第65話 キャロライン・バーリー
立ちはだかるキャロラインに驚いたものの、全く予想しなかったわけでもない。
なにせ参加した多くのパーティーで顔を合わせ、そのたびにキツく睨まれ続けていたのだから。
これまでフィオナに直接話しかけてこなかったのは、常にジャイルズが傍にいたからにすぎない。
だが返事をする前に、案内役の青年がその背に隠すように庇った。
「レディ・キャロライン。道を空けてください」
「あなた……バーグマン男爵家の、ジェレミーといったかしら。私はあなたにではなく、彼女に話があると言ったのよ」
「ミス・クレイバーンをご案内中です。急ぎますので、これで」
フィオナより年下だろう彼が申し出を断るが、キャロラインに引く様子は全く見えず、逆に一歩距離を縮めてくる。
(キャロライン様、顔色が悪い……それに痩せた?)
やつれた、といったほうが正しいかもしれない。
キャロラインの強い要望で、バーリー家がジャイルズに幾度も縁談を申し込んでいたのは王都中の貴族が知るところだ。
その度に断られているが、諦める気配は一向にないようだとも聞いている。
フィオナとのことが噂されるようになっても、それは変わらないとも。
勝ち気なところが面に出ていたが、自信あふれる美しい令嬢だった。
けれど今は眦を吊り上げて、華やかな深紅のドレスからは、鬼気迫る雰囲気さえ伝わってくる。
(私の……私たちの恋人のフリのせいよね、きっと)
キャロラインのそんな姿を目の当たりにして、フィオナの胸は酷く痛んだ。
フィオナとジャイルズの関係が本当のものであったなら、キャロラインに対して負い目は感じても罪悪感は抱かなかっただろう。
誰かを傷つけることを予想しつつも、自分たちの都合を優先させた。その代償は払わねばならないと分かっている。
「そうやって男の陰に隠れてばかり。いいご身分ですこと」
「レディ、失礼です。訂正してください」
「あら、今度はこの彼をたらし込んだの。さすが、田舎育ちは慎みがないわね。とても真似できないわ」
「聞く必要ありません。参りましょう」
「……瑣末な男爵家の次男ごときが、偉そうに」
憎々しげに言われても、挑発に乗ることはないとジェレミーはフィオナを促す。
キャロラインの話はまず間違いなく、ジャイルズとの交際についての苦言だろう。聞く意思はあるが、今それをすれば、案内役の彼が叱責されてしまう。
上司である王太子の側近とジャイルズからフィオナの身を託された彼は、任務を遂行する義務があるのだ。
後ろ髪を引かれる思いで、フィオナは足を進めた。
「あなたの妹は来年、成人なのよね」
(……!)
だが、すれ違いざまにキャロラインが投げつけた言葉に足が止まる。
「こんな姉がいたら、社交界で無事に過ごせるかしら? ああ、でも心配しないで、私が面倒をみてあげる。そちらの妹のジェシカ・バーグマンも一緒にね」
案内役のジェレミーにも妹がいるらしい。小さく息を呑んだのが聞こえた。
キャロラインは顎を上げて横目で二人を睨み据える。
「伯爵令嬢である私と友人たちとで、社交の常識と淑女の礼儀を教えてあげるわ。ええ、それはもう、しっかり可愛がるから」
「レディ・キャロライン、いい加減に」
「……わかりました」
「ミス・クレイバーン!」
憤りを押し殺すジェレミーに被せて言えば、キャロラインは赤い唇の端を上げてフィオナの腕を取った。予想外に強く掴まれて、一瞬顔を顰めそうになる。
「ですが、この方にも都合があります。私がどなたと一緒にいるかも含めて、事情は隠さず報告させていただきます」
「好きにすればいいわ」
そう言って、キャロラインはこれから向かう部屋の場所までジェレミーに告げる。
「せいぜい急ぎなさい」
人が戻り始めた通路で、キャロラインはフィオナの腕を引く。
案じる顔を向けるジェレミーに頷いてみせると、悔しそうに引き下がり、来た道を急いで戻っていった。
「……逃げませんから、手を離してください」
「どうかしら。泥棒猫は足が速いもの」
強引に持たれた腕が痛いうえ、歩きにくい。
よろけながら向かう先は、ミランダに教えられた休憩室が並ぶ一角のようだ。
途中で警備兵らしい人におや、という顔をされたが、バーリー伯爵令嬢とその連れだと分かると何もなかったかのように前を通された。
キャロラインのただならぬ雰囲気には気が付いているだろう。
しかし、令嬢同士の諍いなど、褒められたものではないが珍しくもない。広間で騒がず別室に向かうなら、逆にわきまえていると思われているかもしれない。
まもなく到着したのは、既に「使用中」の合図が出ている一室だった。
その扉を、キャロラインはためらわずに開ける。
「入るのよ」
「……!」
腕を離されると同時に背中を突き飛ばされ、たたらを踏む。
なんとか転倒は堪えて、小庭園でも同じことをされたなと、こんな時なのに思い出した。
部屋の中には、ソファーと天蓋付きのベッド、それに低いチェストが置いてある。
ベッドの向こうにある窓には床まで届く長いたっぷりとしたカーテンが掛かっており、湖の景色は隠されていた。
室内は無人だった。
扉前に出ていた使用中の合図は、この部屋を使おうと前もってキャロラインが用意したのだろう。
その並々ならぬ意気込みに背筋が硬くなりつつも、フィオナも覚悟を決める。
背後で荒々しく扉を閉めたキャロラインは後ろ手に鍵を掛け、険のある眼差しを向けた。
「話の内容は、言わなくても分かるわね?」
「はい。ジル様とのこ、」
「馴れ馴れしく呼ばないで!」
声高に遮られてフィオナは口をつぐむ。肩で息をするキャロラインは、それでも必死に怒りを抑えているように見えた。
むき出しの気迫に刺激してはいけないと直感し、声は出さず行動を注視し続ける。
「……私のほうがよっぽどバンクロフト伯爵夫人にふさわしいのに。いったい、どんな汚い手を使ったの?」
コツ、と硬い床にヒールの音を響かせて、キャロラインがフィオナに近づく。
――キャロラインの言わんとすることは、フィオナにも理解できる。
ジャイルズは、恋愛も結婚も拒絶していた。
可能性があるとすれば家同士の都合による結婚だが、バンクロフト伯爵家には現在、政略の必要はないとも聞く。
だから、どんなにキャロラインが願ったところでジャイルズが振り向く可能性は限りなく低かった。
しかし、誰も手が届かないと思われていた椅子に座る人物が現れた。
それがフィオナだ。
「ただの男爵家の、美しくもないあなたみたいな人がどうして」
「っく、」
グイと引っ張られ、壁に背中を押しつけられる。
綺麗に整えられた長い爪で頬を切るように触れられて、覗き込んでくるキャロラインの剣呑な瞳を逸らさずに見つめ返した。
(私が恋人の役をしているのは、利害が一致したからだもの)
決め手になったのは「決して恋愛感情を持たない」とフィオナが約束したからだ。
それほど、ジャイルズは結婚というものを忌避していた。
「私のほうがジャイルズ様に釣り合うわ。そうでしょう?」
言葉の通り、ジャイルズとキャロライン、そしてバンクロフト家とバーリー家の組み合わせは、皆が納得するだろう。
筆頭伯爵家の嫡男であるジャイルズがいつか結婚することも間違いなく、そのとき隣にいるのはフィオナではない。ありえない。
改めて言葉にされて、心にツキリとなにかが刺さる。
(……笑ってくれていたら)
「冷徹貴公子」が見せる上辺の笑顔ではなくて。
ジャイルズが今、自分に向けるような、繕わない笑顔を見せられる相手が隣にいてくれたらそれでいいと思うのに。
「キャロライン様は、ジ……ローウェル卿がお好きなのですよね」
「当然よ。次のバンクロフト伯爵夫人となるのは私だと、子どもの頃から決めていたわ」
キャロラインの物言いは、まるで、ステータスシンボルのようにその座を求めているだけのようだ。
愛があればそれだけで、などと綺麗事を言うつもりはない。
だが、恋とは別の執着ばかりが強く透けて見える。
(それは、ジル様が一番嫌うことなのに)
一緒にいて、分かったことがある。
ジャイルズは伯爵家の次期総領として必要なことは必要と割り切り、時に利用もするが、本心ではそんな自分を厭んでいた。
貴族としての交流に心は必要ないかもしれない。でも結局、それでは満たされないのだとフィオナは思う。
聡い人だから、他人の思惑を敏感に察知してしまうから、余計に辛くなる。
だから、自分と一番距離が近くなる相手……つまり結婚というものを黙殺していた。
(けれど、きっといつか、目を逸らさないでいい人と出会うはず。でも、キャロライン様は……)
今も独り言のように、いかに自分こそが伯爵夫人にふさわしいか、ジャイルズが自分に似合いかを述べ立てているが、どこにも心情を慮る様子がない。
顕示欲ばかりが感じられ、「ふさわしい」という言葉が「都合がいい」としか聞こえなくて、それがフィオナは悲しい。
(真摯に歩み寄るなら、ジル様はきっと無碍にしないのに)
仕事がしたいなどと令嬢らしくないことを口にするフィオナの意思を尊重し、亡くした飼い犬に心を痛める優しい人だ。
そのジャイルズに、己の勝手な都合を押しつけてほしくない。
「……キャロライン様。ローウェル卿が伯爵家を継がないとしたら、どうなさいますか?」
「は? そんなことがあるわけないじゃない。私は伯爵家当主であるジャイルズ・バンクロフトの妻になるのだから」
キャロラインの話は堂々巡りだ。
伯爵家嫡男としての彼だけではなく、ジャイルズ個人を少しでも尊重してくれるのであれば、フィオナだって安心できるのに。
「ローウェル卿ご本人の意思は必要ない、と」
「意思を確認する必要がない、と言っているのよ。頭が悪いわね。……まあ、そんなところが珍しくて気を引かれたのだろうけど」
はあ、と大げさにため息を吐いて、キャロラインは苛立ちを滲ませた。
「あなたさえいなければ、彼は私を選ぶに決まっているの」
つう、と下がった指が首を撫でてネックレスに掛かる。
嫌な予感にこくりと喉が鳴るが、反対の手で肩を壁に押しつけられて身動きができない。
「これも、あなたには分不相応よ」
「っ、!」
ぐいと力を込めて引かれて、首の後ろで細い鎖が切れる。
首の皮膚が少し切れたようで鈍い痛みを感じるが、それよりもキャロラインの手の中にある千切れたネックレスにショックを受ける。
「なんてことを……!」
「不釣り合いで目障りだわ。田舎で泥遊びでもしているほうがお似合いよ」
ネックレスはそのまま、ベッドにぽいと放り投げられてしまった。
まるでゴミのような扱いに唖然とするフィオナに、キャロラインはたたみかけるように詰め寄る。
「厚かましい恥知らず。でも、そんなあなたがいいっていう、奇特な人を紹介するわ」
「なに、を」
「ほんと、呆れる。殿方を籠絡するのがお得意ね」
「――残念ですが、私は彼女に嫌われていますので対象外でしょう」
突然掛けられた声にハッとなって見渡すと、部屋の奥の空気がゆらりと揺れる。
天蓋から下がるカーテンの陰から姿を現した長身の男性に、フィオナは言葉をなくした。
(待って……だって、見張りが付いているって……!)
ブルネットの長い髪、陰のある切れ長の瞳はあの日、伯爵家の客間で――
「どうでもいいわ。早く連れて行ってよ」
「急かさずとも。レディのお話が長いのですよ」
「お黙りっ」
細腕のどこにこんなに力があるのか。
痛むほどに押さえられて動くこともできないまま、近づいてくる相手を凝視する。
「どうして、ここに……」
「お久しぶりですね。ミス・フィオナ・クレイバーン」
湖の底のような冷たい瞳で、口角を上げるゴードンがそこにいた。
§
ベイストリートのギャラリーには、最近よく見かける男性の姿があった。
「オーナー、お嬢サマのとこの兄ちゃんがまた来てます」
「飲もうロッシュ! ヤケ酒だ!」
「レジー荒れてるな。どうした?」
「どうしたもこうしたも、うちのフィオナが綺麗になりすぎてツラい……アイツのおかげだと思うと無性に腹立たしい……」
「ああそうか。今夜は離宮の舞踏会だったな」
ドサリとソファーに崩れるレジナルドに、ロッシュとデニスは苦笑いだ。
「フィオナさんが着飾ったところを見たかったですねえ」
「舞踏会? デニスは行かないのか?」
デニスもれっきとした貴族だ。きょとんと目を丸くするルドルフの頭をクシャリと撫でる。
「王妃殿下の舞踏会は特別なんだ。下っ端貴族は呼ばれないの」
「ふうん。お貴族様にもいろいろあるんだな」
釈然としないようだが納得はしたようだ。
そんなルドルフに、そういえば、とレジナルドが話しかける。
「ルドルフはフィオナに体当たりして捕まえられたんだっけ?」
「そうです。それでコイツ、ここに連れて来られて」
「ははは、よく貴族のお嬢様から盗ろうなんて思ったな」
気まずそうにするルドルフの前で、デニスが面白おかしく当時のことをレジナルドに話して聞かせる。
「……あんな、足が速いお嬢サマがいるなんて聞いてないし」
「うんうん。うちのフィオナは特別なんだよ」
むすくれたルドルフに、レジナルドが勝ち誇ったような顔をする。
「だよなー。あっちのお嬢サマは絶対に走らなそうだったもん」
「んん? おい、あっちって誰のことだ?」
「え? オレに『あれが贋作を見破った犯人だ』って教えた……」
「ちょっと待て、ルドルフ。聞いてない」
和やかだった空気が一瞬にして緊張感を帯びる。
たじろぐルドルフから、改めてあの日のことをデニスが根気よく問い質していった。
「……じゃあルドルフは、フィオナさんを知っていたわけじゃなかったんだな」
「当たり前だよ。別のお嬢サマが、アイツが元凶だって教えてきて」
「その、別のお嬢様ってどんなだ」
巻き髪でキツめの美人という端的な説明に、全員が同じ一人を思い浮かべる。
キャロライン・バーリー――フィオナに送りつけられた手紙や、待ち伏せていた令嬢の背後にその名が浮かんだことが何度かあった。
証拠までは出なくて警戒するに止めるしかなかったが、彼女がジャイルズに執心しているのは誰もが知るところだ。
だが、贋作の騒ぎもフィオナが見破ったことも、一令嬢が知るはずはない。ましてや、ルドルフの存在を。
それを他に知る人物は。
「……ゴードンがキャロライン嬢に接触している……?」
ゴードンはしばらく所在不明だった時期がある。
ぽつりとロッシュが零した名前に、レジナルドがガタリと立ち上がった。
「おいロッシュ。あいつに見張りは付いているって言ったよな?」
「そのはずだが、確認する。デニス、離宮に行ってローウェル卿に知らせろ。それと、バーリー家にも……くそっ、そっちも舞踏会か!」
舞踏会は既に始まっている。そこに、キャロラインもいるはずだ。
「杞憂で済むならいいが……」
にわかに慌ただしくなった事務室から、ロッシュはすっかり暮れた外に目をやった。
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