第10話 リチャードの提案

 表情が動くと、氷の彫像が人間になったように感じて、フィオナは思わず目を奪われた。

 昨晩の令嬢たちがもしここにいたら、きっと叫んで失神したに違いない。


「あの、では、確かにお返しいたしました。経緯もご納得いただけたようですので、私はこれで」

「え、もう帰るの?」

「? お返しに来ただけですから」   


 テーブルに残されたハンカチをしまいながら言うと、驚きの声を上げたリチャードだけでなく、ジャイルズにまで意外そうな顔をされてしまった。

 カフリンクスを返していきさつも話した。用事は済んだと立ち上がろうとするフィオナに、リチャードが慌ててテーブルの上を指さす。


「待って、せめてお茶くらい飲んでいきなよ。珍しくダルトンが淹れたんだよ」

「……では」


 ダルトンというのはさっきの執事だろう。こういった場のもてなしは形式上のことが多いのだが、そう言われてしまうと手を付けないわけにもいかない。

 浮かしかけた腰をもう一度ソファーに下ろして、フィオナはまだ湯気の立つカップに手を伸ばした。


「あ、おいしい」


 口に含むとふわりと香りが立ち昇り、渋みのない爽やかな味が広がった。

 大げさに安堵の息を吐いたリチャードが、にこやかに話しかけてくる。


「お気に召してよかった。ダルトンの苦労も報われるよ」

「バルディー産でしょうか」

「おや、分かるんだ?」

「この香りは忘れません」


 叔父の土産に、この茶葉が入っていたことがあった。

 普通に淹れるとただ苦いだけだが、茶葉の量と湯温を工夫することで独特の香気とまろやかな甘みが出る。楽しむのに少々コツのいるお茶だ。

 満足できる一杯にたどり着くまで、何度も失敗した記憶も新しい。


「バルディーの茶葉は険しい高山でつくられるそうですね。高地でしか育たない樹で植林も難しく、収穫も大変だと聞きました」


 最近になってこの国でも流行り始めたが、値段も大変に高級である。

 こうして突然の訪問客に気楽に出せるくらい常備しているなんて、さすがは伯爵家だ。


「へえ、詳しいんだね」

「その山からの景色が素晴らしいのだそうです」


 特に朝がいいという。

 雲を透かして昇る朝日、信じられないくらい近くで刻々と色を変える空。急斜面で岩にしがみつくようにしながら飽きることなく見つめたと、叔父がうっとりと話してくれたその景色を自分もいつか見たいと思う。

 聞いた話をそのまま伝えるフィオナを、珍しいものを見るように二人は眺めた。


「茶園から見える景色なんて、気にしたことなかったなあ。しかし、カフリンクスを拾ったのがこちらのお嬢さんでよかったな、ジル」

「……ああ」


 なんのことかわからず軽く小首を傾げたフィオナに、ジャイルズはまた苦笑いを浮かべた。


「最悪の事態を考えていたので」

「最悪、ですか?」


 詐欺などに使われたかもしれないのは確かだが、最悪とはまた穏やかでない。


「このカフリンクスを利用してあらぬ噂を捏造され、その結果、結婚しなければならない事態といいますか」

「ああ、そういう……最悪というか、悲劇ですね」


 さっきからフィオナに話しかけるのはリチャードばかりで口数は少ないが、質問にはジャイルズもちゃんと答えてくれる。

 つい、ため息交じりに同意を示したら、リチャードに意外そうにされてしまった。


「そう思うんだ?」

「私も困っていますので」

「えっ、もしかして君も結婚したくない人?」


 平々凡々なフィオナには似合わない悩みだと思われただろうが、まさに今、その困難に直面しているのだ。

 厭味なく興味津々に身を乗り出すリチャードのほうへ、フィオナは顔を向ける。


「目下迫っているのは婚約ですけれど、どうにか回避できないかと。悩み過ぎて頭が痛いです」

「どうして。相手が嫌? すっごい年上のお爺さんとか?」


 思わず打ち明けてしまったのは、ずっと一人で悩んでいた鬱屈がたまっていたのだろう。

 好奇心を隠さないリチャードの直球な質問に、フィオナは小さく吹き出してしまう。


「いいえ、幼なじみです。いい人ですよ」

「それなら、なにも支障がないように思えますが」


 話に加わったジャイルズは、本当に不思議そうにしている。

 それはそうだろう。見知らぬ相手へ突然嫁がされることも少なくない中、むしろ恵まれているとさえ言える。


「傍から見たら、幸せな結婚に見えるでしょうね」

「でも、そうではないと? ……すみません。詮索するつもりはないのですが、そのように言われる方に初めてお会いしたので」


 不躾な質問だったと恐縮するジャイルズに、フィオナは首を振る。

 フィオナの年頃の令嬢で「結婚したくない」などと言う者など、まずいない。

 もしそう思っていても、ほぼ初対面の異性に向かって、こんなにあけすけに話さないだろう。


「私、結婚よりもしたいことがあるのです」

「したいこと、ですか」

「仕事を辞めたくないですし、外国にも行ってみたいのです」


 二人は目を丸くした。

 働く令嬢も珍しいが、仕事を続けたいから結婚したくないという理由は、もっと珍しい。

 面白そうに話の行方を窺っていたリチャードも、さすがに予想外だったようで聞き返してくる。


「仕事って、君、働いてるの?」

「はい、さすがに表立ってはいませんが。叔父があちこちの外国から絵を送ってくるので、その手伝いを」

「ああ、美術商か」

「叔父は滅多にこちらに戻りません。代わりに輸送の手続きとか、欲しいと言われる方や画廊との間を取り持ったり交渉したり、金銭の管理とか、そういったことです」


 叔父は事務仕事が得意ではないし、損得の絡む交渉も苦手だ。

 輸送中に作品が紛失しそうになったり、言いがかりをつけられて無料同然の取引をさせられそうになったのを見かねて手伝っているうちに、すっかり任されるようになったのだ。


 王都にある知り合いのギャラリーを窓口にして、領地にいる時は手紙で、シーズン中は画廊の事務所に出向いて作業をしている。

 オーナーに請われて商談に顔を出す時もあるが、基本的にフィオナは裏方だ。

 叔父の代理とはいえ、高額の商品を表立って扱うにはまだ年も若く、女性という点も不利なのだ。


 そう打ち明けると、ジャイルズとリチャードは顔を見合わせた。

 変わり者の令嬢と思われているのだろうが、今後も接点のなさそうな人にどう思われてもいいだろう。

 それより、他人に話したことで、塞いでいた気分が軽くなっていた。


(つい話しちゃったけど、クレイバーンとは縁のない方々だし、別にいいわね)


 呆れられたであろうと思うフィオナの予想に反し、ジャイルズは感心したように呟く。


「聞いていると秘書の仕事のように思えますね」

「そうですか? そこまで難しいことはしていないと思いますけれど」


 叔父が絵を送ってくる頻度はそう多くない。細々とした雑務は常にあるが、負担かと言えばそうでもない。

 それよりも、働いて世の中と直接繋がりを持ち、かつ金銭を得るという実感は得難いものだ。美しい物に触れられる上、身分の関係なく各方面の人達と会話ができることも楽しくて仕方がない。


 そんなことをかいつまんで話せば、ジャイルズはますます考え込み、リチャードは面白そうにその先を促してくる。


「それで、外国で暮らすというのはその叔父さんと一緒に?」

「はい、やはり同行したほうが効率がいいですから。それに、なにか領地の助けになるようなものが見つかるかもしれません。とはいっても、色々な国を訪れてみたいというのは、小さい頃からの夢なので、それが一番の理由でしょうか」


 来年、妹が成人したら旅立つ予定を立てていたのだとフィオナは語る。


「そのために言葉も勉強しました。でも結婚したら、仕事を続けるのも家を空けるのも無理でしょう?」

「一般的にはそうですね……では、婚約は家の都合で?」

「要は、こんなじゃじゃ馬娘を落ち着かせたくて、私に内緒で話を進めているのです。知ってしまって、よかったのか悪かったのか」


 はあ、と吐いてしまった溜息に頬を押さえる。

 親不孝なのは重々承知だが、現在夢中になっている仕事も、幼少からの夢も、そう簡単に思い切れるものではない。


「外堀はもうほぼ埋められて……あ、申し訳ありません。私ばかり話して」

「いや、実に興味深いよ。話しついでに、ミス・クレイバーン。そうすると、相手は誰であれ結婚の意志はないということだね」

「え? ええ。少なくとも数年は」

「なるほど。じゃあ、俺かジルが求婚したら?」

「おい、リック?」


 一体なんのことかと、フィオナはぽかんとする。突然引き合いに出されたジャイルズも慌てて身を乗り出した。

 リチャードは企むような笑みを浮かべてジャイルズを宥めている。友人をからかっているのだと分かって、フィオナはおかしくなった。


「ふふ、そんなことありえませんけれど。はい、お断りいたします」

「ははは! あっさりだなあ。うん、いいこと思いついた」


 リチャードはぱん、と両手を打ち合わせると、フィオナとジャイルズに向かって片目を瞑ってみせる。


「君たちが恋人になればいい」









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