第18話 二度目の不意打ち

 その後もいくつかの予定や二人の設定を確認して、公園を後にした。

 実際にはそう長くないが中身の濃い時間に、本日分の頭の容量は昼前にして既にほぼ満杯だ。


 次の角を曲がって道なりに行けば、クレイバーンのタウンハウスはもうすぐ、という時。

 フィオナは大事なことを思い出した。


「そういえば、契約書はどうしましょう。私が準備してもよろしいですか?」

「契約書?」


 恋人のふりを申し込んだときに、フィオナが自分から言ったのだ。

 不履行や違反があってはいけないだろうとのことだったのに、ジャイルズはまた物珍しそうな表情を浮かべてフィオナを見る。


「そういえば、そんなことも言っていたな。契約書という言葉が自然と出てくるのは、やはり仕事柄か?」

「あれば万全というものではないですけれど、ないと困りますから」


 文書で確実に、というのは、約束を信じられない人みたいで我ながら可愛げがないと思う。

 だが叔父の手伝いを始め、ロッシュの元で働くようになってまず真っ先に教え込まれたのが、契約の重要性である。

 思っていたのと違うとか、こんなはずじゃなかった、という事態を最小限に抑えることは、最終的に顧客満足にも自己防衛にもつながる。

 それは絵の売買でも恋人のフリでも同じだろう。


「同意したいが、この契約は書面に残すと、それはそれでよろしくない」

「あっ」

「おかげでリックからの助言もメモ書き一つせずに、必死に覚えたよ」


 言いながら、ジャイルズは自分のこめかみを指でコツと叩く。

 そうだった。秘密のお芝居なのだから、物的証拠を残してはいけないのだ。


「言われてみればその通りですね……では、どうしましょう?」


 お芝居の契約を違えても、お互いにデメリットしかない。フィオナだって破る気はない。

 だが口約束だけではなく、物理的な何かがあったほうが不安がないはずだ。


「私は契約書より、クレイバーン男爵にろくな挨拶ができなかったほうが気がかりだが」

「それはいいんです。きっと今は何を言っても耳に入らないでしょうから」


 朝の取り乱しようは酷かった。言い訳をさせてもらえれば、普段はもっとシャンとしているのだ。

 フィオナの父は出世欲がなく、貴族との交流は必要最低限で重要視していない。

 王族はもとより伯爵家や侯爵家なども、はるか雲の上の存在という認識である。


 高位の貴族に免疫がないため、若いとはいえ次期伯爵が相手だったことも腰を抜かした一因であると、フィオナは思う。

 挨拶ができなかったとジャイルズは申し訳なさそうだが、むしろ非礼だったのはこちらのほうであろう。


「だが、ただ連れ出しただけでは、幼なじみとの婚約を取り止めるまでいかないのではないか?」


 恋人関係にある、という確証を父に与えられなかったことを心配してくれているようだ。

 ジャイルズが自分の事だけでなく、フィオナのほうもちゃんと気にしていることが分かって安心する。


「いえ。だいぶ、というか、かなり動揺していました。あとはタイミングを見て、私が上手く話せば大丈夫だと思います」

「そうか」

「あの、今朝は本当に」

「それはもう気にしなくていい」


 改めて詫びを言いかけたフィオナを止めて、ジャイルズがぽつりと零す。


「……君の家は、家族仲がいいのだな」


 その言い方はまるで、自分の家はそうではないと告白しているようだ。

 彼の両親との関係が気になったが、聞けるわけもない。


(……どこの家も、いろいろあるわよね)


 クレイバーン家は経済状態はともかく、一家は非常に仲が良いし、領民との関係も良好だ。

 だが、両親は駆け落ち同然で結婚したから、祖父母と父の間には今もわだかまりが残っているし、叔父のレジナルドは実家を勘当されていたりする。

 問題がまったくないわけではない。


 名家のバンクロフト伯爵家ともなれば、しがらみはもっと多い。国での役割も重いし、有象無象も寄ってくるだろう。

 優しいだけでは家も領民も守っていけないし、家庭を顧みない当主も珍しくない。


 だから、その点に関しては流して、フィオナはあえて明るく返した。


「仲はいいですね。おかげで、急に婚約させられそうになっているわけですが」

「ああ、そうか。そういうこともあるのか」


 唐突に持ち上がった結婚話は、結局は父の愛情だ。

 そこにフィオナの意思はないが、娘の幸せを可能な限り考えた結果なのだ。


「挨拶は今度、父が落ち着いた頃に機会がありましたら。その時は妹も紹介させてくださいね」

「妹」

「今朝も私と一緒に玄関におりましたけれど……?」

「すまない。気づかなかった」


 ジャイルズは、初めて知ったかのような様子だ。本当にセシリアが見えていなかったらしい。

 大騒ぎをしていた父に気を取られたのかもしれないが、セシリアはフィオナのすぐそばで体調を心配してくれていたのだが。


(まさか女性嫌いが高じて、自然と視界に入れないようになっている……とか、ないわよね?)


 もしそうなら筋金入りだと思っている間に、馬車はクレイバーン家に到着した。

 出発した時と同じところに停めると、これまたスマートに下ろされる。


 馬車の音で帰宅に気づいたハンスが開けた玄関扉の向こうには、すっかり気を揉んでいる父の姿もあって――なぜか大きなクッションを抱えている。

 きっと、どうにも落ち着かずにウロウロしていたのだろう。予想通り過ぎて、苦笑いするしかない。

 だが、予想外の人の姿もあった。


「ノーマン?」

「なに?」


 父の隣に、ノーマンが立っていた。

 馬車からは少し距離があるが、いつもの笑顔が少し驚いているのが分かる。

 フィオナの声に顔を向けたジャイルズも、ノーマンの姿を認めたようだ。


「例の幼なじみか」

「はい、そうです。でも、来るのは週末って言っていたのに」


 今朝、ハンスからはノーマンが来るなどと聞かなかった。

 とはいえ、先触れを出して訪問し合うような堅苦しい仲ではない。近くまで来たからとか、なんとなく気が向いて、とかかもしれない。


(でなければ……私とジャイルズ様とのことで、お父様が呼んだ?)


 まあ、それも戻ればすぐに分かるだろう。


「あ、では、今日はありがとうございました。公園も綺麗でしたし、楽しかったです」

「フィオナ」


 馬車から下ろすために取られたはずの手は、まだ握られたままだった。

 別れの口上に離されるどころか、逆にぐいと引かれて二人の距離がゼロになる。


(えっ?)


 すっぽりと腕の中に収められて、まるで小庭園のあの時と同じだ。腰に回された腕に固く抱き込まれ、わずかも離れない。

 驚いて見上げると、青空が、覆い被さってきたジャイルズの顔で隠された。


「……!?」


 瞬きをする間に、灰碧の瞳がやけにすぐそばにあった。

 さらりと落ちたジャイルズの髪がフィオナの額をくすぐる。


 ――近い。近すぎる。


 重なるかと思った唇は触れる直前で止まっている。

 だが、玄関にいる父たちからは、二人がキスをしているようにしか見えないだろう。

 

 驚いて息ができないフィオナの唇に、呼吸を分け与えるようにジャイルズが囁く。

 声よりも先に、吐息が肌を撫でていった。


「嫌では?」

「な、いですけど……」


(ないけど、こ、これは、どうなのっ!?)


「これで男爵にも、ただの知り合いではなく恋人同士だと思ってもらえるかな」

「……!」


 朝の挨拶でなし得なかった、代わりのお芝居だったらしい。

 昨日のハンスに対してで分かる通り、言葉よりも雄弁で効果的に違いない……とはいえ、刺激的すぎるし、不意打ちにもほどがある。


(び、びっくりするから! もうっ!!)


 せめて一言、予告がほしい。

 そうは思うものの、頭も心も絶賛動揺中でうまく言葉にならない。


 固まったままのフィオナに満足そうにすると、ジャイルズはようやく腕を緩めた。そのまま玄関のほうに向かってにこやかに礼をして、馬上に戻っていく。


 また明日、と言い残して去る彼を、手も振れないまま見送って――遅れてようやく赤くなりはじめたフィオナの背後で、なにか大きいものが倒れる音がしたのだった。




 §




(絶対に面白がってるでしょ、あの人!)


 彼の女性嫌いを知っていて、さらに目の前で大立ち回りを披露したフィオナである。

「嘘はなし、無理もなし」という約束もして、いよいよ伯爵子息としての外面は必要ないと判断したのであろう。

 今のフィオナに対するジャイルズの態度は、小庭園でリチャードとかなりラフに会話をしていた時のものに近い。


 あの冷徹貴公子には、実はイタズラ好きな一面があるに違いない。

 なぜなら、虚をつかれたフィオナが驚くたびに、灰碧の瞳の奥が楽しそうに揺らめくのだ。


 だいぶ社交――特に異性関係の――に鬱憤がたまっている様子だった。

 そのストレス解消にされている気がしないでもない。


 一筋縄ではいかなそうなジャイルズを思い出しながら、少し遅くなった昼食の席を囲んでいると、おずおずとセシリアが話しかけてきた。


「あの、お姉様。さっきの方とお姉様は、お付きあ」

「ぐほっ、うえっほっ」

「わ、大丈夫ですか?」


 話の途中でいきなりむせ始めた父は、隣席のノーマンから背中を叩かれて回復する。まだ苦しそうに涙目をこする父に、ハンスが水を持ってきた。


「旦那様、お気をしっかり。今からこれでは先が思いやられます」

「さ、先などっ、んんっ、ごほっ」


 一日の長があるせいか、今日のハンスは落ち着いて父を宥める側に回っている。

 クレイバーンに勤めているといっても、彼の忠義はフィオナとセシリアの二人がメインだ。その証拠に、父と娘の意見が対立したときには、必ずフィオナたちの味方になってくれる。

 今回も、先ほどのジャイルズの「お行儀の悪さ」には、ひとまず目を瞑ってくれることにしたらしい。


「フィオナは恋人ができたんだねえ。それにしても、相手があのローウェル卿とは驚いたよ。いつ、彼と知り合いに?」

「ぐっふぉっ」


 屈託ないノーマンの言葉に、再度撃沈した父である。

 それに引き換え、ノーマンは本当にただ驚いているだけのようだ。婚約の話を受け入れていた彼だが、やはりフィオナに対して特別な気持ちはなかったのだろう。


「この前の王子殿下お誕生披露の祝賀会よ。王宮の」

「えーっ、本当に最近じゃないか! 知らなかったよ」

「私だって知らなかったもの」


 本当に。

 こんなことになるとは、たった三日前の自分だってまったく知らなかった。

 カトラリーを置くと、フィオナは両手を膝の上に置いた。ようやく普通の呼吸に戻った父から順に、全員の顔を見回す。


「内緒にするつもりはなくて……ただ、自分でもあんまり急だったから。みんなに心配かけて、ごめんなさい」


 そうして目を伏せれば、慌てたようにセシリアが最初に声をあげた。


「お、お姉様っ。驚いただけで、怒ったりとかはしていないのよ?」

「そうだよ、フィオナ。相手が大物すぎてちょっと心配ではあるけれど、なんだかさっきの感じからすると、ローウェル卿のほうがよっぽどフィオナを好きみたいだしね」

「そ、そう見えた?」

「「うん」」


 顔を見合わせたノーマンとセシリアに、大きく頷かれてしまう。


(それってやっぱり、私よりもジャイルズ様の芝居のほうが上手に見えてるってことね? 交際経験がないのは一緒のはずなのに……!)


 なんだか悔しい。

 もっとしっかり「恋人っぽく」見られるように、自分も本気で頑張らねばならない。


 向こうにはラッセル卿という超強力なブレインがついている。

 フィオナも、本をくれたオルガに話せればいいのだが、仲の良い親友に隠し事をしながら相談できる自信はなかった。

 現在、小説くらいしか頼る当てがないのだが、それでも。


(負けないんだから……!)


 妙なところで対抗心に火がついたフィオナである。


「でも、彼ってあんな人だったんだね。冷徹貴公子の噂もあてにならないなあ」

「ふぐっ」


 先程の光景を思い出させられた父男爵は、涙目で胸を押さえる。

 父にクッションを持たせたのは、セシリアだそうだ。手持ち無沙汰のようだったから、と言うが、おかげで倒れた時も頭を打ち付けずに済んで結果的に良くはあった。


 ぐぅ、と喉の奥で何やら飲み込んだ男爵がフィオナと目を合わせ、すぐに逸らしてしまった。


「……と、ともかく、フィオナ。食事が終わったら、私の部屋に来なさい……」

「はい、お父様」


 がっくりと肩を落とした姿に胸がちくりと痛んだが、神妙な顔をして頷く。

 そして半刻後にはジャイルズとの交際が一応、父の認めるところとなったのだった。








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