第62話 白の離宮

 小さな湖のほとりに建つ白亜の城は、非常に優雅で趣がある。

 周囲は爽やかな緑の木々に囲まれて清涼な空気に満ちており、水面は凪いで澄んでいた。

 短い桟橋のように湖上に張り出した半円形の大広間には、窓が多く取られている。湖が一望できるそこからの夕映えは特に絶景であるという。


 二人が到着したのは、日が傾き掛けた頃だった。

 招待客が皆、当日離宮に集まるため、門から離宮への長いアプローチには豪華な馬車が連なる。

 ゆっくりと進むその列の中に、フィオナとジャイルズもいた。


(ちょっと待って、今通り過ぎた塔の前にあった石像って、ブランドンじゃなかった? それに、上の薔薇窓って、もしかしてオリジナル?)


 アプローチの左右には趣向を凝らした庭園が広がる。初代城主が建てたと言われる古い塔も健在で、外だけでも十分に見所満載な離宮だ。

 道中はどうしても緊張のほうが勝ってしまい言葉少なだったフィオナだが、いざ到着すればそれどころではない。

 建築は詳しくないが古い建造物ならではの重みや歴史が感じられ、つい馬車の小窓から外を覗いてしまう。


「フィオナ」

「あっ、は、はい!」


 しかし本日は舞踏会。観光や見学に来たのではない。

 ハッとして、乗り出し気味だった身体を座面に戻す。


「宮殿内にも見るものはたくさんあるから。ブランドンと薔薇窓は、今日は諦めてくれ」

「……私、声に出していましたか?」

「気付かないくらい夢中になっていたようだ」


(~~や、やだ!)


 早速の失態に両手で顔を覆う。

 ゆったりと足を組んだジャイルズは気にするなと言ってくれるが、非常に恥ずかしい。


「す、すみません……」

「いや。せっかくだ、楽しんでくれたほうがいい」


 指の間から見えたジャイルズは、呆れも馬鹿にもしていない。くつくつと笑っているのは、フィオナの反応が想像通りだったからだろう。


「私と話すより古い建物や絵を見せたほうが、フィオナはよほど緊張が解けるな」

「あの、そういうつもりでは」

「分かってる。今はそれでいい」


?)


 その言葉が気になって手を下ろしてジャイルズを見上げると、まっすぐにフィオナを見つめる彼と目が合った。

 予想以上に近いところにいて息が止まる。


「ようやくこっちを見た」

「ジル様」

「上の空だったし、今日はずっと目が合わない」

「……いえ、あの……だって」


 最近のジャイルズは、とみに表情が豊かになった。

 嬉しそうに頬を緩ませたすぐ後でしょんぼりとされてしまうから、妙に罪悪感が出てしまう。

 これまでもフィオナの前では笑ったり怒ったりと、わりとストレートに感情を出してくれていたと思う。が、ここしばらく――正確には叔父の絵を開封したあの日からは、さらに遠慮がなくなったようだ。


(……悪いことでは決してないのだけど、心臓には悪いというか!)


 何事にも心を乱さない「冷徹貴公子」なんて、聞こえはいいが、言われて嬉しいものではないはずだ。だから、この変化は喜ぶべきものだろう。

 だが、あまりに無防備な姿を見せられれば、外見の良し悪しに関係なく、こちらだって心が動く。

 それとは別に、今日は。


「だって、なに?」

「さすがに、緊張します」

「会場にいる大叔母や姉に会いに来たと思えばいい。あとは全部ついでだ」


 王妃殿下の舞踏会を「ついで」と言い切るジャイルズに、フィオナは苦笑する。

 そう思えたらどんなにいいか。皆にも楽しんで来いと言われたが、とても浮かれた夢気分ではいられない。


「今夜は出席することが一番の目的だ。社交は気にしなくて構わない」

「でも」

「今までのパーティーと同じだ」


 いや、絶対に違うとフィオナは内心で首を振る。

 それに、だ。


「あと……ジル様が、綺麗で眩しくて」

「フィオナ」


 下を向いて口ごもれば、そっと顎下に手が当てられた。

 全く力の入っていない指一本で、簡単に顔を上に向けさせられてしまう。


(うぅ、ほらやっぱり、なんかキラキラしてるし!)


「それは私が言うべき言葉だと思うが」

「っ、なっ……?!」


 泳いでしまう目をがっしと捉えられて大真面目な顔で言われて、返すべき言葉が見つからない。

 首まで赤くなったそのとき、カタンと馬車が停まり、到着の声が掛かった。


(た、助かった……!)


 ほっと息を吐いたフィオナからジャイルズの指が離れる。


「力は抜けたか?」

「……!」


(う、わぁ……やられた!)


 どうやら、どうしても固くなってしまうフィオナの気を紛らわす策だったようだ。

 気まずい思いをさせられたものの、不思議と嫌な気分にはならない。

 悪気なさげに目を細められて、合点がいったフィオナは大げさに肩を落として息を吐いて――血色の戻った顔には、自然な笑みが広がった。


「……ありがとうございます」

「フィオナはもう少し、他人を頼ることを覚えたほうがいい」

「? ジル様に頼ってばかりですよ」


 フィオナは去年まで、仕事以外で社交目的のパーティーにほとんど顔を出したことがなかった。

 それゆえマナー的には及第点でも、貴族的な会話や場の取り持ち方にはまだ不安がある。場数を踏んで少しは形になったが、それだって、ジャイルズが常に隣にいてくれるからこそだ。


(本当に、申し訳ないくらい頼りっぱなし)


 芝居に必要だから参加するパーティーということもあり、かなり助けてもらっている。普段のフィオナならば考えられないくらいだ。

 それゆえ、後ろめたさは常にあった。


「だが、どうにか自分一人でこなそうとしているだろう」

「いけませんか?」


 フィオナに母は亡く、父は領地と病弱なセシリアを守ることで手一杯。

 健康に恵まれて身心の成長も早かったフィオナはこれまでの人生、自分でなんとかする癖がついてしまっている。

 ハンスはいつも世話を焼いてくれるが、最後の最後は主従の関係が残る。ノーマンからだって、頼られることはあっても頼ることはまずなかった。


(そういえば。小さい頃から何も気にしないで甘えられたのは、叔父様だけね)


 その叔父も、生来の奔放さが存分に発揮されている今は、逆にフィオナが面倒を見ている側だ。

 だから自分がやらなくては、となるのが当たり前になって久しい。


 そんなフィオナが、たとえ貴族の社交に関することだとしても、全面的にジャイルズに頼ってしまっている。改めて思うと、この状況をこんなに素直に受け入れている自分に驚きだ。

 でも、このままで満足していいわけがない。

 時間はもう残り少ないが、少しでも報いたいと思ってしまう。


「……社交だけの話ではないのだが」

「?」

「まあ、いい」


 ジャイルズは問いたげに首を傾けるが、扉が開かれたことで会話は打ち切られた。

 馬車を先に降りたジャイルズが差し出す手に、フィオナは自分の手を重ねる。

 そうして、白の離宮へ二人は足を踏み入れた。





「すごい……! 大変です、ジル様」


 案内に従って宮殿内を進むフィオナは、さっきから目の休まる暇が無い。

 調度や備品も興味を引くものが多く、いたるところに絵画も飾ってある。

 緊張も忘れてうっかり立ち止まりそうになるフィオナを、腕を預けたジャイルズがそれとなく誘導する。


「嬉しそうでなによりだが、人が増えてきた。混雑する前に広間に行こう」

「あ、はい。すみません。きりが無いですよね」


 ぽうっと上気した顔のまま、我に返って謝るフィオナに、ジャイルズが柔らかい笑みを返す。

 最近ではおなじみになった彼の笑顔だが、まだ見慣れぬ人が多く周囲が軽くざわつくのが分かる。


 その中には自分を品定めする声も混じっているようだが、すっかり慣れてしまって気にもならない。

 たとえ相手がフィオナでなくても「ローウェル卿の恋人」である限り、なにかは言われる。

 釣り合わないと分かっていても、自分は視線を逸らさず背筋を伸ばして、隣のジャイルズが恥ずかしくない行動をとるだけだ。


「広間にもタペストリーや大作が掛かっていたはずだ」

「それは見応えがありそうですね……わぁ……!」


 大広間に入りまず目に入ったのは、純白の壁に、湖を見渡すようにぐるりと付けられた大窓だ。

 その数の多さと広さは、まるでコンサバトリーを思わせるほど。

 普段は鎧戸がつけられており、こういった時にだけ全面が開かれるというが、それにしても贅沢な空間だ。


 ガラスの向こうは、今まさに太陽が湖面に触れるところだった。

 空を朱に染め、水面を金色に輝かせているあの夕日が沈みきる――それが舞踏会の始まりの合図になる。


「……素晴らしい眺めですね」

「そうだな」


 小さく感嘆の声を上げるフィオナを、ジャイルズはスマートに窓辺へと連れて行く。


「ジル様、あそこに鳥が」

「鴨だな」

「ちょっと珍しい色合いじゃないですか?」

「そうか?」


 湖面には水鳥も泳いでいた。あの鳥たちも、もうじき寝ぐらに帰るのだろう。

 そんな景色だけではなく、どこも美しくてあちこちを眺めてしまう。


 楽団は静かな調子の曲を奏で始めており、早々に身体を揺らしている人もいる。

 噂に聞く水晶のシャンデリアは大小併せて六灯もあり、ちょうど夕日を受けてきらびやかなことこの上ない。


 乳白色を基調とした寄せ木のようなデザインの大理石の床も、惜しみなく彫刻の施された柱も、華やかな参加者の装いも含めて、いたるところが非日常。

 まさに、妃殿下の舞踏会にぴったりだ。


 だが、なにかを見つけて話しかけようと顔を上げるたび、必ずジャイルズと目が合う。

 つまり、彼の視線はずっとフィオナに固定のままなのだ。


(えっと、なんだかもう……!)


 そう分かってまた胸がむずがゆくなってしまうが、ジャイルズのそれは恋人同士ならなんらおかしくない態度である。たぶん。

 動揺を見せるのは失策だと、どうにか平静を心がけた。


「そうだ、フィオナ。ここでは踊る場所と飲食できる場所は完全に分けられている。なにか飲むのなら、向こうの部屋に……」

「ああ、来たわね!」


 説明してくれるジャイルズを遮って、聞き覚えのある声が響く。

 そちらを向くと、コレット、ヘイワードの両侯爵夫妻が揃っていた。


「姉上、大叔母様」

「まあまあ! フィオナさん、綺麗なドレスね。よく似合ってますよ」

「ほんと。その色いいわね! あら、ネックレスもぴったり」

「ありがとうございます。お二人もとても素敵です」


 お互いすぐに近寄ると、挨拶もそこそこに両夫人にしげしげと全身を眺められてうんうんと頷かれる。メゾン・ミシェーレのドレスは無事に合格点をとれたらしい。


(心配はしていなかったけれど、着る人が私だものね)


 話し始めたヘイワード侯爵夫人にフィオナが相づちを打つ隣で二人の侯爵閣下は談笑を続け、ミランダは弟のジャイルズを揶揄い始めた。


「ちゃんと来たわね、ジル」

「行くと言ったでしょう」

「そう言って来ないパーティーがいくつあったと思って?」


 やれやれと肩をすくめたジャイルズが、話題の転換を図る。


「父上たちは?」

「向こうで誰彼につかまっているわ。後で話せるでしょう……って、あら、リック」

「やあ、皆さんお揃いで」


 朗らかな声に振り向けば、ジャイルズと並ぶほどきらきらしい貴公子が向かってきていた。

 鮮やかな金髪にターコイズブルーの瞳。今日も華やかな出で立ちのリチャードは、フィオナに目を留めると大げさに両手を広げて驚いてみせる。


「あっ、ミス・クレイバーン。すっごい綺麗じゃないか!」

「ラッセル卿、ご無沙汰しております」

「なになにー、そんな他人行儀な。今夜は俺とも踊ってくれるだろ?」

「おい、リック」

「こんなに美しいご令嬢を独り占めはよくないぞ、ジル」


 明らかなお世辞もカラッと言われると楽しいだけだ。ふふ、と微笑んで礼を言うフィオナとは裏腹に、ジャイルズはむすっとした顔で不満を隠そうとしない。

 そんな友人を肘で突いて、リチャードは非常に楽しそうだ。


(ラッセル卿は相変わらずね)


 自分たちの「恋人のフリ」を思いついた当の本人であるリチャードは、事情を全部知っている。

 秘密がバレないように常に気を張る必要のあるフィオナにとって、警戒しなくていい貴重な相手だ。

 ジャイルズは「他の誰とも踊らない」と言ったが、そうするとかなり悪目立ちすることは否めない。


 ――他の誰かと踊るなら、相手がリチャードだと助かる。

 そう思って、フィオナは申し出を断り続けるジャイルズのそばに行き、腕に触れた。


「ジル様」

「いいだろ、一曲だけ……え! へえ、仲良くやってるようでなによりじゃないか」


 フィオナからの呼びかけが変わったことに一瞬目を丸くしたリチャードは、にやりと企みが成功したような笑みを浮かべる。

 それにジャイルズは深く諦めの息を吐いた。


「……一曲だけだからな」

「お、やったあ! じゃあ、後で迎えに来るよ」


 そう言ってリチャードがまた人混みに消えていくのを見送ると、窓辺で夕日を見守っていた人々からどっと歓声が上がる。

 同時に、楽団が舞踏会の開始を祝す演奏を始めた。

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