第24話 マリアンとタルボット卿

(※登場人物の名前を、ミリアム→マリアンに変更させていただきました)



「フィオナ。その、体調は」

「ええ、お父様。とっても元気」

「そ、そうか」


 妙に気を使う父をにっこり笑顔でやり過ごし、ハンスの視線にいたたまれない気分になりながらの朝食の後。

 フィオナはギャラリーに行く前に、自室で手紙を書いていた。


 用意したレターセットは二通分。

 宛先は元宰相のタルボット卿と、友人のマリアンだ。


 書きながら、産まれたばかりだった彼女の赤ちゃんをうっとりと思い出す。


「一年か……大きくなっただろうなあ」


 マリアンと出会ったのは昨年のこと。

 例年通り、クレイバーン一家はシーズンが始まってしばらくしてから王都にやってきた。


 タウンハウスの片付けが落ち着くとすぐ、フィオナはハンスと共に、ロッシュのギャラリーへ向かう。

 店の近くで馬車を降り、通りの店主たちに再会の挨拶をしながら歩いていると、少し前を行く女性の様子がおかしいのに気がついた。


「じいや。あのかた、具合が悪いのかも」

「おや、そのようですな……おおっ」


 ハンスが答えるとほぼ同時に、その女性は大きくふらついたかと思うと店舗の外壁にもたれ、そのまま倒れるようにずるずるとしゃがみこんでしまった。

 慌てて駆け寄ると、フィオナと年齢の変わらなそうな町娘が、苦しそうに荒い息をしている。


「あ、あかちゃん、が……」


 痩せた後ろ姿では分からなかったが、大きいお腹を守るように両手で抱えていた。

 紙のように白くなった顔に脂汗を浮かべる彼女を支えながら、必死で助けと医者を呼ぶ。

 ギャラリーはすぐそこで、騒ぎに気づいたロッシュも駆けつけてくれた。


 産み月はまだ先のようだったが、母子ともに苦しみながらも、可愛らしい女の子が産まれた。

 マリアンと名乗った母親は、身寄りは夫だけと言う。

 近くの商店の女将が彼女のことを知っていたが、その夫は軍人で、仕事であと一ヶ月は帰らないという話であった。


 早産で自身の命も危ないところだった彼女は、意識が戻ると気丈に礼を言って去ろうとした。

 夫が戻るまでの間だけでも、と勧めても、これ以上病院にかかるお金はない、修道院にも行かないと断固として頷かない。


 だが、立つこともままならない状態で、一人で赤子を抱えてやっていけるわけがないのは誰が見ても明らかだった。


(クレイバーンの領地なら、手があるけれど……)


 王都の下町にも情はあるが、余裕はない。助け合って生きねばならない田舎とはルールが違う。

 名前や住まいを知っている程度のつながりで、出産直後の母子の面倒を全面的に引き受けようと申し出る者はいなかった。


 不遇な人はどこにでも、たくさんいる。

 その全員に同じように助けは出せない。しかもクレイバーンの領民でもない。

 平等に救えないのなら黙って見過ごすのが道理だと、頭では分かっている。


 だが、関わってしまったことを無視はできなかった。

 産後に亡くなった自分の母とも重なり、しかも、聞けばマリアンはフィオナのたった一歳上である。


「病院ではないけれど、休む部屋ならあるわ」

「フィオナ様は、そうおっしゃると思いましたよ」


 ハンスにはお見通しのようだった。

 これもなにかの縁と、彼女たちをクレイバーンのタウンハウスに半ば無理やり連れ帰ったのだった。


 感謝はしながらも頑なだったマリアンは、休養と食事が十分に取れるようになると心身ともに落ち着いて、少しずつ回復していった。


 普段は掃除婦や食堂の下働きをしていると言っていたが、刺繍の腕は確かだし、本の朗読もそつなくこなす。

 町娘が知るはずもないマナーを知っていたり、話す言葉には時折、下町らしからぬアクセントが混じる。

 事情があるのだろうと察するのに時間はかからなかった。


 それでもなにも尋ねないフィオナたちに、マリアンも次第に心を許していく。


 ――現宰相であるタルボット卿の一人娘で、父に反発して恋人と駆け落ちたのだと知ったのは翌月、夫カイルが王都に戻ってからだった。


 子どもが生まれたことだけでも伝えては、と勧めるフィオナたちに、マリアンは首を横に振る。


「父は絶対に私とカイルを許しません。子どもがいようと、強引に別れさせられるに決まっています」


 向こうから歩み寄ってくれるのでなければ、無理だと。

 固い声で断言するだけのことがあったのだろう。それ以上は言えなかった。


「マリアンを愛しています。結婚したことを悔いてはいませんが、苦労ばかりさせて……これで正しかったのかと聞かれて、頷くことはできません」


 あと何年か軍人として働き、恩給を貯めたら田舎で店を持つのだと、夫のカイルは言った。

 実家に対するマリアンの拒絶は強く、また、カイルももう少し顔向けできるようになってからでないと難しいと、切なげに妻と赤子を抱いて、彼らの家に戻っていった。


 ――ロッシュの店に客を装って現れたタルボット卿が、奥の部屋でフィオナと対面をしたのは、三人がクレイバーンの家を辞してから間もなくだった。




 §




「マリアン!」

「久しぶり、フィオナ」


 パーティーの招待客が集まるより少し早い時間。

 クレイバーン家を訪れたマリアンたちは、門前でそわそわしていたフィオナを遠くから見つけた。

 ぎゅっと抱きつき、何度か交わした手紙ではできなかったハグをする。


「よかった、元気そう!」

「あなたもね」


 はにかむように笑うマリアンは、去年別れた時よりもずっと健康そうだ。

 フローラと名付けられた赤ちゃんは、今はカイルに抱っこされてご機嫌で小さな手を上げ下げしている。


「ご無沙汰しています、お嬢様。皆様」

「カイルさん、そんなにかしこまらないで。フローラ、大きくなったわね。かわいい!」

「お姉様、わたしも近くで見たい!」

「いやいや、セシリアも待ちなさい。どれ、クレイバーンのじいじが抱っこしようか」

「旦那様まで……」

「なっ、いいではないか、ハンス!」


 実は子ども好きのクレイバーン家の面々は、さっそく着いたばかりのマリアンたちを取り囲む。

 人見知りはしないほうだというが、いきなりの大人数にフローラはカイルの胸元に顔を埋めてしまった。


「「かわいい……!」」


 とりあえず、小さい子は何をしていても満足なクレイバーンの姉妹である。

 フローラが大きいあくびをすると、いそいそと家に招き入れ、今日のパーティーでは使わない上階の客室に案内した。


「……フィオナ。今日はありがとう」

「大丈夫。きっと来てくださるから」


 昼寝を始めたフローラを囲む皆と離れて、フィオナは少し不安気なマリアンと顔を近づける。


「やっぱり、絵を売るつもりはないのね」

「フローラへの初めての贈り物を売るわけがないじゃない。それに、フィオナが紹介してくれた刺繍の仕事も、けっこういい収入になっているの」

「それはマリアンの腕がいいから。ベネット夫人は厳しいでしょう」

「そうね、最近ようやく小物以外の仕事を回してくれるようになったわ」


 ベネット夫人のドレスショップは、お針子も少数精鋭である。

 マリアンの刺繍の腕を知ったフィオナが引き合わせ、試験雇用を経て、今は下請けではあるが立派な戦力の一人だとか。

 家で赤ん坊を見ながらできる仕事で、出来高払いだが実入りもいい。カイルも少し出世して、おかげで随分暮らし向きも楽になったとマリアンは微笑む。


「ねえフィオナ。今、仕立てているどこかの誰かさんのドレスには、私の刺繍が入るのよ?」


 父との再会への期待と緊張から気を取り直したマリアンが、訳知り顔で小さく囁く。


「え」

ローウェル卿が、あなたに目をつけるなんてね」

「ええっ、ちょ、ちょっと待ってマリアン」

「照れなくていいのに」


(そ、そうよね。分かっちゃうわよね!?)


 メゾン・ミシェーレに二人で行ったのだから、噂がなくても筒抜けだ。

 うっかりしていたフィオナは、揶揄われて熱くなった顔を手で仰ぐ。


(でも、そっか。マリアンならきっと詳しいわよね……?)


 例の、上手な恋人のフリの件である。

 情熱的な恋愛婚で、しかも駆け落ちまでしたマリアンなら、きっと参考になる。

 思い切って聞いてみることにした。


「えっと、マリアン……あの、いろいろ教えてもらえる……?」

「うふふ、まかせて。なにが知りたい? 見つからない逢引の場所? 手紙に書く暗号? バレない朝帰りの仕方? なんでも教えちゃうわよ!」


 ばばん、と胸を張るマリアンは頼もしいことこの上ないが――違う。

 聞きたいのはそういうことではない。


「……いま私、タルボットおじ様に同情しちゃったかも」

「あらそう?」


 くすくすと赤い顔で笑い合って、パーティーが始まるまでの時間を過ごしたのだった。






 ジャイルズの迎えを待ち構えていたように玄関の扉を自身で開けたタルボット卿は、すでに出かける支度が整っていた。

 そのまま、ごく当たり前のように馬車でクレイバーン家に向かう。


 事情は全く聞いていないとジャイルズが告げると、そうだろうと疑いもしない。

 だが、走り始めた馬車の中で話し出したのはタルボット卿だった。


 ――聞いてみると、たしかにフィオナが言い渋るのも納得の話だ。

 病弱で地方で療養しているはずの宰相の娘が、実は平民の軍人と駆け落ちなど、とても軽々しく言えることではない。

 よくこれまで知られずにいるものだ。


「当時は、自分からは連絡できないと言われたよ」

「フィオナにですか」

「こうして調べてギャラリーに来たように、娘や孫に会いたいなら儂が自分で行けと。……まったく、気が強いお嬢さんだ」


 伯爵家の応接室で、ジャイルズの助けも借りずゴードンの前に立ったフィオナを思えば、宰相相手にも忌憚ないことを言いそうだ。

 ありありと脳裏に浮かぶ光景に、内心、冷や汗が出るが。


「拗らせた関係が、一人二人の他人が間に入ったくらいで解消されるわけはない。だが……娘と同じ年くらいの、あの子の口から聞く娘の様子はいちいち刺さった。しかも、産まれた赤子がどれだけ愛らしいか心の底から讃えるのだから、タチが悪い」


 自嘲気味に笑うタルボット卿の顔は、議場や王宮で見た記憶にあるものよりもずっと老けていたが、表情は柔らかい。


「娘と相手の男の相愛ぶりまで滔々と述べられて、さすがに辟易したが。軍人など、いつ死ぬかわからない。ただでさえマリアンは遅くにできた子だ。儂が死んだ後、夫までいなくなったら、一体誰が娘を守るというのだ」

「タルボット卿」

「だが……守りなど必要なかったのだな」


 マリアンが欲したのは手を引いてくれる保護者ではなく、苦労しても共に生きる相手だった。

 それに気づかせてくれたのは、クレイバーンの父娘だったと苦々しく口にする。


「気づいたら『許しはしないが援助はしたい』と申し出ていて、それもまたあっさりと却下された。金は絶対に受け取らないだろうと。まあ、儂もそう思ったが」

「清廉ですね」

「はっ、頑固で意地っ張りなだけだ。似ているからな、手に取るように分かる。……援助の代わりに、絵を買わないかと勧められた」

「絵ですか」


 ギャラリーで会っているのだから絵を売ってもおかしくないが、こういった場で営業をするのはフィオナらしくない気もした。

 タルボット卿は、感心するように軽く口の端を引き上げる。


「買った絵はマリアンに渡す。その絵を売りに来たら必ず、儂が払った同額で店が買い取ると言ってな。はは、巻き込まれた店主が目を白黒させていたよ」

「ああ、なるほど」


 現金は拒絶されるだろうが、生まれた赤ん坊への贈り物であれば大丈夫だと、フィオナは踏んだのだ。

 必要とあらば、そのまま換金すればいい。

 結果的には同じことだが、受ける心象は全く違う。


 よくもまあ、一男爵家の若い娘がそんな手を、と感心して、そういえば金銭で苦労したと言っていたことを思い出す。

 自分より五歳も下の彼女はきっと、ジャイルズの知り得ないことを多く経験している。

 ――年齢でも、性別でもないのだろう。

 そのことに妙な焦りを感じた。


あの娘フィオナが選んだのは、聖母子像だった。聖母は……少し、亡くなった妻に似ていてな。恥ずかしい話だが、この歳になって初めて絵というものをちゃんと見た気がした」

「……そうでしたか」

「職を辞してただの父親に戻ったら、会いに行こうと……思ったまま行けずに、こうして今日、招かれた」


 また、助けられた。

 そう誰にともなく呟いて窓の外を眺める。


 少しの沈黙の後、思い出を区切るように、タルボット卿はコツリと杖で馬車の床を鳴らした。


「娘たちを保護していた間の費用も、友達を家に泊めただけだと受け取らなかった。それならせめてと書いた紹介状を、ローウェル卿。君に会うために使ったそうだな」

「……はい。面識のない私に、落し物を届けるためだけに」

「ふん、あの子らしい。しかしそうすると、儂のおかげで君たちは出会ったということか」

「そう言えますね」


 紹介状がなければ、フィオナがバンクロフト伯爵家に来てもジャイルズは会わなかっただろう。

 そんな綱渡りを超えての今なのだ。信じられないが、事実である。


「……面白くないものだ」


 コン、ともう一度杖を鳴らしたタルボット卿の雰囲気がさっと変わる。

 中央の複雑な政治に長年携わった彼がぶわりと露わにした迫力に、ジャイルズの背筋も寒くなる。


「もし大事にできないのであれば、さっさと手放せ。代わりの婿など、いくらでも儂が見繕ってやる」


 まるでジャイルズこそが娘を攫った男であるかのように、眼光鋭く宣言されてしまう。

 気圧されながらも、引いてはいけないと本能で察した。


「……ご忠告、しかと」

「見ておるからな」


 やけに濃い道中を過ごして、馬車はクレイバーン家に到着したのだった。







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