第36話 歌劇場ボックス席

 しばし呆然と、二人が行ってしまった扉の向こうを眺めていた。が、不意に視線を感じてフィオナは横を見る。

 自分を見下ろすジャイルズと、ばちりと目が合った。


「あの、」

「フィオナ」


(かぶった!)


 同じようなことが前にもあった気がするが、今はそう言って笑えるような場面ではない。

 お互い気まずくなって譲り合ってしまう。


「ど、どうぞ」

「……いや、君から」


(な、なんかやりにくい!?)


 この微妙な空気は一体どうしたことだろう――なんて、心当たりが多すぎる。

 妙なことを口走りそうで、フィオナはとりあえず、間違いなく無難であろうことから話し始めた。


「……外出しないという約束を、いきなり破ってしまって」

「いや、それはいい。あの姉と大叔母の二人が相手で、君が断れるわけがない」

「でも、私……天井画に釣られました」

「そうか」


 正直に告白するとジャイルズは、フィオナらしいと小さく吹き出した。


「この前、『天井が遠い』と残念がっていたものな」

「と、とても素敵な席と舞台でしたよ!?」

「でも、絵もちゃんと見たかったんだろう」

「それは……はい」


 バンクロフト伯爵家のボックス席は、舞台に近かった。

 オペラグラスがなくとも演者の表情までよく見えて、音楽も演技もしっかりじっくり堪能させてもらえた。

 普段は滅多に観劇など来られないフィオナにとって贅沢なひと時で、まったく文句などない。


 しかし、つい漏れ出た心の声を、しっかり拾われていたらしい。

 うぅ、と恥じ入りながらも肯定するフィオナに、ジャイルズは肘を差し出した。


「せっかくだ。見ていくか」

「ジャイルズ様、お忙しいのでは?」

「まあ、大丈夫だ」


 この人の多忙さはよく知っている。フィオナが遠慮したところで意思は変えないということも。

 大人しく手を預けると、二人でサロンを後にした。




 ボックス席は広くない。バルコニーのように舞台へ張り出した手摺に沿って、背もたれのついた一人がけの椅子が間隔を置かずに三脚並んでいる。

 その後ろには、小ぶりなソファーが一台。

 椅子もソファーも同じワインレッドの滑らかなベルベットが張られ、座り心地が良さそうだ。


 どちらにも掛けずに、ジャイルズに連れられたフィオナは手摺から身を乗り出すようにして天井画を見上げる。

 わぁ、と感嘆の声をあげた横顔を、ジャイルズは満足そうに眺めた。


「……さっきここに着いてすぐ、少しだけ見たのですけど……やっぱり綺麗です」


 大きなシャンデリアを中心に円形に描かれた色鮮やかな絵画は、天上の景色だ。

 空に浮かぶ雲の中に、楽器を演奏する女神や天使たちが歌い、踊り、憩っている。

 音楽が聞こえてきそうな絵は、まさに歌劇場にふさわしい。


 祈るように胸の前で指を組み、フィオナは飽きずにうっとりと絵を見続ける。そんな自分に劇場の観客たちが注目していることなどは一向に気づかない。

 品定めするような視線を煩わしげに払うように、ジャイルズがフィオナの肩に手を回した時。開幕の曲が鳴り響いた。


「座るか」

「はい。では、あちらに」

「そこだと舞台が見にくくないか?」


 くるりと振り返りながら、フィオナは前列の椅子ではなく後ろのソファーを示す。

 疑問を浮かべるジャイルズに、にこりと微笑んだ。


「天井は見えます。それに、出演者の皆さんには申し訳ないのですけれど、この前と同じ演目ですし。舞台やほかの客席から目立たないところのほうがいいかな、と」


 よく見える最前列で居眠りしたら悪いから、とフィオナは肩をすくめる。


「眠いのか?」

「ジャイルズ様が、少しお休みになるといいかと思って」

「私?」

「お疲れのようです」


(馬車を飛ばして、あの長い大階段も走ってきたに違いないもの)


 昨夜もそうだが毎日遅くまで、それこそ分刻みで予定が埋まっていておかしくない人だ。

 フィオナのことやあの文書のことで、さらに負担は増しているに違いない。


「……寝に来たわけではないのだが」

「知っています。心配してくださったんですよね」


 礼を述べつつソファーに掛けて、ぽんぽんと隣の座面を叩くフィオナに苦笑して、ジャイルズも隣に腰を下ろした。

 三人がけにはやや狭いソファーは必然的に距離が近い。

 演奏が本格的に始まり、二人は声を潜めて会話を続ける。


「でも、少しくらい休憩していいと思います」

「しかし」

「ほら、誰も見えませんよ?」


 座面が低い奥のソファーに掛けてしまうと舞台も見えないが、ほかの観客の目も気にならない。

 女性三人で楽しむからと、付き添いの侍女も劇場の係員も不要だとミランダが断っていた。

 だからここで居眠りをしようがカードをしようが、見咎められることはない。

 ジャイルズにとっては予定外も甚だしい状況だろうが、せっかくできた不意の時間は有意義に使ったほうがいい。


「オーケストラを子守唄にだなんて滅多にできませんよ。なんでしたら私も歌いましょうか」

「アリアを?」

「よく妹に歌いましたので」


 熱が上がり、なかなか寝付けないで苦しがるセシリアを看病しながら、ねだられて色々な歌を聞かせた。

 ああ見えて歌好きの父が、小さな頃からたくさんの曲を二人に教えてくれたのだ。

 フィオナは歌手のように朗々と謳い上げることはできないが、子守唄風に歌うのはお手の物である。


「横にはなれませんけれど、目を閉じて休むだけでも違うと思います」

「……わかった」


(よし、勝った!)


 珍しく押し負けたジャイルズに、フィオナは心の中で両手を握る。

 諦めたように笑う彼に尋ねると、ここに来た経緯を説明してくれた。

 まずは午前中にクレイバーン家に行き、すでに父と会ってきたと聞いてフィオナは恐縮する。


「侯爵家に滞在することは、男爵も快く許してくださった」

「そうですか……ありがとうございます」

「それで、君に頼まれた荷物を持ったハンスと一緒にヘイワード侯爵家に着いたら、姉が来て連れて行ったと。ああ、荷物は侯爵家に預けてあるし、ハンスはクレイバーン家に帰したよ。それで、君のほうは?」

「私は朝からずっと支度で……いえ、侍女さんたちのほうが、もっと大変だったのは分かっているのですけれど」


 怒涛の身支度だった。こんなにぎゅうぎゅうとコルセットを締めたことなどないと両手を上げれば、面白そうに頷かれる。


「見違えたが、やっぱりフィオナだな」


 それはどういう意味だろう。

 装われ、粧われた今のフィオナのほうが、連れて歩くには幾分か釣り合いが取れると自分でも思う。

 だがジャイルズの言い方は、少し違う気がした。


「こっちの私のほうがいいですか?」


 今日は特別だ。化粧も髪もドレスも、一人で同じように再現しろと言われてもきっと難しい。

 瞼にも唇にも濃い色を使っていないし、肌には白粉を塗り込んでもいないのに、明らかに素顔とは違う仕上がりはやはりプロの技だ。


(でも、そのほうが恋人らしいって言われたら、頑張るしかないけど……!)


 念のために訊くと、予想外の答えが返る。


「驚いたし、綺麗だとは思うが」

「えっ、あ……きれい、ですか」


 言われ慣れていない褒め言葉はむず痒い。

 なんだかいたたまれなくなって、こうして隣同士に掛けていることに今さら落ち着かなくなってしまう。


 戸惑って横を向いたフィオナの耳の後ろに、ジャイルズの指が触れる。

 ピクリと肩が震えて目を上げれば、すぐ近くで灰碧の瞳が細められた。

 今になってその色が、自分が着ているドレスの色と似通っていると気づく。


「フィオナであればいい」


 返事の言葉は浮かばずに消え、何か言おうとした声は最初のアリアに飲み込まれた。

 ボックスの中に沈黙が降りて、不意に昨晩のことを思い出す。


 薄明かりの部屋で二人きり。

 壁に縫い付けられた手は、痛みを感じたり痕が残るような強さではなかった。

 ――振りほどけなかったのは、きっと、呑まれたから。


 柔らかな髪が頬を撫でたお返しに、フィオナの唇がジャイルズの頬に触れたことも、お互いにあえて口に出さないでいる。


 うなじに触れていた手がソファーの背もたれに回り、まるで昨夜と同じようにフィオナの首筋にジャイルズの顔が近づいた。


「あ……の、」

「香水も?」

「は、はい。ミランダ様、が」


 掠れるほどの小声なのに、耳元で囁かれるとぞくりと背筋に震えが走る。

 怖くはないが、妙に心臓がうるさい。

 ジャイルズは深く息を吸い込むと、細く長いため息を吐いた。


「……それだけは戻してほしい」

「っ、は……い」


 華々しいブーケの香りは嫌いではないし、今日のフィオナには合っていると思う。

 とはいえ、やはり普段使っているもののほうが自分でも落ち着く。

 ハンスに頼んだ荷物の中に、いつもの、雪解け水のそばで咲く白い花のトワレが入っているはずだ。


 なんとか返事をすると、体を戻し前を向いたジャイルズは上着から時計を取り出した。

 手の中にごく自然に収まっている金の懐中時計は、元はフィオナのものだ。


 時間を確かめパチリと蓋をして、丁寧にまた内ポケットに戻す。

 しっかりと収まったのを確かめるようにジャケットの上から軽く撫でるまでの一連の動作を、じっと見てしまった。


「……その時計、持ち歩いてくださっているのですか?」

「ああ」


 驚きに目を丸くしたフィオナと対照的に、ジャイルズは至極当然といった言い様だ。


(もっと立派なのを持っているのに?)


 指輪と交換にして契約書代わりに渡したものだが、わざわざ身につけず家に置いていても問題ない。

 自分は指輪を毎日つけているが、これは周囲に見せるために贈られたのだ。

 ふと、ミランダに指摘された指輪のことが頭を過るが……触れ合っていた肩の重みが変わる。

 見ると、ジャイルズはフィオナの肩に頭を預け、目を閉じて静かな呼吸を繰り返している。


(……やっぱり、疲れてるよね)


 あっという間に眠ってしまったジャイルズに、なんとも言えない気持ちになる。

 穏やかに上下する胸元を眺めていたら、フィオナもあくびが出た。


(そういえば私も寝不足だったな)


 少しだけ。そう思って目を瞑るとすぐに睡魔がやってくる。

 美しい天井画を眼裏に描いて、オーケストラと重唱の響きに包まれて。

 支え合うように寄り添いながら、二人は微睡みへ落ちていった。




 ――ソプラノ歌手が高らかに歌い上げるアリアに、ふと目を覚ます。


(わ、けっこう眠っちゃった?)


 慌てて目を瞬かせ歌に耳をすますと、どうやら一幕の終盤のようだ。

 ほっと息を吐いて隣を見れば、すっかりフィオナの肩に頭を置いたジャイルズが眠り続けている。

 姿勢が辛くないかと心配になったが苦しそうな様子もなく、どうやら大丈夫なようだ。


(幕間になったら起こしたほうがいいのかな)


 そう思いつつ、はらりと目にかかっていたジャイルズの前髪をそっと直すが、起きそうにない。

 幕間に客席を立つのは社交のためが一番で、ルールでもマナーでもない。せっかく熟睡しているのだし、このままでいいだろう。


 流れる旋律は、特にセシリアが好きで請われてよく歌った曲だ。

 聞こえてくるよく知った歌を、自分も口ずさむ。


「……ん、」


 懐かしく思いながら小さく歌っていると、ジャイルズが身じろぎをして、ふと肩が軽くなる。


(あ、起こしちゃった?)


 歌うのをやめたフィオナの片頬を、ジャイルズの手が包んだ。


「……歌」

「ごめんなさい、うるさかったですか?」

「……ちがう。……で、……」


 ジャイルズは目を瞑ったまま、なにか呟いている。

 だが、盛り上がりに差し掛かったオーケストラにかき消されて、フィオナにはよく聞こえない。

 近づこうにも、もう十分近い気がする。

 どうしたらいいかと迷うフィオナの名が呼ばれたのだけは、かろうじて聞き取れた。


「はい。ここにいます」


 頬から移り、首の後ろに回された手にくっと力が入り、二人の距離が縮まる。

 同時に、返事をした声の出所を手繰るように近付いたジャイルズの唇が、フィオナのそれに重なった。


 ――ほんの数秒。

 惜しむようにフィオナの唇を甘く挟んで離れていく。ジャイルズの瞼が震え、ゆっくりと持ち上がった。


 周囲からは死角になったボックス席の奥で、灰碧の瞳が柔らかく笑む。

 誰よりも満足そうに、幸せそうに。

 真っすぐにフィオナだけをその瞳に映して。


 またすぐに瞼が下りて、ことんとジャイルズの頭が肩に乗る。

 触れていた手がぱさりとフィオナの膝に落ちると、静かな寝息が戻った。


(……っ、ど、どうし……!?)


 クライマックスを迎えた演奏に合わせて鳴る心臓が、ドクドクとうるさい。

 肩の重さも、膝の上にある手の温度も分からないくらいの混乱の渦中にフィオナは投げ出されていた。


 隣を見られなくて逃げた視線は、助けを求めて天上の女神に向かう。

 何度見ても美しい天井画に先ほど覚えた感動が、今はない。

 困惑する心を抱えて目を下げると、握りしめた手に嵌る指輪がきらりと光った。


(……困った、な……)


 あの瞳は、微笑みは、いけない。

 どんな言葉よりも雄弁すぎた。


 ……気づかないほうがいいと、ずっと目を逸らしてきた。

 今この身に触れる熱も、重さも、息遣いも。

 震える、胸の内も。


(だって……このお芝居は、期限付きだもの)


 恋人のふりはシーズンが終わるまで。

 そういう約束だ。


 ジャイルズはきっといつか、ふさわしい人と巡り合う。

 フィオナにも夢がある。もうすぐこの手に掴めるはずの夢が。


 ――舞台は一幕のクライマックス。

 恋人たちの別れの場面だ。


 すぐにまた眠ったジャイルズはきっと覚えていない。

 だから大丈夫。

 なにもなかった――ことに出来る。フィオナさえ、そう振る舞えば。


 きゅ、と噛みそうになる唇を、動きの覚束ない指先で触れて力を抜いた。

 零れる吐息がやけに熱っぽくて、そのせいか目の奥が痛い。


(……忘れよう)


 最後のアリアの一節を、フィオナは一緒に口ずさむ。

 甘く、切なく。どこまでも優しく。

 仮初めの恋人が贈ることができるのはこんな、束の間の安らぎだけだから。


 この日の昼公演。ヘイワード侯爵家のボックス席の扉は結局、終幕まで開くことがなかったのだった。







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