第70話 泡沫の午睡

 薬湯の入ったカップを持たされて、昼食は終了した。

 紅茶を長時間煮出したような液体はお世辞にも飲みやすそうと言えなくて、フィオナはカップを口元に運んだところで止まってしまう。


「甘くしてあるそうだから」

「の、飲みます」


 覚悟を決めてぐいと流し込むと、予想以上に甘苦い味が口内に広がった。


(甘いけど、それ以上に苦い~~っ)


 息を止めて飲み込み、カップを抱きかかえるように俯いてしまう。

 プルプルと小さく肩を震わせて薬を我慢するフィオナに、ジャイルズは気の毒そうに苦笑する。


「それが一番、身体に負担が少ないと」

「先生からもそう伺いました……」


 涙目で残りの薬湯もなんとか流し込む。普段、体調を崩さないフィオナは薬に慣れておらず、非常に苦手だった。

 カラになったカップを抜き取られたフィオナの手に、代わりにころりと飴玉が置かれる。


「……『よくがんばりました』?」

「そうなるかな」


 どう考えても子ども扱いだが、それ以上に甘やかされているのが分かって、なんだかむずむずする。

 薄黄色の丸い飴を口に含むと、舌に残った苦みは爽やかなレモンの香りに消されていった。


「似たような薬湯を、妹も小さい頃からよく飲んでいたんです。私も、ご褒美に飴をあげればよかった」


 文句一つ言わずに幼い頃からこんな薬を毎日飲んでいた、病弱な妹の強さを今になってしみじみ実感する。

 家に戻ったら妹に「偉かったね」と絶対に言う、と遠くを見るフィオナにジャイルズが笑みを向けた。


「では、今日頑張ったフィオナのことは私が褒めよう」

「ふふ、じゃあ、ジル様が苦い薬を我慢したら私が飴をあげますね」


(――そんな時は来ないけれど)


 フィオナとジャイルズの関わりはもうすぐ終わる。だからこんなふうに先のことを言うのはおかしいと分かっている。

 けれど、日差しが降り注ぐこの部屋が眩しくて、明るくて。


(それに、ジル様があんまり柔らかく笑うから)


 思わず言葉が零れてしまった口と、それから目も閉じて、フィオナはころりと舌の上で飴玉を転がす。


「……ああ、そうしてくれ」


 少しだけ言葉に詰まった返事が、目を瞑ったフィオナの耳に届く。

 甘酸っぱい味が恋人のフリにぴったりだと、フィオナはそんなことを思った。




 ジャイルズの食事も終わり、話題は自然と離宮でのことになる。フィオナは新聞の山に目を向けた。


「絶対騒ぎになっていると思ったのに、記事には何も載っていなかったです」

「招待客への対策は、リックがうまくやってくれた」


 広間から遠く、人が少ないフロアだったことが幸いして事件に気付いた招待客はいなかった。

 あの場であったことを知るのは警備の兵や、王太子の側近たちくらいだ。


 漏れ聞いたり察したりする者は皆無ではないだろう。だが、王太子が口を閉ざしていることを表だって掘り返す者はいない。


 もちろん調査は続けられており、目覚めたばかりのフィオナの元にも王宮から調査官が来て内密に事情を聞かれていた。

 だがそれも、この先公表されることはないだろう。


 ――あの夜、湖から引き上げられたのはフィオナだけだった。


「……ゴードンは見つかりましたか?」


 フィオナの言葉にジャイルズは首を振る。

 現場近くにいたレジナルドとデニスの目撃証言から、窓から湖に落下したのは二名だったことは確かだ。

 夜明けを待って湖や周辺の捜索も行われたが、ゴードンの遺体も遺留品も発見されなかった。


「ゴードンは肩を撃たれていた。急所は外れていたようだが、あの傷では十分に泳げないだろう」


 湖の大きさ自体はそれほどではないが、深さはある。沈んでしまえば、水底をさらうことは不可能だ。

 もっとも、フィオナの救助中や花火に紛れて湖から自力で上がり、逃亡した可能性はある。

 しかし外の警備をしていた者も門兵もそれらしき男は見ておらず、決定的な証拠も周辺から見つからなかった。


 最終的に、オットー・ゴードンという容疑者は生死も所在も不明のまま処理され、彼の名もこの事件そのものも、人々の口の端に上ることは今後一切ないのだろう。

 湖の捜索も昨日で打ち切られたと聞いて、フィオナは細く息を吐く。


(ゴードンはこれで満足だったの……?)


 どうせ揉み消されて終わりだ、と皮肉げに言い切った声を今も覚えている。

 釈然としない幕引きだが、どこかで予想もしていた結末だった。


「ゴードンに関しては今のところ、以上だ。なにか進展があれば伝える」

「はい。それで、あの」


(聞いても、いいかな)


 少々尋ねにくく思いながら、フィオナはまた寝台の隣の椅子に戻ってきたジャイルズと目を合わせた。


「……キャロライン様は」


 その名を出されたジャイルズの顔が曇る。


「すみません、やっぱり気になって。調査官の方は教えてくださいませんし」


 フィオナを探す途中で、ジャイルズとキャロラインの間で一悶着あったと聞いている。

 思い出させて気分を害したくはないが、彼女の処遇がどうなったのかを知らないままでいいとも思えなかった。


「今は、バーリー伯爵家で謹慎中だ」

「そうですか」

「起訴は難しいだろう、と」


 ゴードンと密通していたキャロラインだが、物的証拠に乏しかった。

 フィオナに絡んだのは事実だが、ゴードンの正体は知らなかった。舞踏会にいたのだから身元は確かだと思い、引き合わせたまで、という供述は認めざるを得ないし、壊したネックレスは賠償で贖える類いのものだ。

 罪を問えるとすれば、禁止されている刃物を離宮に持ち込んだ件だが――


「ナイフの持ち主は分からないと証言したそうだな」

「……はい。気が動転していましたので、よく覚えていません」


 不満そうに言われて肩を小さくする。

 貴石が嵌まった特徴的なナイフだった。それがあれば証拠にできたのだが、調査官に持ち主を聞かれたフィオナは「知らない」と答えた。

 さらに実物は湖の中に落として、もう存在しない。


(やり方は間違っていたけれど、ジル様への好意からだもの)


 自分たちのお芝居がなければ、あのような凶行にでることもなかったはず。どうしてもそこに負い目を感じてしまう。

 これはフィオナの独りよがりだけれど、でも。


(ジル様本人から絶縁を言い渡されたなんて。もうそれだけでいいでしょう)


 社交上の一切の関わりを拒否すると、正式に書面でも送ったらしい。それ以上の罰は必要ないだろう。


「本当にいいのか?」

「はい。バーリー伯爵からは治療費のお申し入れもいただいているようですし、もう十分です」

「……君らしいな」


 ジャイルズはなにか言いたげにしたが、それ以上は呑み込んでくれた。

 本当はこれを機にバーリー家の勢力や身代を削って自家に有利なように持って行くのが利口な貴族のやり方なのだろうが、フィオナにはどうしても馴染まない。


「遠方の修道院に入れることにしたそうだ」

「えっ?」

「期間は未定だが、そこを出た後も彼女が王都に戻ることはない」

「……そう、ですか」

「伯爵は君の寛大な配慮に感謝していたよ。合わせる顔がないからこちらには来られないと言っていたが」


 キャロラインの父とはパーティーで少し話したくらいだったが、普通の人だったように思う。愛情ゆえに甘やかした娘が暴走した結果が、遠くに手放すことになろうとは。


「彼女の処遇は、私は軽すぎると思う。フィオナが伯爵の決定にも気を病むようなら、やはり裁判を」

「いっ、いえ、それは」

「家長が下した判断だ。そもそも君は被害者なのだから」

「……はい」


 包帯を巻いた手に、そっとジャイルズの手のひらが重ねられる。


「それに、本当に罰せられるべきは私だ」

「ジル様?」

「君が危ない目に遭った原因は、」

「違います」


 苦々しげに言うジャイルズを遮って、フィオナはきっぱりと断言する。


「二人で始めたことを、自分だけのせいにするのはダメですよ」

「フィオナ」

「たぶん前にも言いましたけれど、ゴードンとは別なところできっと関わったと思いますし、キャロライン様と最初に会ったのは、まだお芝居を始める前の小庭園です」

「だから私に責任はないと?」

「責任はジル様と私、二人で負うものでしょう? 除け者にされたら寂しいです」


(……あれ……急に、眠い……?)


 少し茶化して言えば、ジャイルズが瞠目したようだ。窓からの逆光と、襲ってきた睡魔で細かな表情は分からないが。


「怪我といっても、かすり傷ですし……私よりジル様のほうが……つらそう、です」


 話している最中だというのに、うとうとして回らなくなってきた頭ではろくに言葉も選べず、思ったまま告げてしまう。


(昨晩も、いっぱい眠ったはずなのに)


 突然眠りに落ち始めたフィオナをジャイルズは咎めるでもなく、逆に背中のクッションを外して身体をそっと後ろに倒す。


「疲れているんだ。休むといい」

「でも……お話、まだ」


 優しいこの人が、これ以上自分を責めないでほしいのに。

 急速に狭まっていく意識の中で、思いは形にならない。


「大丈夫。また後で話そう」

「ジル、さま」


 安心させるように言うジャイルズに手のひらで目を隠され瞼が落ちると、もう抗えない。


(……夢も、見なそう)


 ふわふわとしてあたたかな心地のまま、フィオナは眠りの海に落ちていった。





 すうすうと穏やかな寝息が聞こえて、ジャイルズはほっと息を吐く。


「……よく効くな」


 先ほどフィオナに飲ませたのは、誘眠効果のある薬湯だ。

 本人は平気だと言い張るが、やはり負担は大きいのだろう。夢を見て夜に何度も起きるようだ、と心配顔をした使用人から報告を受けた。

 医師に相談し、薬に耐性のなさそうなフィオナには弱めのものを処方したというのに、その効果に驚いてしまう。


 影を作っていた手を目元から外し、額に掛かる髪をそっと払う。視線を下げれば、首の裏に赤く細い傷痕があった。

 ネックレスを引きちぎられた時に付いたのだろう。ほとんど治っているが、まだ痕は消えていない。

 痛みなどとっくにないとフィオナが笑うそこに、指先で触れた。


(怪我をしたのが私ならよかった)


 そのまま襟元に落ちる一束の髪を持ち上げる。柔らかく馴染む薄金の髪が、午後の日差しに明るく光る。


 ――離宮でも、今も。愛しくて守りたいと思う人が、逆に自分を庇おうとする。


 伸ばした指先を掠めてフィオナが湖に落ちていった時の喪失感。

 後を追おうとした自分を部屋に引き戻した王太子と側近を、あれほど憎く思ったこともない。


 だがそれよりも……ジャイルズを残して落ちていくフィオナの顔には、安堵の微笑みすら浮かんだのだ。


「……情けない」


 己の無力さにため息も出ない。フィオナが眩しくて仕方なかった。


(せめて今は休息を)


 その間に、必要な事後処理や貴族的な根回しは全て引き受けさせてもらう。次に目を覚ましたフィオナが憂いを抱く事柄が、ひとつでも減るように。


 捧げ持つようにした長い髪にジャイルズはそっと口づけると、天蓋の幕を引いて寝台を後にした。







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