのが貴族の社交だ。
人脈と縁故はそのまま力になる。
これほどの伝手があれば、婚約を回避するにもほかの方法が取れたはずだ。
たとえば――国費留学生に推薦してもらい、ベネット夫人の故国に行くという手段を取ることも可能だろう。
ゴードンをやりこめたくらいの知識と審美眼もある。絵に関わっていたいというなら、それこそアカデミー経由でもいい。
なんにせよ、父男爵の思惑を回避する方法はいくらでもある。
つまり、ジャイルズと恋人のふりをする必要はなかったのだ。
けれどもフィオナは、知り合いを利用することなど思いもつかなかったのだろう。
(タルボット卿も手練れの商売人も、そう簡単に他人を懐に入れはしない。この調子では、それも分かっていないだろうな)
「タルボット卿とも画廊で?」
「あ……ええ、そうですね。ですが、私が知り合ったのは、宰相としてのタルボット卿ではなく、一家族の長でいらっしゃる『タルボットおじ様』です」
水を向けたジャイルズに、フィオナはあくまでプライベートでの知り合いだと強調する。
人差し指を唇に当てて、これ以上は言えないと微笑んだ。
「内緒です。嘘ではないので許してください。私も、ジャイルズ様がどうやって議会を時間通りに終わらせたか、聞かないでおきますので」
「……それなら仕方ないな」
思いもよらない返しに絆されて、それ以上の詮索は止めにする。
無欲なのか、無頓着なのか。残念ながら、貴族としての資質に欠けると言わざるを得ない。
だが、こんなふうに下心のないフィオナだったからこそ、ジャイルズも「恋人のふり」などという滑稽な芝居を共にやる気になったのかもしれない。
その恋人のふりも、蓋を開けてみれば案外悪くなかった。
くるくると変わる表情は見ていて飽きないし、物怖じしない受け答えも、裏を読む必要がない。
なにより、エスコートとはいえフィオナに触れても嫌悪感がないのは不思議だったが、幸いだった。
多分、ジャイルズを誘惑しようとする気配が全く無いからだろう。
(しかし、あんなに驚くとは)
リチャードの真似をして別れ際に頬にキスしたのは、ほんの思いつきだった。
全身を固まらせて、それなのに細い肩も触れた頬も温かく、やけに柔らかかった。
着けているコルセットも薄いものなのだろう。これまでに夜会で踊った相手には感じられなかった体温が伝わってきて、女性という括りよりも、一人の人間だという実感が持てたのもよかったかもしれない。
昨日もそうだ。物理的な距離を縮めるたびに、琥珀色の瞳を大きく見開いて、一人だけ時間が止まったようになるのが面白い。
――クレイバーンの家中にノーマンの姿を認めて突然湧いた感覚は、今までに覚えがないものだった。
考えるより先に体が動いていたあれが、どういう衝動だったのか自分でもよく分からない。
「それはそうと、ジャイルズ様。昨日のことですけれど」
向かいのフィオナから声がかけられる。
今考えていた、ちょうどそのことだった。
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