第68話 対峙の時(後)

 フィオナはまた、離宮の廊下を歩かされていた。

 先ほどと違うのは、腕を掴むのはキャロラインではなくゴードンだということと、フィオナとの間にナイフがあることだ。


 驚いたことに、凶器を隠し持っていたのはゴードンではなくキャロラインだった。

 貴石で柄を飾った手のひらに収まる小刀は美術品のように美しいが、鋭利な刃先は十分に肌を裂くことができるだろう。


(そこまで私が邪魔だったの)


 王妃殿下の舞踏会は高位貴族が多く集まる。それゆえ武器に類する物の持ち込みは、たとえそれが装飾のための儀礼刀であっても許されていない。

 無粋を嫌って、警備の兵でさえ剣や銃を目立つように持ってはならないとお達しが出ているほどだ。


 もし危険物など持ち込んだことが分かれば、王妃への反意ありとみなされてもおかしくない。

 恋は盲目というが、今のキャロラインはまさにその状態だ。伯爵夫人の座への執着が恋と呼べるならば、だが。


 先ほどとは別の警備兵と目が合うが、脇腹に当てられたナイフのせいで声を上げることはできない。

 同伴するゴードンは完璧に詐欺師の仮面を被っており、具合の悪い女性を介抱する親切なパートナーに見えただろう。

 廊下に人はほとんどおらず、広間からの優雅な音楽が漏れ聞こえてくる。

 前を向いたまま心の中で深く息を吐いて、背後のゴードンに尋ねた。


「……私をどうするつもり?」

「見張られているのにも飽きたからな。お前を人質にこの国を出る」

「なっ!? あなたは直に解放されるのでしょう?」


 ゴードンは司法取引が成立して、重い罪に問われることはない。

 今は見張りがついているがそれだけで、時期を待てば解放されると聞いていた。


(それなのに……?)


 驚いて無理に振り向いたフィオナに、ゴードンは唇の端を上げて嗤った。


「それを待てと? 馬鹿馬鹿しい」

「罪を重ねるだけだわ」

「どうせなにをしたところで揉み消されて終わりだ」

「……どういうこと」


 確固たる口調で返されたそれは、ゴードン自身は罪に問われないということだ。傲岸不遜ともいえる態度は、思い出してみれば最初からだ。


(もしかして「詐欺師だから」ではなく、なにか根拠があって……?)


「歩け」

「っ、」


 乱暴に腕を引かれ、よろけながら進む。

 振りほどく力のない自分が悔しくて、せめて頭に浮かんだ疑問を解こうと必死で考える。


(最初から、一つずつ思い出して)


 叔父レイモンドの贋作。不審が多い彼のギャラリー。売られた絵に隠されていた文書。サックウィル卿。ルドルフ。隠れ家に残されたデッサン帳、ギャラリーにあった唯一の「本物」――


「……ポアレ?」

「!」


 宮廷画家だった彼女と関係があるのなら、ゴードンは王家との繋がりがあっておかしくない。

 さらに、サックウィル卿と彼を繋げるのは……王弟殿下だ。


(待って、でもあの方は)


 王宮の庭園で王弟と会った。

 顔を見たのは一瞬だったが、日に焼けた肌と、なにかを諦めたような静かな瞳が印象に残っている。

 とても、サックウィル卿やゴードンに加担するとは思えない。


「小賢しい」

「くっ!」


 急に背中を廊下の壁に押し当てられ、囲われて見下ろされる。廊下の灯に背後から照らされたゴードンは、瞳だけが炯々としていた。

 濃い色だと思っていたその瞳に潜む紫紺の色に、フィオナは息を呑む。


「目、が……」

「ああ、忌々しいことにな。作られた灯の中でだけ、俺の瞳の色は変わるらしい」


 紫紺の瞳は王家に特有の色だ。


「ゴードン、あなたはポアレと王家の……」

「俺をそのどちらとも紐付けるな!」


 ギリ、と押さえつける腕に力が入る。息が掛かるほどの近さで睨めつける視線をフィオナは逸らさず見つめ返した。


「不愉快だ。母もこの国も。皆、壊れてしまえばいい」


 絞り出すような低い声に、フィオナは目を見張る。

 ポアレは間諜の疑いを掛けられてこの国を追われ、戻った祖国でも扱いは不遇だったと聞く。

 苦しい生き方を強いられた結果が、目の前のゴードンであるのなら。


「……あなたは、」

「フィオナ!」


 廊下の反対端から名を呼ばれ、はっと振り向く。息を乱したジャイルズがこちらへ向って駆けてくる姿が見えた。


(――!!)

「チッ」


 舌打ちをしたゴードンがくるりと身を翻し手近な扉を開け、フィオナを強引につれて室内へ飛び込む。

 ゴードンが中から鍵を掛けるのと、追いついたジャイルズがドアノブを掴むのはほぼ同時だった。


 転倒したフィオナの上で、ダン! と扉を叩く音が響く。ガチャガチャと取っ手は激しく動かされるが、扉が開く気配はない。

 なにか怒鳴っているようだが、言葉までは聞き取れなかった。

 起き上がろうとするものの打ち付けた背中が痛くて力が入らない。床には脱げた靴が転がった。


「あの女の話が長くて時間を食ったな。馬車を奪って出るつもりだったが予定変更だ」

「無駄よ。すぐに鍵が届くわ」

「関係ない。無駄というなら、生きていること自体が無駄だ」


 ようやく半身を起こしたフィオナをあざ笑うように見下ろすと、ゴードンはナイフを突きつけながら首元のタイを緩める。


「……サックウィル卿に協力したのは、この国への復讐?」

「どうでもいいだろう」


 本当にどうでも良さそうに言葉を投げ捨て、解いたタイをしゅるりとフィオナの首に掛けた。

 絞められるかと身を強ばらせたがそうはならず、代わりにゴードンは苦虫をかみつぶしたように呟く。


「……母と同じ目をしやがって……」


 フィオナはポアレの容姿を知らない。だが目の前の男と自分に似ているところは見当たらず、それならこの琥珀の瞳かと思ったが違うようだ。


「色も声も違うのに。お前を見ると、どうして」


 苛立ちを滲ませた表情でゴードンが独り言のように漏らした声に、急にフィオナの頭が冷えた。

 扉は外から叩かれ続けている。自分はナイフを向けられて、首には今にも絞まりそうにタイが巻き付いている。


(……お母様……)


 こんな時なのに、ゴードンの零した呟きにフィオナの脳裏には自分の母が浮かんだ。

 声だけが思い出せない、淡く微笑む母の面影が。


「……お母様の声を、覚えているの?」


 なにか思惑があって尋ねたわけではない。ただ、自分にはない「母の声の記憶」があるゴードンが羨ましかったのかもしれない。

 予想外だったらしいフィオナの言葉に、ゴードンは一瞬眉を寄せたが気分を害しはしなかったようだ。


「死んだのは俺が七歳のときだからな。もっと早くに俺を捨てておけば、あんな生活をすることもなかったのに、馬鹿な女だ」

「捨てる?」

「顔だけはよかったから、子どもを手放せば結婚してもいいという男が何人かいた」

「でも、断わったのでしょう」

「おかげで何度も飢え死にしかけたさ。絵を描く以外に取り柄がないのに、その絵で生きていけなくて仕事も家も転々とさせられてな」

「……絵を手放しても、あなたを手放しはしなかったのね」

「はっ、詭弁だ」


 フィオナの目裏には、ポアレの描いた鮮やかな花々が今もまだ焼き付いている。あれほどの画家が筆を折るのはどれだけの葛藤があっただろう。


(……違う。きっと葛藤などなかった)


 自らの命を縮めると分かっていて、それでも子を望んだフィオナの母のように、ポアレもまた、息子を手放すことなど思いもしなかったに違いない。


 きっとゴードンも分かっている。しかしそれを上回る蟠りがあるのだろう――あのデッサン帳に執拗に残された花の絵には、愛情と憎悪と、募る悔しさが塗り重ねられていた。


「……お母様はただあなたの傍で、一緒に生きたかっただけよ」

「黙れ! 立て。これ以上絞められたくなければな」


 首に巻いたタイを持つ手に力を入れられ、脱げた靴もそのままにフィオナはよろりと立ち上がった。

 犬のように引かれて窓際へ寄らされる。ゴードンが腰高の窓を手荒く開けた次の瞬間、鍵が回される音が聞こえ、顎下を掴まれたフィオナの身体が浮いた。


「!?」


 急に息が詰まって、一瞬、何が起きたか分からなかった。遠くなりそうな耳に届いたジャイルズの声で我に返る。


「そこまでだ、ゴードン!」

「そこまでなのはお前たちだ。動くな。この女、落とすのと首を突くのとどちらがいい?」


 フィオナの足先はかろうじて床に触れているが、上半身はゴードンによって窓の外に突き出されている。風が乱した髪の向こうにナイフの刃が見えた。


「よせ! フィオナ!」

「馬車を用意してもらおうか。一切の邪魔立ては無用だ」


 ゴードンの腕がさらに外に伸ばされ、フィオナの足が完全に浮き上がる。身体に当たる窓枠が痛い。苦しさと不安定さに、首に掛けられたゴードンの腕を両手で必死に掴んだ。


(落ち、る……!?)


 ちらりと下に目をやると、真下は湖だった。穏やかな水面は月に照らされて平和そのものに揺れている。

 キャロラインとゴードンが人気のない廊下を選んで歩いたためどこにいるか分からなかったが、ここは広間とは反対翼にある二階の客室らしい。

 ガラス越しにもまばゆいシャンデリアの華やかな明かりが遠くに見え、音楽が風に乗って届いていた。


「っく、う……」


 ――息が詰まる。

 ゴードンとジャイルズがなにか言い合っているようだが、耳鳴りが邪魔してよく聞こえない。

 ぼやけるフィオナの瞳に、ジャイルズの後ろで銃を構える誰かが映った。


(王太子、殿下?)


 パン、と詰まった発砲音がして、フィオナの首に掛かる腕から力が抜ける。

 急に支えを失って落下しそうになったフィオナは、咄嗟に指に触れたカーテンを掴んだ。布が裂ける音がして、不安定な姿勢のままかろうじて空中で止まった身体をジャイルズの腕が即座に抱き留める。


「……フィオナ!」


 そのまま、二人して客間の床に倒れ込むように膝を突く。ジャイルズの肩越しに、窓際の壁に背を預けるようにしてうずくまるゴードンが見えた。


「あ……ジャイルズ、さま」


 まちがった。ジル様と呼ぶのだった、と気が抜けた頭で思う。

 苦しいくらいきつく抱きしめるジャイルズの腕と肩が、小刻みに震えている。その中でようやくフィオナは深く息を吐いた。


「……すまなかった」

「い、え」


 耳元で聞こえた謝罪がひどく胸に迫る。

 急に目頭が熱くなって涙がこぼれ、まともに返事ができない。


 息苦しそうなフィオナに気付いて、ジャイルズが少しだけ腕を緩める。

 大丈夫だと伝えたくて目元の滴を拭えば、肩に血を滲ませたゴードンが床に落ちたナイフを掴んで振りかぶっていた。


「……だめ!」


 残っていた渾身の力でジャイルズを突き飛ばす。だがフィオナにできたのは、ゴードンの手からナイフを奪い取るところまで。


 狙いは別にあったのだろう。ゴードンは迷いなく、フィオナの腰を掠うようにしてそのまま窓枠へ足を掛ける。

 見間違えでなければ、部屋に着いたばかりの王弟殿下に向って唇の端を上げて嗤ったようだった。


「ゴードン、彼女を離せ!」

「フィオナ!」


 浮遊感が全身を包む。水面へ向って落ちていきながら、血相を変えて窓から身を乗り出すジャイルズと目が合う。

 そのままフィオナに手を伸ばし、自分も窓から飛び出そうとするジャイルズを複数の腕が掴んで部屋に引き戻した。


 ――ああ、よかった。

 ジャイルズまで落ちなくてよかったと、そう思ったのを最後に、フィオナの身体は波音を立てて水中へと没した。


(っ――)


 落ちた衝撃で、フィオナを拘束していたゴードンの腕が離れる。ごぼごぼと泡の音が響く中で、いつの間にか一人になっていた。

 目を凝らすが、夜の湖の中は何も見えない。


(服が、邪魔)


 息が続くうちに、まだ握っていたナイフでドレスを裂き、腰紐を切ってパニエを切り離す。

 まとわりつく布を脱ぎさってナイフを手放すと、少し動きやすくなった。


(大丈夫、落ち着いて)


 苦しい。苦しいが、パニックになったら負けだ。

 早鐘のように打つ心臓を宥めながら、呼吸を静めてただ上を目指す。

 パシャリ、と伸ばした指先が水面に触れたときにはかなり限界を感じていて、あまりの安堵に意味が分からないくらいだった。


「っ、ふっ……はぁ……っ」


 顔を出したタイミングで思い切り息を吸い込む。掴まる浮きがない状態で長くはいられず、また沈みそうになる。離れていないはずの陸地が遙か遠くに思えた。


(まず、息を)


 浮きつ沈みつする身体をどうにか保とうとするフィオナの耳に、ドンと大きな音がする。ついで、夜空に大輪の花が咲いた。


(花火……?)


 余興だろうか。フィオナが落ちた反対側の岸から色とりどりの花火が次々と打ち上げられ、離宮の客からは歓声が湧いた。


「――フィオナ、こっちだ!」


 歓声と打ち上げの音に紛れて、聞き慣れた声を耳が拾う。

 ぱちゃぱちゃと水を掻くフィオナの目に、ボートを漕ぐレジナルドとデニスが映った。

 どうしてここに、と思う前に舟に引き上げられ、レジナルドの上着に包まれる。


(助かった、のね……)


 ほっとしたフィオナの胸に浮かんだのは、安堵よりもジャイルズのことだ。

 ルドルフを追いかけた時に見せたような、生真面目な顔に少しの憤りを滲ませた表情のジャイルズをすぐそこに感じる。


(また心配かけちゃったな)


 でも――ものすごく疲れた。

 体力はもう限界で、声を出すのもままならない。

 よかった、よかったと半ば泣いているようなデニスの声ももう遠い。


 起きたら謝ろうと思いつつ、フィオナはレジナルドに身を預けてそのまま目を閉じたのだった。







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