第14話 ギャラリー・ロッシュ
オーナーや従業員への挨拶もそこそこに、いつも使っている奥の事務室に入ると、フィオナは扉をきっちりと閉めた。
自分用の書類箱にある手紙が気になったが、そちらに手をつける前にハンスに説明をしなくてはならない。
小振りなソファーに二人で掛けると、先程ジャイルズと決めた「設定」を話していく。
「――なるほど。では、カフリンクスをお返しして、世間話をされているうちに意気投合されたと」
「そうなの。自分でも意外なんだけど」
「たしかにあの画商が来るまでは、お部屋からは楽し気な笑い声が時折聞こえておりましたね」
笑っていたのはリチャードばかりだが、そういうことにしておこう。
ハンスが実際に見聞きしたのは、贋作を売りつけようとしたゴードンをフィオナがやりこめる場面だ。
そこだけならば二人が恋に落ちる要素など皆無だろうが、前の晩の、王宮小庭園でのちょっとした事件も話せば、かなり態度を軟化させる。
「はあ、なんと……フィオナお嬢様の怪我は、そういった次第でしたか」
「木登りじゃないって信じてくれた?」
まだ包帯の巻かれた足をぷらりと前に出して笑ってみせれば、ようやくハンスも苦笑を浮かべる。
「背を押したご令嬢には物申したいですが、ローウェル卿が庇ってくださったのはよろしかったですね」
「そうね。でなければ、派手に転んでいたかも」
「そんなことがありましたら、この爺が黙ってはおりません。しかし……」
ハンスはまだ半分納得していない眼差しを浮かべて、なにやら考え込む。
必要とはいえ嘘をつくことへの後ろめたさから、演技ではなくフィオナは目を伏せてしまう。
身内同然のハンスまで騙すのは気が咎める。
だが、もしバレた時を考えると、芝居の片棒を担いだとして自分以外に非難や処分がいくのは避けたかった。
「じいや、怒ってる?」
「フィオナお嬢様。いいえ、爺は怒ってなど」
「だってじいやが『フィオナお嬢様』って呼ぶのは、すっごく怒ってるときだもの」
「……違いますよ。ただ、そう、心配なのです。奥様も同じくらいのお歳で、旦那様と突然恋に落ちましたからねえ」
フィオナはその言葉に顔を上げる。
ハンスはもともと、フィオナの母についていた使用人だ。結婚の際に、母と一緒にクレイバーン家に来たのだった。
ハンスは困ったように笑って、遠い記憶をたどるようにフィオナ越しに窓の外に目をやる。
小さな頃から体が弱かった母は、保養地で偶然出会った父と恋に落ち、周囲の心配と反対を押し切って結婚。
さらに無理を重ねて子どもを望み、亡くなった――もっと一緒にいたかったのは本音だけれど、生き切ったのだろうと娘のフィオナは思う。
幸いにもフィオナは健康そのものだ。
セシリアもだいぶ丈夫になり、医師からもそこまでの心配はもういらないだろうと言われている。
だがハンスにとっては、フィオナもセシリアも、母が遺した守るべき幼子だ。
母と似た一面を見つけるたび、同じように儚くなるのでは、と心配なのだろう。
その気持ちがくすぐったくて、フィオナも眉を下げて笑ってみせる。
「ですから、一目惚れといいますか、突然に恋心が芽生えるのはご両親譲りで、さもありなんという思いではあるのですが」
「じいや」
「ですがねえ。そのことと、ローウェル卿がフィオナお嬢様にふさわしいかどうかは別問題ですよ」
キッと眉間に力を入れてこぶしを握り、あの若造が、と誰かに聞かれたらよろしくない単語を口にする。
「じいや。あのね、どう考えても私のほうが、ロー……ジャイルズ様にふさわしくないというか、」
「いいえ、フィオナ様ほどの令嬢はそういらっしゃいません! なのになんですか、公道であのように軽々しく……!」
「あ、ええと」
ほっぺにちゅ、がよろしくなかったようだ。
(うん。私もびっくりした)
いくらリチャードの真似とはいえ、展開が早すぎる――かどうかは分からないが、ふつうに恥ずかしい。
挨拶のキスだって、頬に受けるのは身内や、それこそノーマンからくらいで免疫がないのである。
(お芝居だし、特別な意味があるわけじゃないって分かっていても……心臓に悪いなあ)
――耳に吹き込まれるように囁かれた声、少し温度の低い唇。
かすかに香るシダーウッドのコロンが分かるほど、近い距離。
今更いろいろと蘇って、じわじわと顔が熱くなる。
気まずくて頬を押さえて目を逸らすと、余計にハンスの機嫌は斜めになったようだ。
「ああ、フィオナお嬢様のそんなお顔など、まだ十年は先でよろしかったですのに……! ええい、あの小倅めがっ」
「そ、そんな顔ってどんな顔っ?」
よほどひどい顔をしていたのだろうか。
そして、ハンスの罵倒レベルがさらに上がってしまった。気持ちはありがたいと思うのだが、本当に、聞かれたらまずい。
なんといっても重鎮貴族のバンクロフト伯爵令息なのだ。本人の現爵位だって子爵である。
しがないクレイバーン男爵家やそこの使用人など、小指で弾いてしまえるのだ。
「ジャイルズ様のこと、あんまり悪く言わないでほしいなあ……って……あの、じいや?」
「フィオナ、お嬢様……っ!」
「ああもう、泣かないでよ、じいやってば」
「……どうしました?」
だばあ、と滂沱の涙を流すハンスにハンカチを差し出していると、軽いノックの後に画廊オーナーのエイゼル・ロッシュが入ってきた。
ゆるくカールした明るいブロンド、青い瞳は黒縁のメガネの奥でいつも柔和に細められている。
人当たりが良く信頼できるが、三十代半ばという若さでベイストリートの一等地に自分名義の店を構えるなど、やり手でもある。
フィオナの仕事の取引相手でもあり、代理人でもある彼に、フィオナはなんとか笑顔を見せた。
「オーナー」
「なんだか大変そうですねえ。それはそうと、お嬢様。手紙は見てくれましたか?」
「あっ、今! 今、開けるわね!」
盛大に洟をかむハンスから話を聞き始めたロッシュと交代でわたわたと席を立ち、フィオナは自分用の箱を手に取る。
中には確認や清書が必要な書類と、数通の手紙が入っていた。
デスクの椅子を引き、一通ずつ開封していく。
絵を探す人からの問い合わせ、前に手配した作品が届いたことへの礼状など――顧客との関わりは面倒事も当然あるが、それ以上に一件一件思い入れがある。
手紙の向こうにそれぞれの顔を思い浮かべながら、フィオナは取り掛かる順に並べていく。
幸い、急ぎの案件はなさそうだ。
ほっとしつつ箱の中を見ると、最後に残るのは待ちわびた叔父からの便りだった。
「お嬢様。ローウェル卿とお付き合いなさるんですか?」
「え、ええ。そう……なの、たぶん」
叔父からの手紙の封を開けたところで、事情を知ったロッシュから声が掛かる。
ドキリとしつつも頷くが、色事の話題に慣れないフィオナの頬は勝手に赤くなったようだ。
それを見てハンスはまた天を仰ぐ。
「……っく」
「ははは! こーんなかわいい顔見せられちゃあ、しょうがないですねえハンスさん!」
「ぐほっ」
慰めか檄を飛ばす意味合いなのか、ハンスの細い背中をばんばんと叩く。
顔に似合わず筋肉質な体をしているロッシュの励ましに、ハンスは涙を引っ込めてむせ返った。
「オーナー、じいやの背中が折れちゃう」
「おっと、これは失礼。ですが、ハンスさん。真面目な話、ローウェル卿は掘り出し物ですよ。女性関係もそうですが、取引の場でも悪い噂は聞かないですし。敵に回すと厄介ですが、基本的に理不尽なことはしないようですしね」
「そんなことは当然です」
スン、とハンスはそっぽを向く。
相手が誰であろうが気に食わないという態度は、フィオナ大事の表れであり、苦笑いしかできない。
「でも、お友達のラッセル卿みたいに慣れてはいないから、お嬢様の周りは少々うるさくなるでしょうね」
「え、それはどういうこと?」
「彼に懸想している令嬢は山ほどいますでしょう。自分の娘を伴侶に、と狙っていた親も多いですしね。そういう輩が、突っかかってくるんじゃないかと……うちの護衛をつけましょうか?」
高額な絵画を運ぶときや展示会を開くときなど、ギャラリーでは警備要員を複数雇うことがある。
馴染みの彼らを手配しようか、ということだった。
「さすがに、そこまでしなくても大丈夫だと思うのだけど」
思わぬ方向に話がいって、フィオナは驚いた。
ロッシュは真剣に進言してくれているが、どうもピンとこない。
小庭園で令嬢たちに囲まれた時、困惑したし面倒だとは思ったが、脅威には感じなかった。
ならば、自分でも対処のしようがあるだろう。
それに――
「昨日も、ジャイルズ様が助けてくれたし」
「おや、それはようございました。でも、一日中一緒にいるわけではないでしょう?」
「そ、それはそうだけど」
「ああ、ミスター・ロッシュ。ご令嬢の八つ当たりも気に掛かりますが、それよりお耳に入れたいことが。ロウストリートのゴードン氏をご存じですか?」
ゴードンの名前を聞いた途端、ロッシュの顔はさっと険しくなる。
偽物を本物と謀って売りつけようとした同業がいることは、伝えておく必要がある。
先程よりシャンとしたハンスは、バンクロフト伯爵家での一件を話した。
「オットー・ゴードンなる人物が、店を構えたことは承知しています。ただ……不思議なことに、私の知る限り、彼に直接絵を託している画家がいないのですよ」
まだ正式に開業したわけではないようだが、画廊店主たちでつくる組合にも未加入なのだ、とロッシュは言う。
そもそも、取引に画家やほかの画廊とのつながりを必要とするこの業界では、ぽっと出の人物が店を構えることはまず滅多にない。
だが、これまで彼が画壇に出入りしていたと知る者はなく、来歴も出自も不明。
雰囲気のよろしくない人物がこっそり出入りしていたとの情報もあって、ちょうど警戒していたところだったとロッシュは打ち明ける。
「一体どこから絵を持ってくるのか、気になっていました。まあ、外国の貴族がついている場合や、名義貸しの場合もありますし、一概には言えないのですが……そうですか。『レイモンドの新作』をねえ……」
呆れたように言ってソファーにもたれ、足を組み替える。
きっちりと締めたネクタイの前、胸元で交差させた指先を動かすのは、ロッシュが考え事をするときの癖だ。
「上手だったしよく似ていたから、かなり腕のある描き手だと思うの。レディ・コレットが思いとどまってくださって本当によかったわ」
大金を払って偽物を摑まされたなど、嘲笑の的だ。
芸術に精通しているバンクロフト家の出であり、社交界の花でもあるミランダなら、なおさら話題になったであろう。
「お嬢様ならランメルトでもデズムンドでも見破ったでしょうがね。よりにもよって、レイモンドとは」
「そうなのです。しかもあの男は、フィオナ様を随分恨みがましい目で見ていましてねえ」
心配そうなハンスの言葉にも、フィオナは怯まない。
取引に口を挟んだのは、絵の世界に属するものとしての正義感だけが理由ではなかった。
「だってじいや、黙ってなんかいられないでしょう! あんな……あんな、叔父様を利用するようなやり方は」
フィオナの手にある、叔父からの手紙。
「愛する姪へ」で始まる便箋の最後に記された署名は「レジナルド・レイモンド・ベイリー」――件の画家の名前だった。
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