第37話 幕が下りて

 結局、ジャイルズが目を覚ましたのは終幕も最後の頃だった。

 フィオナに寄りかかっていた頭を戻し、目を瞬かせる。


「悪い、重かったな……もしかして、終わるところか?」


 ソファーから背を伸ばして舞台を見、「信じられない」と呟くジャイルズに、フィオナはさっぱりとした口調で返事をする。


「ずっと、ぐっすりお休みでしたよ」

「……一度も起きていない?」

「ええ」


 言い切るフィオナを確かめるように、ジャイルズは目を眇めた。

 不可解だとも、不安だとも取れるその視線が口元に注がれているようだが、全力で気のせいだと自分に言い聞かせる。


(大丈夫、何もなかった。だいじょうぶ!)


 再度すっかり眠り込んだのを見計らって、フィオナの口紅が移ってしまった唇をそっと拭ったのにも気づかないほど熟睡していたのだ。

 僅かに意識があったとしても、記憶はぼやけてきっと夢だと思うだろう――いや、そう思わせる必要がある。

 二人の関係は、お芝居でなくてはならないのだから。


「フィオナ」

「実は私も、ところどころ眠ってしまいました」


 にこりと渾身の笑みを浮かべる。

 さらに「贅沢な昼寝だった」とまで言えば、ジャイルズは疑問を打ち消すように軽く首を振った。


「……そのようだな」

「首とか痛くないです?」

「いや、平気だ」


 言われて気付いたように肩を触り、ふう、と胸から息を吐く。

 ちょうど舞台が終わり、観客席からは大きな拍手と喝采が上がった。


「不本意だが、かなりスッキリしているようだ」

「よかったです。この後も予定があるのでしょう?」

「そうだな、一度戻って――」


 律儀にこれからの予定を告げながら、ジャイルズはソファーから立ち上がりフィオナに手をさしのべる。

 カーテンコールまで見てから出ると、劇場前は帰りの客でかなり混雑する。

 それを避けて、今のうちに帰ろうというのだ。


 来たときのように――いや、ジャイルズがいる分、来たとき以上に注目されるだろうことを思えば、フィオナが拒む理由はない。

 素直にジャイルズに手を預けると、最後にもう一度天井画を見上げる。

 鳴り止まない拍手と歓声のせいだろうか。麗しい女神たちには最初に感じた輝きが戻っている。


(……きれい。よかった)


 元通り、美しいものを美しいと感じられるようになったことに、フィオナは心の中で盛大にほっとした。


「天井画は満喫できたか?」

「はい。今日で一生分、堪能させてもらいました」

「大げさだな」


 軽く笑われるが、いつでも歌劇場に来られるジャイルズとフィオナは違う。

 観劇自体は今後も機会があればできるだろう。しかし、最上のボックス席で眺められる機会は、これがきっと最後だ。


 預けた手をしっかりと握られたままボックスを出ると、隣接したサロンには既にミランダと侯爵夫人が待っていた。

 フィオナたちが姿を現すや否や、ミランダは扇でジャイルズを指しながらツカツカと歩み寄る。


「ジャイルズ、あなたね! 一度くらい幕間に出てきなさいよ!」

「姉上」

「自分が何をしたか分かっていないとは言わせないわよ」


 休憩時間のたびに大勢にあれこれ聞かれて大変だった、とミランダは恨めしそうに、だが、どこか楽しそうにジャイルズを詰る。


(えっ? あ、そうか……!)


 観劇自体は問題ないが、ボックス席という密室で二人きりの男女が幕間になっても姿を現さなければ、はしたない想像をする人は少なくない。

 ジャイルズはともかくとして、未婚女性のフィオナにとっては歓迎できない評判が立ってしまう。

 自分のことなのにそちらに関しては気が回らなかったフィオナは、今頃になって慌てた。


 そんな色っぽいことはなにも――なかったとは言えないが、認めるわけにはいかないし、実際ジャイルズはずっと眠っていたのだ。

 とはいえ、観劇の態度としては居眠りだって褒められるものではないのだが。


「あ、あのっ」

「んもう。仲良くしているのかと思って期待したのに、二人して眠ってるってどういうこと?」

「覗きとはいい趣味ですね、姉上」


 説明しようとしたフィオナを遮って、呆れたようにミランダは手を腰に当てる。

 そんな姉を、ジャイルズが胡乱気に睨み返した。


 サロンとボックス席の間にある扉には、船についているような丸いガラスがはまっている。

 そこからは、ソファーに掛けた二人の後頭部が見えただろう。


「幕間の度にサロンここに来て、アリバイをつくってあげたのよ。感謝なさい」

「別に」

「あなたはどうでも、フィオナさんには必要なの」


 ジャイルズは不満そうだが、この件に関しては眠っていたジャイルズではなくフィオナの不備だ。

 ミランダの気配りが自分にも向けられたことに、つくづく恐縮する。

 しかも、窘められるかと思ったのに、おずおずと礼を言ったフィオナに向けられたのは同情の眼差しだった。


「大の男に寄り掛かられて重かったでしょう、フィオナさん」

「いえ、実は私も」

「仕方ないわ。動けないのだから一緒に居眠りするしかないものね」


 恥ずかしながら告白したものの、すっかりバレていて赤面するしかない。

 せっかく連れてきてもらったのに申し訳ないと謝ると、侯爵夫人がゆったりと笑った。


「フィオナさんは朝、早かったものねえ」

「す、すみません」


 うふふ、と楽し気に侯爵夫人に微笑まれ、さらに赤くなった頬を両手で押さえる。

 身の潔白が証明されているのはなによりだが、年頃の令嬢としては恥ずかしすぎる失態である。


「ジャイルズもすっかり顔色が良くなって。よほどいい夢を見られたのでしょうねえ」

「……恐縮です」


 侯爵夫人の言葉に内心でドキリと焦る。だがジャイルズは、さすがに多少気まずそうだがそれだけだ。

 やはり覚えていないと分かって、フィオナはほっと胸をなでおろした。


「ジル。これで貴方への借りは返したわよ」

「姉上に貸しなどありませんよ」

「あら、可愛いこと言ってくれちゃって。いつもそうだといいのに」

「余計なお世話です」


 やっぱり可愛くないと、ミランダは弟を睨みつつコロコロと笑う。

 貸しとか借りとかはよく分からないが、こうしてみると姉弟仲は悪くないと感じる。


(そういえば、ミランダ様のご結婚前はご姉弟でパーティーに出られていたってオルガから聞いていたかも)


 それぞれ求婚者も多い美貌の姉弟だ。面倒や誤解を避けるためにそうしていたのだろう。


(だとすると、上手くいっていないのはご両親と、ってことね)


 ジャイルズは家族についてあまり話さない。

 たまに言葉の端に滲んだ雰囲気からは仲が良いとは思えず、かといって憎んでいるという感じでもなかった。

 高位の貴族にありがちだが、親子関係が薄いのだろう。

 フィオナには立ち入れない事柄だが、こうして姉であるミランダとは皮肉の応酬を含め軽口をききあう仲であるということに安心する。


「さあ、混む前に行きましょうか」


 そうして降りたロビーに人はいるものの、まださほどの混雑ではなかった。

 既にポーターに連絡をしていたようで、間もなく馬車も来るとのこと。これから議会の集まりに向かうというジャイルズとは、ここでお別れだ。


 横顔に視線を感じて見上げると、ジャイルズがフィオナを見下ろしていた。


「ジャイルズ様?」

「……」


 なにか言いたげな唇が開くのと同時に、背後から声が掛かる。


「あ、いたいた! おーい、ジル!」

「リック……と、父上?」


(えっ!?)


 呼びかけの声に振り返ると、後方に停まった四人乗りの大きい箱馬車から降りたリチャードが小走りで向かってくる。

 馬車の脇には、ジャイルズやミランダとよく似た髪色の紳士が立っていた。


(あの方が、バンクロフト伯爵……)


 威厳があって近寄りがたい雰囲気が、遠目にも分かる。

 普段は華やかで朗らかなリチャードも、心なしか余裕がない表情だ。ジャイルズにさっと警戒が走ったのを感じ取って、フィオナも姿勢を正した。


「どうした?」

「いやー、ちょっと予想外の事態……って、ミス・クレイバーン? え、本物? うわあ、驚いた。なにどうしたの、すっごい綺麗になっちゃって」

「ちょっとリック、『なっちゃって』とは何よ。私のコーディネートに文句でも?」

「ああ、いえ。失礼しました、レディ・コレット。……惜しいなあ、ジャイルズの相手でなければデートに誘うのに」


 流れるようにフィオナの手を取り軽いキスをするリチャードは、いつも通りにパチリとウインクをする。

 今日も見事な社交辞令だと、フィオナは改めて感心する。握った手をなかなか離さないリチャードとの間に、ジャイルズがぐい、と割り込んだ。


「リック、用件は」

「はは、そんなに威嚇するなって。実は俺もまだちゃんと聞いてないんだ。詳しくは向こうで」

「三人で?」


 ジャイルズの視線は、馬車の前にいる自身の父親に向けられている。感情の乗らない声に、リチャードが肩を竦めて苦笑した。


「むさい男三人で馬車に押し込められるより、美しい花を愛でていたいのは俺のほうだってば。ほらほら、行くぞ」

「……分かった。では、先に失礼。大叔母様も姉上も、これ以上あまり勝手なことをしないでください」

「護衛なら連れてきているわよ」

「そういう問題ではありません」

「心配性なのねえ。分かったからもう行っちゃって」


 ひらひらと扇を振って追い払うミランダを横目に、ジャイルズはフィオナのほうを向く。


「フィオナ。……また、後で」

「はい。お気をつけて」


 ジャイルズが、なにか言おうとした言葉を飲み込んだことには気付かないふりで、にこりと微笑む。

 そして、急ぎ足で去る二人の背に丁寧に礼をした――ずっとフィオナを見ている、ジャイルズの父親に向かって。


 乗り込む彼らを眺めているうちに、フィオナの前にも侯爵家の馬車が停まる。あちらの馬車がどこに向かって走り去ったのかは確認できなかった。


(……予想外の事態って)


 ジャイルズの父が、あの文書のことを王太子殿下に報告することになっていると言っていた。だから、きっとその件だろうとは思う。


 絵画の販売や相談で関わった以外の人に積極的に興味を持たなかったフィオナは、貴族の勢力図などぼんやりとしか分からない。

 自分が多少なりとも派閥争いに絡むとは思いもしなかったが、こんなことならもっといろいろと知っておけばよかったと後悔する。


「お父様、久しぶりに見たわ。相変わらず娘の私にも不愛想ね」

「そうねえ」

「もう、大叔母様に挨拶もなくて」

「うふふ、そういうところは変わらないわねえ」


 揺れの少ない馬車の中で今しがたの出来事を考えていると、ミランダの声で現実に引き戻された。

 実の子どもに対しても笑顔ひとつ見せないのは昔からだ、などと零される愚痴に、侯爵夫人が相槌を打っている。


「フィオナさん。うちの親はあれが通常運転だから気にしないでね」

「あら。あの子もだいぶ丸くなったのよ」


 侯爵夫人にかかれば、遠くからでも威圧感が漂ってくるバンクロフト伯爵ですら「あの子」になるようだ。

 そんな場面ではないとは思うが、つい笑いそうになってしまう。


「大叔母様ってば。でも、そうね……ジルの婚約解消があってから、少し変わったかも」

「そうそう。分かりにくいですけどねえ」

「あ、ねえフィオナさん。ジルの婚約者だった人のことは聞いていて?」

「いえ、詳しくは」


 ジャイルズに婚約者がいたことは知っている。

 だが、破棄になった顛末や相手がどういう令嬢だったのか、などは聞いたことがない。


 成人前の貴族の婚約は、政略によるものが大概だ。

 フィオナには分からない勢力争いによる何かがあったかもしれないし、そうでなくとも偽の恋人の自分には必要のない話であろう。


「ま、昔のことよ。私も詳しくは知らないのだけど、」

「あの、ミランダ様。そこまでで」

「え?」


 話し始めようとしたミランダを止めると、驚いた顔で見返された。


「ジャイルズ様がご自分からおっしゃらないことを、私が勝手に聞くわけにはいきません」

「……そう。ふふ、真面目ねえ」

「申し訳ありません。ですが、やっぱり」


 気にならないと言えば嘘になる。

 だが、本人から聞くのでなくては意味がないとも思ってしまう。


(意味? 意味って……なんだろう)


 自然と浮かんだ気持ちが自分でもよく分からない。

 軽く身じろぎをした右肩からふわりと薄く漂った移り香に、ドキリと胸が鳴った。

 シダーウッドの、ジャイルズの香りだ。


 忘れたはずのことが急に蘇って、さっと頬に朱が走る。

 気まずげに目を逸らしたフィオナに、ミランダは満足そうな表情で思わせぶりに口角を上げた。


「いいわ、今の話は気にしないで。大叔母様、どこか見たいお店とかはあります?」

「あら! わたくしね、いくつか行ってみたいところがあるのよ」


 話題は流行りの店に移り、きゃっきゃと二人は盛り上がる。

 ――外出を控えるようにと言われた昨夜はなんだったのだろうとフィオナが疑問に思うほど、その日は王都を連れまわされたのだった。

 


 






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