第35話 ミランダの来訪

 客室の扉が叩かれたのは、まだ朝の早い時間だった。

 昨晩のジャイルズとのあれこれでなかなか寝付けなかったフィオナは、しょぼつく目を擦りながら身を起こす。

 時計を見、朝食の案内だろうと「どうぞ」と返事をしかけてハッと身構えた。


(そうだ、気をつけなきゃ……って、あれ。でも、実際どうしろと……?)


 確認もせず部屋に人を入れるなと言われたものの、客室の扉には覗き窓などついていない。

 それに、たとえ訪れた人の顔が分かったところで、大勢いる侯爵家の使用人も把握できていないのだから、不審者であっても気づけないだろう。


 どうしようかと寝不足かつ寝起きの頭で迷っていると、待ちきれなくなったらしい訪問者はさらにノックをしてきた。

 扉を叩く高らかな音に重なって、麗しい女性の声が響く。


「フィオナさん、私よ。ミランダよ!」


(ミランダ……ええっ?!)


 フィオナは寝台から転びそうになりながら降りて、部屋の扉に駆け寄る。

 開けるとそこには、女王のように侍女たちを引き連れたジャイルズの実姉、レディ・ミランダ・コレットの姿があった。

 今日も美しい彼女は、既に髪も服も一分の隙もない装いだ。

 まるでファッションカタログから抜け出てきたようなミランダは、目を瞬かせているフィオナに眩しい笑顔を向ける。


「ねえ、いろいろ聞いたわ。それはそれとして、準備を始めるわよ!」

「あ、あの、レディ・コレット」

「ミランダでいいわ。話は後、挨拶も後。あら、寝不足? まあ、仕方ないわね。貴女たち、腕の見せ所よ。存分にやっておしまいなさい!」

「えっ、わ、きゃあっ!?」


 部屋に入りながら高らかに宣言するミランダに従う侍女たちに囲まれると、フィオナはあっという間に寝衣を脱がされてしまった。

 目を白黒させているうちに冷たいタオルで顔を拭われ、コルセットを締められ、フィオナのものではないドレスを着せられていく。

 息もつかせぬ連携プレーにされるがままだ。


(一体どうなってるの?)


 問いただしたいが、とてもそんな雰囲気ではない。

 着せられた昼用のドレスは露出こそ多くないものの、大人びたデザインは今まで身に着けたことがないタイプだ。

 ベネット夫人の店とはまた違う印象のこのドレスは、ミランダが贔屓にしているメゾンのものだと楽し気に説明される。


「私のドレスだけどリメイクしてあるから、お古だなんて気付かれないわ。ああ、ウエスト位置をあと指一本分上げて」

「かしこまりました、レディ」


 美しいドレスはフィオナの身体に合わせ、誂えたかのようにぴったりと整えられていく。

 すっかりソファーに腰を落ち着けお茶を楽しむミランダの指示の元、髪も結い上げられ入念に化粧を施され――支度が終わった頃には、だいぶ陽も高くなっていた。


「まあ! いいじゃない、なかなかよ!」

「あらあら、綺麗ねえ」


 満足そうにするミランダの隣では、いつの間にか部屋に来ていた侯爵夫人が、パチパチと手を鳴らして笑みを浮かべている。

 寝起きで激しい身支度の渦に巻き込まれたフィオナは、ようやくここで自分の姿を見せられた――全身が映る鏡には、ブルーグレーのドレスを纏った様変わりした自分がいる。


(だ、誰よこれ……!)


 流れるようなラインのドレスは薄いシフォン。その上からレースや刺繍のすっきりと軽やかな装飾が施されて、なんともシャープで優雅だ。

 さらにいつもの薄化粧とは違い、塗ってはいるがあくまで自然に見える完璧な化粧で寝不足など微塵も感じない。

 昨晩たっぷり塗られた香油のせいか、くすんだ金髪もたいへんに艶やかだ。


 鏡に映っているのは、どこからどう見ても上流階級の貴族令嬢。

 これならば、王宮の舞踏会にいても壁の花になることなどないだろう。


「あの、これは……」

「あなた、化粧映えするのね。ちょっとびっくりしたわ」


 もともと地味な顔立ちのフィオナである。侯爵家の凄腕侍女にかかれば、いかようにも変えられてしまうだろう。

 満足いく仕事ができたようで、化粧を担当した侍女も髪を結った者もミランダに労われて笑顔で頭を下げる。


「さあ、フィオナさん。出かけるわよ!」

「ふふふ、歌劇場なんて久しぶりねえ。楽しみだわ」


(歌劇場!?)


 外に行かないように、とジャイルズから再三言われたばかりだ。

 その辺りの事情を知らない可能性を思って、フィオナはミランダに説明しようとする。


「レディ・コレット、私は」

、と呼ぶように言ったわよね」


 ちろーん、と音がしそうな流し目で凄まれた。美人が睨むと迫力が違う。さすがジャイルズの姉である。

 フィオナは慌てて言い直した。


「し、失礼しました……ミランダ様、外出は控えるように言われておりまして」

「知っているわ。いいのよ、私が一緒だし」

「ですが」

「急がないと始まっちゃうわ、今日の昼公演マチネが観たいのよ! ねえ、フィオナさん。歌劇場はジルとも行ったことがあるわよね?」

「はい、先週」

「バンクロフト伯爵家の席も悪くはないけれど、ヘイワード侯爵家のボックス席は中央よ」


 首を傾げたフィオナに、ミランダはもったいぶった言い方でにんまりと目を細める。


「舞台だけでなく、リュ・レックのフレスコ画もとってもよく見えるの」

「……!」

「専用のサロンもあるわ。セレネのタペストリーは見る価値があると思うけど」


 歌劇場の天井には、たいへん美しい絵が描かれている。タペストリーも先の戦争での焼失を免れた貴重なものだ。

 ジャイルズに案内されたバンクロフト伯爵家のボックス席は舞台には近かったが、残念なことに区切りの壁やシャンデリアに邪魔されて、天井画はちらりとしか見えなかったのだ。

 目を輝かせてしまったフィオナの腕を、ミランダがさっと取る。


「さあ、行きましょう!」


 気づけば、馬車の中だった。




 歌劇場は昼公演に訪れた客があふれていた。

 だが専用の停車場で馬車を降りたフィオナたちの元には、ポーターがすぐさま近寄り案内をする。

 豪華なロビーと大理石の大階段を進む間、さかんに周囲の人々がフィオナたちを見てなにやら言っていたが、ヘイワードとコレットの両侯爵夫人の姿に気圧されたのか、直接話しかけてくる者はいなかった。


(もしかして、とか、あれがまさか、とかって……私のこと?)


 噂の、という声も混じれば、やはりフィオナを指しているのだと察せられた。

 それまでの地味な男爵令嬢であるフィオナしか知らない人が見たのなら、別人のような化けっぷりに驚いているのだろう。

 自分でも鏡を二度見したくらいだから、それも当然だろうとフィオナは思う。


 これまでの嘲笑めいた囁きとは種類の違う騒めきに落ち着かないまま、ボックス席へと到着した。


「どう、素敵でしょう」

「はい……!」

「あとでゆっくり見るといいわ。始まる前に、なにか飲みましょう」


 頭上に広がる極彩色にうっとりと息を呑んだが、天井画を見られた時間はほんの少し。まずは先に、と席に隣接している個別専用サロンに戻されてしまった。

 とはいえそこにも美しいタペストリーがある。眺めつつ開演前に喉を潤していると、それまで今日の演目について熱弁をふるっていたミランダが声のトーンを落とした。


「……強引に悪かったわね。ちゃんとお礼を言いたかったのよ。何度も頼んだのにあの弟ったら、ちっとも貴女に会わせてくれないんだもの」

「ミランダ様」


 面会の制限は、恋人のフリがバレるのを防ごうとしてくれていたのだと思う。

 それにゴードンのことに関しては、フィオナ自身が見過ごせなかったからである。

 だがミランダはお礼代わりにと、絵が好きなフィオナに天井画を間近で見る機会をこうして作ってくれたのだった。


 ジャイルズと同じ灰碧の瞳を片方パチリと瞑り、形のいい唇を持ち上げてミランダは優雅に笑う。


「というのは建前で、あなたと仲良くしておけば『レイモンド』が手に入るかもしれないじゃない?」

「あら、それはいいわねえ。わたくしにもその権利を回してくれると嬉しいわ」


 きさくな物言いに、フィオナも侯爵夫人も一緒になって笑う。


「それにね。あの弟が気に入ったのがどんな子か、気になるじゃない!」

「ミ、ミランダ様?」

「さあ、あなたたちの出会いからすべて、包み隠さずお話しなさいな!」


 がしりと腕を取られ、サロンの中に逃げ場はない。少しも引く気はなさそうなミランダと非常に楽し気な侯爵夫人に挟まれて、フィオナは目を泳がせた。


「わたくしも知りたいわねえ。フィオナさんってば照れちゃって、あんまり詳しく教えてくれないのだもの」

「ほら、大叔母様もこうおっしゃっているわ」

「そう、言われましても、た、多分、ご存じの通りかと……」


 ジャイルズとフィオナのあれこれは、余すところなく噂になった。

 だからそれ以上はないのだが、動揺したフィオナの返事は余計にミランダの好奇心をくすぐったらしい。


「じゃあ、祝賀会の晩、小庭園で出会うなり情熱的に抱き合ったっていうのは本当なのね?」


(な、なんか、だいぶ違う?!)


 キャロラインに押されて転びそうになったのを助けられたのだ。勢いよく倒れ込んだのは「情熱的」と言えなくもないが、内実は大違いである。

 噂には尾ひれがつきものとはいえ、そんなことになっていたとは知らなかったフィオナは目を白黒させた。


「それは、事故で」

「本当なのね! ねえ、公園では何を話していたの? 周りが目に入らないくらい話が弾んでいたって聞いたわよ」

「あらあら、仲良しねえ」


 恋人設定を打ち合わせていました、とは言えない。

 侯爵夫人もわくわくと目を輝かせるが、ええと、とフィオナは誤魔化した。


「ご家族のことやお仕事のことを」

「ふうん。式の日取りではなく?」

「まあ! いつにするの?」

「し、式!?」


 とんでもない、と振った手をはっしと捕まえて、ミランダはフィオナの指輪をまじまじと眺める。


「だって〈ハリエット〉でしょう、この指輪」

「そう、ですが」

「バンクロフト伯爵家が使う宝石商はいくつかあるけれど、ハリエットはその中でも一番格上よ」


 当主の伯爵が夫人に、しかも何かの記念日に贈る特別なジュエリーを仕立てるときに使う店だとミランダは言う。

 ただの恋人へのプレゼントだったらもっと手軽な店があると聞いて、フィオナはくらりと眩暈を起こしそうになった。


「……ちょうど通りかかりましたし……ジャイルズ様は、他の店をご存じないのかもしれません」

「ふふ、そう。いいわ、そういうことにしてあげる。じゃあ、ティールームで食べさせ合いっこしていた、というのはいかが?」

「っ?! そ、そんなことしていませ……っ?」


 畳みかけるようなミランダの尋問は容赦がない。侯爵夫人も期待に目をキラキラさせていて、気が遠くなりそうだ。

 だが、そんなことはしていない、と否定しようとしてフィオナはハッと思いとどまる。


(え、ちょっと待って……)


 していない。

 そんな恥ずかしいこと、絶対に、していない。

 ……だが。


「……頬についたお菓子のカケラを取ったのが、もしかしてそう見えたのでしょうか……?」


 普段セシリアやノーマンにするように、何の気なしに手が伸びたのだ。

 よくよく思い返せばあの時、近くのテーブルの何人かがカトラリーを落としていたような気もする。


(そういえば、ジャイルズ様もやけに驚いていたかも……あれはそう見えるのね。勉強になったわ――って、違うし!)


「本当に?」

「ほ、本当ですっ」

「あらぁ、恥ずかしがらなくてもいいのよ。わたくしも若い頃は、旦那様によくしましたわよ。『はい、あなた。あーん』って」

「まあ、大叔母様」

「うふふ、嫌そうな顔をするのが楽しくて、ね」


 侯爵閣下には昨晩初めて会ったが、厳めしい顔つきで威厳のある人だった。そんな人をわざと困らせていた夫人はなんというか、さすがである。


「ねえ、じゃあ……」


(まだあるの?!)


 尽きない噂の検証に心の内で盛大に焦っていると、バタン、とノックもなしにサロンの扉が開けられて、心臓に悪いながらも和気あいあいとした会話が打ち切られる。

 驚いて振り向くと、息を切らしたジャイルズがそこにいた。


「姉上! どういうつもりですか!」


 侯爵夫人とフィオナは目に入っていないようで、つかつかと進んだジャイルズはミランダの真正面に立った。


(お、怒ってる……!)


 整った顔には怖い程の凄みが浮かんでいるが、ミランダは全く平気らしい。

 ジャイルズの額に浮いた汗を引かせるようにぱたぱたと扇を弟の顔の前で動かすと、逆に呆れたように窘める。


「遅かったじゃない。舞台が始まっちゃうかと思ったわ」

「……フィオナはどこです?」

「いるわよ、そこに」

「は?」


 今、目の前を過ぎたジャイルズが振り返って、ようやくその視界にフィオナを認める。

 ミランダにコーディネートされプロの手によって飾り付けられた自分を見る表情は明らかに驚いていて、どうしようかと思う。


「フィオナ……?」

「す、すみません……」

「え……あ、いや」


 とりあえず、早速連れ出されてしまったことは謝らねばならない。

 謝罪を口にすると、バツが悪そうにジャイルズは言葉を濁した。


「……驚いた」


 ほう、と吐いたのは無事を確認した安堵の息だろう。責任感の強い人なのだ。

 顔を上げればジャイルズがいつの間にかすぐ近くにいて、今度はフィオナが驚く。なにか言おうと口を開きかけ、ミランダの声に遮られた。


「それじゃあ、私たちはコレット家のボックスに行くから。二人はこのままここで見ていきなさい」

「姉上?」

「帰りの馬車はご一緒しましょう。フィオナさん、また後でね」

「あ、あのっ」


 うふふ、と微笑むとミランダは侯爵夫人の手を取ってさっさと行ってしまう。

 開いた扉の向こうでは、開演を知らせるベルが鳴っていた。







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