第27話 ルドルフという少年

 キャロライン嬢を見かけたと思った路地の奥で、ほどなく少年はフィオナに捕まった。


 むんずとシャツを握られて、少年はふてくされた顔で盛大に息を切らしている。

 中途半端に伸びたくすんだ金髪に、フィオナと同じで珍しくない琥珀色の瞳。丈の合わないズボンからは痩せた足が伸びている。

 鼻の上に散ったそばかすが余計やんちゃっぽい印象だ。


「んなっ、なんっ……で、お嬢様のくせに、そんなに、速いんだよっ!?」

「駆けっこは小さい頃から得意なの」


 きっと数日、ろくに食べていないのだろう。

 少年はすっかり息を乱していて、フィオナが大した力を入れなくとも動けないでいる。


「フィオナ!」

「ジャイルズ様」


 子どもや女性がなんとか通れる程度の細道に難儀しながらも、成人男性としては驚くべきスピードで追いついたジャイルズは、フィオナを庇いながら少年の腕を手早く拘束する。


「あっ、そこまでしなくてもだ」

「大丈夫じゃない。フィオナ、君って人は」


 大丈夫と言わせてもらえなかった。

 だが、警邏を呼ぼうとする彼を思いとどまらせるのには成功する。


 ジャイルズにがっちり押さえられながらも、少年は奪ったレティキュールをぎゅうと握って離さない。

 さらに腕をひねり上げようとするジャイルズを止めて、フィオナは少し屈んで、むすくれた表情の少年と目線を合わせた。

 ギリ、と歯を食いしばってフィオナを睨みつける目は強いが、負けずに見返す。


「返して。大事なものなの」

「やだね。……オレの仕事、とったくせに」

「え?」

「お前のせいで、稼ぎがなくなったんだ! これくらい寄こせよ!」


 叫ぶように怒鳴られて、フィオナは少年のシャツの裾に絵の具のシミが付いていることに気がついた。





「……フィオナお嬢様……」

「いやあ、お嬢様はなんというか……はあ」

「じ、じいや。それにオーナーも」


 嫌がる少年を連れてひとまずギャラリーの奥に戻り簡単に事情を説明すると、ハンスは持っていた紙をバサバサと落としたままピシリと固まり、ロッシュは頭を抱えてしまった。

 デニスはぽかんと口が開いているし、隣のジャイルズは静かーに怒っている気がする。


 いろいろ気になるが、まずは、涙目で不穏な空気を発し始めたハンスを宥める必要があろう。


「お、おおおお一人にはならない、危ない真似はなさらないと、あれほどお約束したではないですかっ!」

「あ、あのね、じいや。これはええと、不可抗力というか」


(どうしよう、すっかり頭から抜けていたなんて言えない……!)


「ええ、そうですよねっ!? 猫が木から降りられなくなった時も、同じようにおっしゃいました! あの時は足を折っただけで助かりましたが、フィオナお嬢様になにかありましたら、今度こそ爺は生きてはおりませんぞ!」

「じ、じいや」

「あの世で奥様になんとお詫びすれば!」

「本当にごめんなさいっ!」


 子どもの頃の失敗談まで披露された上に、即、連れ帰って以降は外出禁止の勢いである。

 ご老体の心臓に多大なる負荷をかけてしまったことは事実で、フィオナはひたすら謝るしかない。


「いくらレジナルド様からの贈り物とはいえ、手提げ一つで御身を危険にさらすなど! ぜったいにっ!」

「はい! ごめんなさいっ!」


 そこで「いや、けっこう値が張るルーペも入っていた」などと言ったら余計に怒られることはさすがに分かるので、おとなしく首をうなだれる。


「元はと言えば、そこな小僧!」

「ヒッ!?」


 怒られ謝るフィオナを横目で眺めていた少年だが、矛先が自分に向かってその圧に怯む。

 普段、好々爺なハンスが怒ると非常に怖いのだ。

 始まりそうなお説教タイムをまあまあと取りなしたのは、ロッシュであった。


「じゃあ、まずは少年。名前を聞こうか」

「……」

「反抗的な態度は取らないほうが君のためだよ」


 にこりと笑うロッシュの背後に黒い影が見えるのは、気のせいではないと思う。

 椅子に座らせられている少年はビクッと震え、口元を引きつらせて横を向いたままボソボソと答え始める。


「はい、名前」

「……ルドルフ」

「歳は?」

「じゅう、ご」


 とても十五歳の体格には見えない。ロッシュも同じように思ったのだろう、重ねて問う。


「うん、そういうのいらないから。本当のことだけ言おうね」

「チッ、……十三。たぶん」


 十三歳にしても小さい。

 腕も足も枝のようで、まともな食事が縁遠いことが分かる。

 続くロッシュの質問には、家はなく、家族もいないと想像通りの返事がきた。


「こちらのレディが君の『仕事を取った』ってのは、どういう意味?」

「……んだよ、分かってんだろ? ニセモノってバレたから、オレも、オレの絵ももういらないってゴードンに追い出されたんだ。この女が邪魔したせいだっ」

「おい」


『この女』呼ばわりにさっくりと苛立つジャイルズの袖口を摘んで引き止める。

 ――先程から予想はしていたが、この少年が贋作の制作者ということらしい。


 ゴードンと贋作に関しては採用時に知らされていたデニスも、さすがに目の前の子どもが、というのは信じられないようで、目を丸くしている。

 だが、早熟な画家は多いし、ルドルフが実際に絵を描いていないにしても、何かしらの事情を知っていることは間違いない。


 顎に手を当てたロッシュが、煽るような質問を重ねる。


「んー、本当に? 君にまともな絵なんて描けるわけないだろう?」

「バ、バカにするなっ! なんだよ、ゴードンも結局ほとんど金を払わないし! 汚ねえ大人ばっかりだ!」

「うん、まあ、そうなんだけど。君もその汚い大人の片棒を担いだんだよね」

「食えりゃいいんだよっ」

「さもしいことを言う」

「知るか!」

「元凶であるゴードンではなく、あえて非力な女性を狙ったね……君も立派な犯罪者だよ、ルドルフ」


 声だけは柔和で、絶対零度の表情のロッシュにぐいと顔を近づけられ、ルドルフは背もたれの限界まで身を引いた。


「う、うるせえ……っ」

「残念だったね。すぐに釈放してくれるお優しい警察になんて引き渡してあげないから」


 ルドルフの上に屈み込むようにしていたロッシュは身を起こすと、時計を確認する。


「おや、こんな時間ですね。続きは二階うえでしましょうか。デニス、彼を連れて行ってください」

「あ、了解でーす」


 さすがにいつまでも店の奥でドタバタしていられない。

 ギャラリーの上階にある、ロッシュの自宅に場所を移すことにしたようだ。


「ああ、部屋が汚れるのは困りますねえ。ちょっと臭いますし……すみませんがソレ、洗っておいてください。ハンスさんも手伝っていただけますか?」

「ええ、構いませんよ」

「なっ、さわるなっ!」


 ジタバタと暴れても、腕白坊主のあしらいなどお手の物のハンスと元軍人のデニスに難なく確保され、ルドルフはあっさり連れ出されていく。

 三人を見送ると、ロッシュは笑顔でフィオナとジャイルズに向き直った。


「彼は私が責任持って事情聴取を行います。少し遅くなりましたが、ローウェル卿とお嬢様は、予定通り先方へどうぞ」

「ああ。よろしく頼む」

「で、でも」

「大丈夫、ドレスも汚れていませんよ。去年、引ったくりを捕まえた時に比べたら綺麗なもんです」

「引ったくり?」

「や、ちょっと、オーナーっ」


(な、なにも今ここでそれをバラさなくてもっ!?)


 心なしか、ジャイルズの視線がさらに険しくなった気がする。


「乱暴なことはしませんから、ご安心を。しばらく食べていないようですね。ああいうのには脅しよりも、うまい飯が効くんです」

「でも、あの」

「路地にいたご令嬢というのも気になりますし。お嬢様は、本日はここにお戻りにならないでくださいね」

「だって、そんな無責任な、」


 行き渋るフィオナに、にっこりとロッシュの笑顔が向けられる。

 これは断ったらだめなアレだと、さわりと震えた背筋が伝えてきた。


「お嬢様。ど う ぞ」

「わ……っ、わかりました」


 了承すれば「それでは」とロッシュも出て行った。

 パタリと扉が閉まると、ジャイルズと二人きりになった室内に奇妙な沈黙が落ちる。


(あ、なんかすごく……どうしよう……)


 いたたまれない雰囲気に今更ながらの動揺を持て余していると、頭の上からはあ、と深いため息が響いた。


 釈明よりなにより、謝らなくては。

 そう心を決めてジャイルズのほうを向こうとしたと同時に、伸びてきた腕に閉じ込められた。


「……!?」


 小庭園のときより、自宅前でキスの真似をされたときよりも、しっかりと。

 明確な意思を持って強く抱きしめられて、言おうとした謝罪は言葉にならないまま行き場を失った。


 ――胸を打つ不規則に速い鼓動は、どちらのものだろう。

 一瞬遅れて、カァッと顔に熱が集まるのが自分でも分かった。


「……フィオナ」

「は、はい」


 腕の中からなんとか応えると、さらに頭を抱えこむようにされる。

 ジャイルズに向かって斜めに傾いだ体は不安定なはずなのに、隙間なく支えられてぴくりとも動けない。


「君の行動を制限しようとは思わない。だが、頼む。危険なことだけは控えてくれ」


(……そんな)


 ――呆れられたと思ったのに。


 ジャイルズの口から出てきたのは、フィオナの身を案じる言葉だった。

 囲われて押し付けられた布越しに、沈痛な声がくぐもって聞こえる。

 表情は見えなくて、でも、だからこそフィオナの胸に深く刺さった。


「相手が刃物を持っていたら? 路地の奥で仲間が待ち伏せていたら? 取り返しのつかないことになっていた」


 今ならそういうことにも考えが及ぶが、あの時は違った。

 相手は子どもだと――大人でもきっと追いかけてしまったとは思うが――警戒心が薄れたのは間違いない。


 結果的にゴードンの共犯らしき人物を確保することができたが、それは、運が良かっただけだ。


「君は警察でも官吏でもない。自分の安全を第一に考えてくれ」

「……はい。すみません……」


 何度か大きく息を吐いて、ジャイルズの腕の力がようやく緩む。

 フィオナをまっすぐに立たせると少し乱れた髪を撫で、確かめるように頬に当てた手が肩まで滑り降りた。

 覗き込んでくる灰碧の瞳を見ていられなくて、思わず目を伏せる。


「今更だが。君を手元に置いておきたがるクレイバーン男爵の気持ちが分かるな」

「えっ」


 それは困ると慌てて顔を上げて、見たことのない熱を湛えたジャイルズの瞳と今度こそ目が合った。


「……あ、の」


 なぞるように肩から腕へ降りたジャイルズの手がそのままフィオナの手の平を包み、しっかりと握ってくる。

 ご丁寧に、指まで絡めて。


「走り出さないように、こうしておく」

「えっと、あの」

「行こう」


 フィオナにできたのは、遅れないように足を動かすことだけだった。








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